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箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、建武の新政時代の1336年1月24日ユリウス暦)(建武2年12月11日)に、足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に、参集した軍勢との間で行われた合戦。後醍醐天皇建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。

箱根・竹ノ下の戦い
Hakone sc05540.jpg
箱根山
戦争:建武の乱
年月日1336年1月24日建武2年12月11日
場所:箱根と、竹之下(現:静岡県小山町
結果:箱根は京方が優勢◇竹ノ下は足利勢の勝利=足利方の勝利
交戦勢力
新田軍(京方) 足利軍
指導者・指揮官
Japanese Crest Nitta hitotu Hiki.svg新田義貞
Japanese Crest Nitta hitotu Hiki.svg脇屋義助
Kamon ashikagafutatuhiki.png 足利尊氏
Kamon ashikagafutatuhiki.png 足利直義
戦力
-7万7千騎 -24万騎
建武の乱

原因編集

1333年元弘3年/正慶2年)鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実から乖離した政策の数々に武士は不満を募らせた。1335年(建武2年)発覚した西園寺公宗北条泰家の陰謀は失敗に終わったが、これをきっかけに全国の旧北条氏所領で北条残党の蜂起が相次ぐ。特に7月信濃諏訪氏の支援のもと蜂起した北条時行は、各地の反建武政権勢力を吸収し、足利直義を追い出し、鎌倉を占領する勢いを見せた。(中先代の乱)

これに対し、足利尊氏は時行を討つために自分を派遣するように後醍醐天皇に再三要請するが、尊氏が自立することを怖れた後醍醐はそれを許可しなかった。 しかし尊氏は無断で関東に出兵する。後醍醐は追認で尊氏を征東将軍に任じた、結局、時行の反乱は鎮圧された。

戦後、尊氏は対立関係にあった新田義貞の所領を勝手に没収し、建武政権では恩賞方が行う恩賞として分配するなど自立の意思を示した。後醍醐は再三帰洛命令を出すが尊氏は無視し、義貞を非難する文書を送り返すだけであった。義貞は反論の文書を提出し、審議の結果義貞の訴えを認め、尊氏を討伐することに決定し、義貞に宣旨を下した。[要出典]

経過編集

11月、義貞は尊良親王を奉じ、軍を率い東海道を下った。尊氏追討軍には多数の公家も参加している。朝敵となることを恥じた尊氏が出家するなど足利側の士気が上がらなかったため、尊氏軍は直義が中心となり作戦行動に出る。義貞は三河矢作川遠江鷺坂駿河手越河原の戦いで迎撃に出た直義軍を次々と打ち破った。義貞軍は投降してきた軍勢を吸収し、伊豆国府(三島)を占領し、鎌倉へ着々と軍を進めた。義貞が箱根に迫ったとの報に接し、一時出家していた尊氏が直義の説得に応じ、戦線に復帰する。

京側は 義貞が三島で軍を集結させると軍を二方面に分け、自らは搦め手軍の大友・菊池など7万騎を率いて箱根峠に進み、大手軍は実弟脇屋義助を副将軍に 竹ノ下へ中務卿親王(尊良)、諸庭の輩、北面の輩(500余騎)、ら7千騎が向かい足柄峠へ進軍させる。

尊氏軍は直義が箱根に布陣し、尊氏は竹ノ下前面の足柄峠に布陣。京側は箱根には新田義貞・大友・菊池など7万騎が向かう。

12月11日両軍は激突する。箱根方面では義貞軍が直義軍を押し気味に戦局が展開する。尊氏と義助の主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となった。尊氏の参陣で志気が上がる尊氏軍が押し気味に戦局が展開し、さらに翌日になって大友貞載塩冶高貞が尊氏軍に寝返ったため、義助軍は総崩れとなり敗走する。その報を受けた義貞は、箱根口の戦いでは大勝しながらも、退路を断たれるおそれが出たため軍を撤退させる。この情勢を見て手越河原の戦いで投降し義貞軍に加わっていた佐々木道誉も尊氏軍に寝返り、義貞軍も総崩れとなった。この時に尊良親王の近侍であった中将二条為冬が戦死した。13日には伊豆国府を尊氏軍が奪回し、義貞軍は東海道を総崩れで敗走した。天竜川に架かる浮き橋を義貞が遅れてくる味方のために残したと、どちらかというと足利寄りの『梅松論』には書かれているが、一方南朝寄りの『太平記』には浮き橋を斬って退却したと、全く逆に書かれている。