目白通り

東京都千代田区から練馬区に至る道路の通称

目白通り(めじろどおり)は、東京都千代田区から練馬区に至る道路の通称である。終点において関越自動車道の始点である練馬インターチェンジに接続しており、都心部との交通接続を担っている。おおむね東京都市計画道路幹線街路放射第7号線に相当している。

構成路線編集

都市計画編集

おおむね東京都市計画道路放射第7号線に相当する。ただし、

  • 江戸川橋交差点(文京区)から西落合一丁目交差点(新宿区)は該当しない。放射第7号線のこの区間は目白通りのバイパスとして整備され、通称道路名は新目白通りとなっている。目白通りの同区間は新青梅街道とともに補助第76号線に相当している。
  • 放射7号線は練馬ICからさらに西へ伸びており、すでに北園交差点(練馬区)まで供用されているが、この区間について通称道路名は設定されていない。

歴史編集

江戸時代江戸清戸(現・清瀬市)を結んでいた往来(清戸道)に起源がある。おなじく江戸時代に関口駒井町(現・文京区関口)にあった新長谷寺目白不動にちなんで、目白坂、目白台と呼ばれるようになり、そこから目白通りの名がついた。昭和に入り都市計画道路の放射第7号線が決定されると、昭和10年ごろ郊外部(西落合一丁目交差点-豊玉北六丁目交差点)で整備が進み、この区間は道幅から十三間道路と呼ばれるようになった[1]高度経済成長期になるとオリンピック東京大会にむけた道路整備が行われ、並行して主要道路に通称が付けられることになり、この時はじめて公的に「目白通り」と呼ばれることになった[2]。なおこの時は現在の富士街道を含む都道8号線の全線(九段下から田無町)が目白通りとされ、現在の形になったのは1984年の改定時である[3]

沿革編集

  • 1927年(昭和2年)8月10日 - 東京都市計画道路新設認可(放射第7号線)[4][5]
  • 1946年(昭和21年)3月26日 - 都市計画決定(放射第7号線)[6]
  • 1950年(昭和25年)3月2日 - 放射第7号線の計画幅員縮小[7]
  • 1962年(昭和37年)4月25日 - 目白通りの通称が設定される[8]
  • 1963年(昭和38年)12月16日 - いわゆる「オリンピック道路」として豊玉北六丁目交差点から谷原交差点までが開通[9]
  • 1971年(昭和46年)12月20日 - 関越自動車道(練馬IC-川越IC間)が開通[10]
  • 1984年(昭和59年)5月1日 - 通称道路の変更により現在の経路となる[3]
  • 2001年(平成13年)3月4日 - 西武池袋線の高架化に伴い中村陸橋が除却される[11]

参考文献編集

  1. ^ 「失われた「舗装平板」 新宿西落合-練馬区役所先の十三間道路」『読売新聞』、1951年12月12日、朝刊4面。
  2. ^ 通称道路名設定事業の経緯及び概要について”. 東京都建設局. 2019年9月19日閲覧。
  3. ^ a b 『東京都通称道路名設定委員会報告書』東京都、1984年、101頁。
  4. ^ 昭和2年内務省告示第409号 NDLJP:2956652/1
  5. ^ OY-1-130-1 東京都市計画道路網図 (1) (pdf)”. 市政専門図書館デジタルアーカイブス. 後藤・安田記念東京都市研究所. 2019年9月19日閲覧。
  6. ^ 昭和21年戦災復興院告示第3号 NDLJP:2962266/2
  7. ^ 昭和25年建設省告示第112号 NDLJP:2963484/2
  8. ^ 東京都通称道路名設定公告(1962年4月25日)整理番号18
  9. ^ 「“五輪道路”第一号が完成」『朝日新聞』、1963年12月17日、朝刊14面。
  10. ^ 1971年(昭和46年)12月18日日本道路公団公告第71号「有料道路「関越自動車道(東京川越区間)」の料金の額及び徴収期間の公告」
  11. ^ 「西武池袋線中村陸橋で“逆立体化工事”」『読売新聞』、2001年3月5日、朝刊23面。「目白通りが西武池袋線をまたいでいた練馬区の中村陸橋(向山一)で、三日深夜から四日早朝にかけ、道路と線路の上下を入れ替える「逆立体化工事」が行われた。」

外部リンク編集