福建台湾省
福建臺灣省
清の旗

1887年 - 1895年

福建台湾省の福建台湾巡撫の印章

福建台湾巡撫の印章

福建台湾省の位置
福建台湾省の位置
1894年当時の福建台湾省の行政区画
黒は支配が及ばなかった地域。灰色は台東直隷州の管轄区域だが、実際には支配が及ばなかった地域が多かった。
政庁所在地 台湾府(1887年 – 1894年)
台北府(1894年 – 1895年)
歴史
 - 政府による省設置命令 1885年
 - 設置 1887年
 - 廃止 1895年4月17日
現在 中華民国の旗 中華民国
台湾省の旗 台湾省[注 1]
台北市の旗 台北市
新北市の旗 新北市
桃園市の旗 桃園市
台中市の旗 台中市
台南市の旗 台南市
高雄市の旗 高雄市

福建台湾省: 福建臺灣省満洲語: ᡶ᠋ᡠᡤᡳᠶᠠᠨ
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メレンドルフ式転写: fugiyan taiwan golo)は、清代の台湾に存在した。略して台湾省: 臺灣省満洲語: ᡨ᠋ᠠᡳ᠌ᠸᠠᠨ
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メレンドルフ式転写: taiwan golo)とも称した。台湾府台北府中国語版台南府中国語版台東直隷州中国語版を管轄区域とし、現在の中華民国の実効支配地域(台湾地区)から福建省東沙諸島太平島中洲島を除いた領域に相当する。

清朝政府は1885年(光緒11年)に福建省を分割して新たに福建台湾省を設置することを命じたが、劉銘伝は省の設置はまだ時期尚早と考えた。最終的に1887年(光緒13年)に省の設置が実行に移され、1888年(光緒14年)に劉銘伝が初代福建台湾巡撫に任命された[1]。『清史稿』の『地理志』では福建台湾省の成立時期を1887年としており[2]、1886年1月20日に台湾総糧台が県丞の丞姜紹に銀を寄贈した際の受領書にも「福建省台北府新竹県」と記されている[1]。しかし、『清史稿』の『徳宗本紀』では福建台湾省の成立日時が1885年10月12日とされており、『疆臣年表』でも劉銘伝が台湾巡撫に任命されたのはこの日であると記されている[2]

沿革

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台湾に省を設置するという考えは、1737年(乾隆2年)5月10日に内閣の学者であり礼部侍郎であった呉金が行った提案が初の例である[1][3]。しかし政府は、台湾は官制上、総兵中国語版御史がいれば十分と考え、さらに当時の台湾には1府4県の行政区画しか存在しなかったため、この提案は採用されなかった[1]

1874年(同治13年)の日本による台湾出兵以降、清は台湾の地位を重視するようになったが、台湾の発展にどう対処するかについては2つの考え方に分かれた。丁日昌らは要人を派遣して監督させるのみで十分と主張し、袁保恒らは省の設置を主張した[1]。最終的に李鴻章が省を設置するのは得策ではないと主張したため、沈葆楨は「台湾の運営は福建に依存しており、2つに分けることはできない」として省を設置しないことを決めた[1]

1884年(光緒10年)に清仏戦争が発生し、フランス軍が台湾の基隆と滬尾(現:新北市淡水区)を攻撃した[1]。終戦後、欽差大臣左宗棠はかつて袁保恒が主張した省設置案に賛成する旨を上奏し「袁保恒の提案通り福建巡撫を台湾巡撫に改め、台湾と澎湖に関する全ての業務を台湾巡撫に管理させて、台湾の防衛に責任を持てるようにすべきである」と述べた[1][3]。戦争中に福建巡撫中国語版として台湾の軍事を取り仕切っていた劉銘伝も、福建巡撫の職を辞して台湾の開発に専念する決意を固めていた[1]。1885年(光緒11年)6月、政府は閩浙総督であった楊昌濬が福建巡撫の業務を兼務することを認め、劉銘伝に台湾の統治に専念するよう命じた[1]

1885年10月12日、西太后は軍務大臣と各国事務衙門大臣による会議の結果に基づき、「台湾は南洋に通じる玄関口で極めて重要であり、時勢に臨機応変に対処するべきだ。福建巡撫を台湾巡撫に改め、福建省の行政については閩浙総督が責任を負うものとする。組織の改編に関する一切の内容は該当の総督によって議論され、綿密に計画が組まれた[1][3]」という内容の詔書を公布した。劉銘伝は現在の台湾に独立した省を設置する余裕はなく、福建省と統合して「福建台湾巡撫」を設置して5年ほど待つ必要があると考え、11月23日に「台湾の統治組織の改編は当分の間困難」と上奏した[1]。閩浙総督の楊昌濬は台湾に新たに「台北道」を設置するか否かの議論に対してではなく封建的な区画の設置が必要と考え、12月25日に「台湾の改編に伴う藩司の増設」を上奏した。1886年1月16日、政府は2人の要望に応じ、甘粛新疆省中国語版の例を参考にして台湾への省の設置は引き続き進めながら、台湾と福建省を統合することを決定した。詳細については劉銘伝と楊昌濬の間で協議して決めさせることにした[1]

1886年(光緒12年)6月13日、劉銘伝と楊昌濬は会談を行って「台湾への省の設置に関する事項」を会奏した[1][3]。これには彰化県城中国語版(現:彰化市)を省都とすることが予定された。また、現在の台湾の行政区画は広大すぎるため、さらに細分化する必要があるとされた[1]。1887年(光緒13年)3月10日、政府は吏部の要請に応じて布政司の人員に1つ欠員を設けた[注 2][1]。9月18日、劉銘伝は福建台湾巡撫の印章の発行を要請した。10月3日、劉銘伝と楊昌濬は会談を行い、「台湾の郡県の再編」を会奏した[注 3][1]。前福建巡撫の岑毓英の提案により、省都は彰化県橋仔頭に変更され、台湾省城中国語版を建設することになった[1]。10月24日に政府により承認され、台湾の行政区画は正式に3府と1直隷州に再編された[1]

1888年(光緒14年)3月1日、劉銘伝は福建台湾巡撫として台湾に帰還し、3月3日から公務を開始した[1]。当初は省城が未完成だったため、劉銘伝は台北府中国語版に駐在した。1889年(光緒15年)、省城の建設が開始した。しかし、劉銘伝の辞任後に巡撫に就任した邵友濂により、1892年(光緒18年)に省城の建設は中止された。1894年(光緒20年)4月5日、邵友濂と閩浙総督の譚鍾麟により省都の台北府への正式移転が報告された[1]。邵友濂は劉銘伝が進めていた新政策、例えば西学堂や番学堂中国語版の廃止を実行した。経費節減や人民の休養などを理由に挙げている[3]

1895年(光緒21年)4月17日、清は日本との間に下関条約を締結した。これにより台湾は日本に編入されることになり、福建台湾省は廃止された。

行政区画

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1684年に台湾は清に編入され、台廈道中国語版が設置された。1727年に台湾道中国語版に改められた。1887年の福建台湾省設時、下部行政区画として台北府、台湾府、台南府、台東直隷州が存在した[4] [5]

台湾府:1684年設置。当初は台湾県中国語版鳳山県中国語版諸羅県中国語版のみを管轄していた。

台北府中国語版:1875年、台湾府を分割して設置。

台南府中国語版:1887年、台湾府を分割して設置。

台東直隷州中国語版:1888年設置。

官制

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巡撫1人(正二品)の下に布政使(従二品)、台湾道(加按察使銜、正三品)が設置された[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 2018年に行政院台湾省政府および台湾省諮議会の新年度予算をゼロとしたため、現在は事実上廃止されている。
  2. ^ 1887年3月18日、邵友濂が初代福建台湾布政使に任命された。
  3. ^ 台湾県中国語版雲林県中国語版苗栗県中国語版台東直隸州中国語版を新設し、元の台湾県中国語版を安平県に改称するとされた。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 劉寧顏(總纂)、王世慶 (1991-06-30). 《重修臺灣省通志》卷七·政治志(建置沿革篇). 台湾省文献委員会 
  2. ^ a b 莊吉發 (1998-12). “〈從故宮檔案看清代臺灣行政區域的調整〉”. 《臺灣文獻》 第49卷 (第4期): 127-148頁. 
  3. ^ a b c d e f 楊正寬 (1998-12). “〈臺灣建省演繹〉”. 《臺灣文獻》 第49卷 (第4期): 79-126頁. 
  4. ^ 臺東直隸州”. 臺灣大百科全書. 2016年3月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月31日閲覧。
  5. ^ 潘繼道 (2010-09). “《評介林玉茹著《殖民地的邊區:東臺灣的政治經濟發展》》”. 《臺灣史研究》 (中央研究院臺灣史研究所) 17 (3): 190.