竹下孝哉

日本の益子焼の陶芸家 登山家、探検家、翻訳者 (1941 - )

竹下 孝哉(たけした たかや[1]1941年[2][3](昭和16年)[1]3月27日[4] - )は、日本の栃木県芳賀郡益子町益子焼の陶芸家である[5]

窯元の名称は「蝶風窯」[4][2]

同じく益子焼の陶芸家である竹下鹿丸[6][7]の父親である[2][3][8][9][10]

陶芸家になる前は登山家探検家として活動していた[11][8][9][5][3]

そして、南米アマゾン川流域の原住民たちの過酷な現実と実態を綴ったノンフィクション『ナパニュマ アマゾン原住民と暮らした女』の訳者の一人である[12][13][14]

来歴 編集

1941年[2](昭和16年)[1]3月27日[4]台湾台北で生まれる[11][2][3]。終戦後に日本に引き揚げてきた[11]

静岡県で落ち着いた後[11]東京都立九段高等学校を卒業し[11]東京外国語大学の中国語科に入学した[11][3]

学生時代の1964年(昭和39年)、日本アルプスを登坂した[11]。また同年4月から8月にかけて、東京外国語大学ボリビアアンデス登山隊に参加[11][3][15][16]。チャチャコマニ山の南峰を初登頂し主峰にも登頂(第2登)[15][17][18]、ソラタ山群、アンコウーマ周辺、サハマなど20座の登頂を果たした[15][16]

1965年(昭和40年)に卒業した[5][1][2]後も、登山家の道を歩んだ[11][2]

洋書輸入会社で英語のカタログを日本語訳したり、日本語の文を英訳したりしながら2年ほど勤務したこともあった[11]が、1970年(昭和45年)にも共同通信社傘下の地方新聞社の企画で、再びアンデス山脈を登り歩いた[11]。この時に当時アンデス最高峰であったカサデロに、チリ人隊員2名と共に初登頂を果たしている[3][19]

またその4年後の1974年(昭和49年)の5月から12月に掛けて、冒険家として「奥アマゾン探検隊」の第二次前期隊の輸送担当として[5]十数名のメンバーと共に、南米のアマゾン川流域の探査活動を行った[11][8][3][9][20][5][21][12]

この時にアマゾン探検に参加したのは、この頃から「土器」に興味を持つようになっていたのも要因であったという[11]

そして原住民のインディオたちとも生活を共にするなど、「冒険家の浪漫」と共に生きていた[11][12]

その一方で「焼き物」への興味も尽きず、静岡県で高木伸[22]から一年半ほど作陶を学んだという[11]

そしてアマゾン流域の旅から帰ってから1975年(昭和50年)に益子にやってきて、村上誠吉[23][24]の家に寄寓し更に作陶技術を学び、大宮司[注釈 1]や浅野とも交流し、1976年(昭和51年)に益子に築窯し独立した[11][4][2]

こうして竹下孝哉という異色の経歴を持つ陶芸家が益子に生まれた[11][12][5]

そして作陶活動の傍ら、アマゾン川の探検で出会った一冊の洋書の翻訳も進めた。こうして1984年(昭和59年)に刊行されたのが、少女時代にアマゾン川流域の原住民に誘拐され、原住民の社会で過酷な生活を送った、エレナ・ヴァレロの半生を綴った自伝の日本語訳となる『ナパニュマ アマゾン原住民と暮らした女』である[12][13][14]

そして1985年(昭和60年)には登り窯を築窯し[1][2]2000年(平成12年)には長男の鹿丸と共に窖窯を築窯し、親子2人で7日間の焼成を行う作陶活動をしていった[2][9][25][26][27]

その一方で1983年(昭和58年)にはメキシコで、1989年(平成元年)にはコロンビアで土器調査を行い、他にも様々な山に登山に挑み、登頂などの成果を上げていった[3]

2011年(平成23年)の東日本大震災の時には窯が全壊[8][9]。その窯を1年ががりで修復出来たと思ったら、その翌年の2012年(平成24年)5月の春の益子陶器市の最終日に、茂木町益子町真岡市の広域に渡って発生した大竜巻で自宅が全壊。再び修復の日々となってしまった[8][9]しかしそれでも益子町の同業者のNPO団体である「MCAA」が動き、ボランティアとして23人もの人たちが集まりがれき撤去を手助けし[28]、更には友人たちの手助けにより自宅を修復。秋の益子陶器市前の9月には窯に火を入れることが出来るようになった[29]

そしてその後も作陶活動を続け、南米各国への旅行も続けている[3]

家族 編集

子に父・竹下孝哉の背中を見て育ち、「栃木県産業技術支援センター 窯業技術支援センター」修了後、その窯を引き継ぎ、益子町で陶芸家として活動する竹下鹿丸がい る[30][8][9][31][32][33][34][35][36][37][25][38][29][39][40]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 恐らくは同じく益子の陶芸家であった大宮司崇人のこと。

出典 編集

  1. ^ a b c d e 下野新聞社 1999, p. 222.
  2. ^ a b c d e f g h i j 竹下孝哉・鹿丸二人展”. コミュニケーションハウス ノイエス朝日 (2005年). 2023年9月5日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 竹下鹿丸(壺)の2022年11月14日のツイート2022年11月17日閲覧。
  4. ^ a b c d 最新現代陶芸作家事典,光芸出版 1987, p. 373.
  5. ^ a b c d e f 『奥アマゾン探検記 上』(中公新書)「隊員名簿」「◇第二次前期隊(一九七四年 五~十二月)」向一陽 著 ※1978年8月現在の情報であるため、竹下孝哉は「陶芸家」「住所は益子町」と記載されている - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月6日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  6. ^ 一般社団法人 益子陶芸国際協会事業 2017 益子新進気鋭作家 英国凱旋展” (2017年). 2023年9月6日閲覧。
  7. ^ 企画展 健在する日本の陶芸 ―不如意の先へ―” (2020年). 2023年9月6日閲覧。
  8. ^ a b c d e f 第五話 竹下鹿丸さん”. ゆたり (2017年7月6日). 2022年11月17日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g 陶芸家 竹下鹿丸さんと粘土掘りに行ってきました。”. ブログ / 酢飯屋 (2019年2月1日). 2022年11月17日閲覧。
  10. ^ 益子の陶芸家 平成12年,近藤京嗣 2000, p. 68.
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 小寺平吉 1976, p. 234-236.
  12. ^ a b c d e 『ナパニュマ アマゾン原住民と暮らした女 下』「訳者あとがき」竹下孝哉 P247 - 250 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月6日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  13. ^ a b 『ナパニュマ アマゾン原住民と暮らした女 上』エレナ・ヴァレロ 竹下孝哉・金丸美南子 訳 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月6日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  14. ^ a b 『ナパニュマ アマゾン原住民と暮らした女 下』エレナ・ヴァレロ 竹下孝哉・金丸美南子 訳 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月6日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  15. ^ a b c 『カラー世界の山々』(山渓カラーガイド 8) 「日本人による海外登山」「ヒマラヤ」「チャチャコマニ」P182 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月5日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  16. ^ a b 『現代アルピニズム講座 別巻』「主要登山年表(一九五七~一九六八)」「昭和39年(一九六四年)」P210 - 211 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月5日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  17. ^ 『カラー世界の山々』(山渓カラーガイド 8) 「日本人による海外登山」「ヒマラヤ」「チャチャコマニ」P181下の写真 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月5日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  18. ^ 「チャチャコマニ山」の意味や使い方 わかりやすく解説”. Weblio辞書. 2023年9月5日閲覧。
  19. ^ 読売新聞」1970年(昭和45年)12月23日付 朝刊 11ページ「ナゾの"カサデロ峰"確認」「日本・チリ合同隊登頂
  20. ^ 『奥アマゾン探検記 上』(中公新書)「Ⅰ オリノコ川」「南十字星の下へ」向一陽 著 ※竹下孝哉はP6に初記載されている - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月6日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  21. ^ 『アマゾン 奥地の自然と人』堀勝彦 著「あとがき」P195 -196 ※竹下孝哉は「苦楽を共にした探検隊員」として記載されている - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月6日、国会図書館デジタルコレクション個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧。
  22. ^ 高木伸 作 三越個展作品 森の詩「悠」/師:田村耕一”. D-plus-stock. 2023年9月5日閲覧。
  23. ^ 小寺平吉 1976, p. 241-242.
  24. ^ 糸島・志摩松隈にある物語のある器に出会える窯元「自然窯」”. meets糸島 (2023年8月21日). 2023年9月5日閲覧。
  25. ^ a b 「下野新聞」2003年(平成15年)4月4日付 7面「力感あふれる花器など200点」「竹下さんが初乗り個展 宇都宮市」※息子の竹下鹿丸の記事。
  26. ^ 「下野新聞」2003年(平成15年)9月21日付 7面「窖窯駆使し質感と生命力」「益子で竹下親子展」
  27. ^ 「下野新聞」2008年(平成20年)10月21日付 19面「息づく静かな生命力」「28日まで竹下親子展 益子」
  28. ^ 「読売新聞」2012年(平成24年)5月9日付 36面「茨城・栃木」「竜巻 がれき撤去 急ピッチ」「震災後のつながり生きる」
  29. ^ a b 「下野新聞」2012年(平成24年)11月5日付 3面「仲間の支援 復興着々」「竜巻から半年 「県内被災者」「益子の陶芸家・竹下さん」「復活の窯で新作出品」※息子の竹下鹿丸の記事。
  30. ^ 益子窯づくり”. gooブログはじめました! (2011年12月13日). 2022年11月17日閲覧。
  31. ^ 竹下鹿丸さんの工房へ”. うつわどころ くるみ (2019年2月19日). 2022年11月17日閲覧。
  32. ^ 竹下孝哉・竹下鹿丸 二人展 | コミュニケーションハウス ノイエス朝日2022年11月17日閲覧。
  33. ^ 竹下 鹿丸 展/Shikamaru Takeshita 陶器 | Exhibition | SAVOIR VIVRE2022年11月17日閲覧。
  34. ^ 竹下鹿丸 陶展”. manufact jam (2013年7月13日). 2022年11月17日閲覧。
  35. ^ 企画展 健在する日本の陶芸 ―不如意の先へ―”. 益子陶芸美術館/陶芸メッセ・益子 (2020年). 2023年8月27日閲覧。
  36. ^ 竹下鹿丸 (@shikamaru.t) - Instagram
  37. ^ 竹下鹿丸(壺を売る人) (@001shikamaru) - X(旧Twitter)
  38. ^ 「下野新聞」2009年(平成21年)8月9日付 20面「企画 益子に吹く風 県内の若手陶芸家たち 9」「竹下鹿丸(たけしたしかまる)さん」「楽しみつつ大地を器に」
  39. ^ 「下野新聞」2017年(平成29年)12月17日付 中学生サポート面「企画 仕事学 先輩に聞く 56」「陶芸家 益子町七井中出身 竹下鹿丸さん(40)」「イメージ壊す創作に魅力」
  40. ^ WITH FRIENDS|竹下鹿丸”. NEXT5×へうげもの - next5hyougemono2018 ページ! (2018年10月17日). 2023年12月15日閲覧。

参考文献 編集

  • 小寺平吉『益子の陶工たち』株式会社 學藝書林〈新装第一版〉、1976年6月15日、234-236頁。 NCID BN13972463国立国会図書館サーチR100000002-I000001346989-00, R100000001-I102538532-00, R100000002-I000001346989-00, R100000002-I000001474973-00 
  • 光芸出版編集部 編『最新 現代陶芸作家事典 作陶歴 技法と作風』株式会社光芸出版、1987年9月30日、373頁。ISBN 9784769400783 
  • 下野新聞社『とちぎの陶芸・益子』下野新聞社、1999年10月10日、222頁。ISBN 9784882861096NCID BA44906698国立国会図書館サーチR100000002-I000002841202-00 
  • 近藤京嗣 著、近藤京嗣 編『益子の陶芸家 平成12年』近藤京嗣(自家出版)、2000年11月、68頁。真岡市立図書館 検索結果矢板市立図書館 検索結果大田原市立図書館 検索結果 

関連文献 編集

『ナパニュマ』 編集

上下巻共に「国会図書館デジタルコレクション 個人向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧可。

『奥アマゾン探検記 上』 編集

「奥アマゾン探検隊 第二次前期隊」の参加であるため、上巻のみ記載あり。

「国会図書館デジタルコレクション 個人向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧可。

『アマゾン 奥地の自然と人』 編集

「国会図書館デジタルコレクション 個人向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧可。