竹田 利秋(たけだ としあき、1941年1月5日 - )は、和歌山県出身の学生野球指導者。社会科教諭。和歌山県立和歌山工業高等学校國學院大學卒業。東北高等学校仙台育英学園高等学校野球部監督國學院大學硬式野球部監督を経て現在は國學院大學硬式野球部総監督。

竹田 利秋
國學院大學硬式野球部 総監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県
生年月日 (1941-01-05) 1941年1月5日(83歳)
選手情報
ポジション 三塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導者歴

来歴 編集

和歌山工高3年春に三塁手として甲子園出場。大学卒業後銀行員を勤めていたが、当時東北高校野球部を指導していた同じく國學院大學野球部OBの松尾勝栄監督の後任者として招聘され、東北高野球部コーチに就任。

1968年、監督に就任し同年7年ぶりに夏の甲子園出場。これを最後に帰郷しようと考えるも、抽選会で自校を含む東北・北海道勢のチームとの対戦が決まった西日本のチームが、戦わずして勝ったといわんばかりの拍手歓声を挙げて喜ぶのに対し、東北・北海道勢の学校の生徒は下をうつむいている様子を見て、この状況をなんとか変えたいと思うようになり、以後、東北高を甲子園で勝てる強豪校へと育て上げる。

1985年夏の甲子園佐々木主浩投手を擁しベスト8へ進出したが、準々決勝で滋賀県代表・甲西高校にサヨナラ負けを喫し8月19日に辞意を表明した。宮城に来て20年が経過したのを機に今度こそ帰郷しようとした矢先、大阪府立市岡高等学校野球部出身の山本壮一郎・宮城県知事が「竹田を宮城県から出すな。」と乗り出し、県内最大のライバル校・仙台育英学園高へ異動となり9月10日に同校野球部監督に就任する事が発表された。(指揮を取り始めたのは10月から。)異動の背景には、東北高校野球部OBによる「竹田では勝てない」という声や、学校経営者との意見の食い違い、東北高校の教職員組合からの突き上げがあったとされる(東北高校は教職員の組合活動が盛んである)。仙台育英学園高では、1989年夏の甲子園大会で大越基投手を擁し準優勝するなど、こちらも甲子園で勝てる強豪校へと育て上げる。東北へ優勝旗を持って帰る事(白河の関越え)が夢だった。

1995年8月2日に出場が決まっていた夏の甲子園(第77回大会)を最後に仙台育英学園高の監督を退任することが発表された(後任は東北高校時代竹田自身の教え子である佐々木順一朗)。

1996年2月15日東都大学リーグ二部の母校・國學院大の監督に就任。教え子をプロへ何人か輩出するも一部昇格にはなかなか手が届かなかったが、2006年春に入れ替え戦を制して一部昇格を果たした。2010年8月6日に監督を退任し、総監督への就任が発表される。2018年11月2日に33年ぶりに東北高校野球部グラウンドを訪問し、現役部員を指導した。学校側から要請を受けて実現した。

略歴 編集

1968年 東北高校硬式野球部監督(社会科教諭)就任
1985年8月 東北高退職
1985年9月 仙台育英高校硬式野球部監督(社会科教諭)就任
1995年8月 仙台育英高監督退任
1996年2月 仙台育英高教頭職退任
1996年2月 國學院大學硬式野球部監督就任
2010年8月 國學院大退職、國學院大學硬式野球部総監督に

成績 編集

東北高 編集

  • 甲子園大会
(ベスト4:1回、ベスト8:5回)
選抜高等学校野球大会(出場9回) 9勝9敗
全国高等学校野球選手権大会(出場8回) 9勝8敗
優勝2回

仙台育英高 編集

  • 甲子園大会
(準優勝:1回、ベスト8:2回)
選抜高等学校野球大会(出場4回) 3勝4敗
全国高等学校野球選手権大会(出場6回) 9勝6敗

甲子園での成績 編集

  • 東北:出場17回・18勝17敗(春:出場9回・9勝9敗/夏:出場8回・9勝8敗)
  • 仙台育英:出場10回・12勝10敗・準優勝1回(春:出場4回・3勝4敗/夏:出場6回・9勝6敗・準優勝1回)
  • 通算:出場27回(2011年春現在、歴代4位)・30勝27敗・準優勝1回

國學院大 編集

  • 東都大学野球一部
2006年秋 3位
2007年春 5位
2007年秋 6位(二部降格)
2009年春 5位
2009年秋 3位
2010年春 4位
  • 東都大学野球二部 優勝3回
2003年秋(2部残留)
2006年春(1部昇格)
2008年秋(1部昇格)

主な教え子 編集

東北高 編集

仙台育英学園高 編集

國學院大 編集

関連項目 編集