石舞台古墳

奈良県明日香村にある古墳

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。埋葬された人物は蘇我馬子が有力視されている。1952年昭和27年)3月29日、国の特別史跡に指定された。一般の人が見学可能である。

石舞台古墳の全景。全体は方形である。周囲は斜面になっており、表面には貼石が置かれている。貼石は草が覆って見えづらいが、この写真でも斜面の下のほうには貼石が見える。
石舞台古墳
所在地 奈良県高市郡明日香村島庄
位置 北緯34度28分0.44秒 東経135度49分34.14秒 / 北緯34.4667889度 東経135.8261500度 / 34.4667889; 135.8261500 (石舞台古墳)座標: 北緯34度28分0.44秒 東経135度49分34.14秒 / 北緯34.4667889度 東経135.8261500度 / 34.4667889; 135.8261500 (石舞台古墳)
形状 方形
築造時期 7世紀初頭
被葬者 (推定)蘇我馬子
史跡 国の特別史跡「石舞台古墳」
地図
石舞台古墳の位置(奈良県内)
石舞台古墳
石舞台古墳
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概要編集

この古墳は全体としては方形(四角形)である。1933年の京都大学の浜田耕作の発掘により方形であることがはっきりした。(また現在ではドローン撮影などの空中撮影で簡単に確認できる。NHKの近年の番組でも空中撮影した映像を番組で流しており、誰の眼にも明確に四角形である)。墳丘の周りに幅5.9-8.4メートルの空堀がめぐり、さらにその外側に幅約7.0メートルの外堤が設けられている。外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルである(当古墳は全体的には保存されており、現場に行けば、現在も全体の形が確認できる)。 外側の約30度の傾斜面に、斜面の耐久性を高めるため、大きさ20-50センチメートル大の花崗岩の貼石(はりいし)が数千枚並べられている(千数百年前の築造当時の貼石が現在もそのまま現存している。現地に行けば今も誰でも周囲から見ることができる)。


方形をした当古墳の中央部には、現在、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。

中央部

(中央部については「中央の石室は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたがその土が失われた[要出典]」という。中央部の石室の周囲の封土(盛土)の形は、上部が剥がされているため明確ではなく、2段積の方形だった[要出典]とも、八角形だった[要出典]とも)

石室は両袖式の横穴式石室になっており、西南方向に開口している。花崗岩で作られた石組みである。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル。羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模である。また、石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石室の巨石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれた。

石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。羨道部と外堤から土師器須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出た[1]

なお外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたって、もともと周辺にあった古墳を削平し、土などを移したものと考えられている[2]

見学・入場

巨石が組み上げられた部分の基本的な外観は、当古墳が再注目されるようになった江戸時代から変わっていないが、江戸時代は石室と羨道部はかなり崩れていた。現在は修復され[3]、内部が公開されているので玄室内に入ることも可能である。

入場 8時から17時まで

  • 大人・大学生:300円
  • 高校生:200円
  • 中学生:150円
  • 小学生:100円

被葬者編集

被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している[4]三重中京大学名誉教授の上野利三は、石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれており肉眼でも確認可能、としている[5]

蘇我氏一族の墓はいずれも四角形(方形)であり、この墓もその伝統に沿ったと見なされている。

ただし被葬者に関して異説があるといえばあり、奈良大学水野正好[いつ?]、石の種類や築造年代などから蘇我稲目[要出典]と主張したという(出典の具体的な文献名と頁の明示が必要)。

研究・発掘史編集

石舞台古墳が文献に記されるのは、江戸時代になってからである[6]延宝9年(1681年)の林宗甫大和名所記』(和州旧跡幽考)に、石太屋というがあると記しており、陵とは前後の文脈から天武天皇の陵と了解できる[7]。「石太屋」(いしふとや)は大きな石で造った屋の意味で、これが「石舞台」と転訛したのではないかとの意見がある[8]嘉永元年(1848年)の『西国三十三所名所図会』にも、石舞台を天武天皇ののあとという記述があるが[9]、現在では天武天皇の墓とする説を支持する学者はいない。

地元では他に「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としている[10]

明治時代に喜田貞吉が『日本書紀』にみえる桃原墓が石舞台にあたるとする説を発表し、以後これが有力になった。

1933年昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。これより前には「前方後円墳ではないか」という説もあったが、貼石列、空堀、外堤の跡が見つかり、方形であることが判明した。発掘調査で古墳周囲の堀が見つかったのはこれが初めてのことであった[3]

1954年(昭和29年)から1959年(昭和34年)にかけて古墳の復元整備事業が行われた。この時、外側の堀を掘るために上を通っていた県道が迂回させられた。

ギャラリー編集

 
古墳全体のパノラマ写真。方形である。
 
古墳の中央部の、盛り上がって平らな部分のパノラマ写真。

周辺編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 門脇 1970, p. 106.
  2. ^ 網干善教「別冊太陽 飛鳥 古代への旅」(2005年、平凡社) p.33
  3. ^ a b 門脇 1970, p. 103.
  4. ^ 『日本書紀』巻第22、推古天皇34年5月丁未(20日)条。新編日本古典文学全集『日本書紀』2の589頁。
  5. ^ 上野利三 (2011-03). “『別冊太陽 飛鳥』所載石舞台古墳組石の写真に見える「馬子墓」字”. 三重中京大学地域社会研究所報 (23): 305-310. 
  6. ^ 門脇 1970, p. 102.
  7. ^ 林宗甫. “大和名所記  和州旧跡幽考 第十五巻”. 国際税務の福袋 International Tax Planning 加藤英之. 加藤英之. 2016年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月28日閲覧。[要検証]
  8. ^ 泉森皎「石舞台古墳」文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第3巻 原始3』同朋舎出版、1991年、46ページ。
  9. ^ 武庫川女子大学関西文化研究センターデジタル・アーカイブ西国三十三所名所図絵No.454[リンク切れ]No.455[リンク切れ]。2011年2月18日閲覧。
  10. ^ 網干善教著・太田信隆構成 『高松塚への道』 草思社、2007年10月、66-68頁。

参考文献編集

  • 門脇禎二 『飛鳥 その古代史と風土』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1970年。 
  • 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守・校注・訳『日本書紀』2(新編日本古典文学全集3)、小学館、1996年。

関連項目編集

外部リンク編集