立花 政俊(たちばな まさとし)は、江戸時代初期の武士筑後国柳河藩士。立花直次の子。柳河藩重臣家の立花両家の一つで「武の家」と呼ばれた立花内膳家の祖。通称は内膳、は宗繁。

 
立花政俊 (種俊)
時代 江戸時代初期
生誕 慶長13年(1608年
死没 寛文4年閏5月17日1664年7月10日
別名 通称:内膳、:宗繁
戒名 台照院殿渓雄宗繁日源大居士
墓所 台照院(柳川)
主君 立花忠茂立花鑑虎
筑後国柳河藩
父母 父:立花直次、母:筑紫広門の娘・永雲院
兄弟 種次種吉政俊忠茂種元
種俊、女(立花直時[1]室)[2]
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諸系図で諱を政俊あるは種俊とし、息子と混同するものもある[2]

生涯 編集

慶長13年(1608年)、立花直次の子として誕生。兄弟に柳河藩第2代藩主・立花忠茂や旗本の立花種吉などがいる。

寛永14年(1637年)の島原の乱の際において、親類の三池藩主で幼少であった立花種長に代わって三池藩兵95名を指揮。この功により、寛永15年(1638年)に丁銀690目及び上内村及び下内村に2000石を拝領されるが、半分の上内村(現在の大牟田市上内)1000石のみを受けており、これが内膳家代々の所領となったとされる。また、戦後に『島原陣記』を記した。

一方で所領については、「寛永十五年寅五月九日 有馬御陣二而御公儀~之御扶持方銀割符帳」(1638年)に「高千石・丁銀六百九十目・内膳様」とあり、万治3年(1660年)とされる「忠茂公御代之分限帳」に「高千石 内800石 上内村 内200石 坂井村 立花内膳様」とある。

寛文4年(1664年)閏5月17日に死去。戒名は台照院殿渓雄宗繁日源大居士。墓所は柳川の台照院。

なお、文久3年(1863年)に内膳家所領内の上内八幡宮境内に政俊没後200年を記念して宗繁神社が建立される。

脚注 編集

  1. ^ 種吉の孫。
  2. ^ a b 「三百藩家臣人名事典7」では政俊と息子で2代目の種俊の混同が見られる。「立花家記・おおむたの宝もの100選」で内膳家は立花政俊が創始、1千石、二代目は種俊が継ぐとあり、 「日本歴史地名大系」では宗繁を初代、種俊を2代目と区別されている。しかしながら、『寛政重修諸家譜』では立花直次の三男を種俊と記載し、娘を一人と載せている。

参考文献 編集

  • 「三百藩家臣人名事典7」(新人物往来社
  • 柳川市史編集委員会「柳川歴史資料集成第三集 柳河藩立花家分限帳」(福岡県柳川市)
  • 「日本歴史地名大系第41巻 福岡県の地名」(平凡社2004年
  • 「立花家記・おおむたの宝もの100選」
  • 「新訂寛政重修諸家譜・第2」(1964年、続群書類従刊行会)