米川文子
地歌・生田流箏曲家の名跡
初代
編集現在の岡山県高梁市間之町生まれ[2]。ロシア文学者・米川正夫の妹[2]。幼い頃から箏を姉の暉寿(てるじゅ)に学び、1905年、上京、三味線を小井出といに学ぶ。1936年、第一回地歌舞研究会を開催、関西の芸である地歌を東京に広めた。1966年、人間国宝、1978年、日本芸術院会員、1981年、文化功労者。二代目は初代米川文子の姪で兄・清の長女である。100歳没。墓所は多磨霊園。
刊行書目
編集二代目
編集初代の兄の娘。本名は操[3]。兵庫県神戸市の生まれ、1939年に初代の門下。1950年に文部大臣賞受賞、1993年に芸術選奨文部大臣賞、1994年に紫綬褒章受章、1999年に二代目米川文子を襲名。2000年に勲四等宝冠章受章、2008年に人間国宝認定、2013年に日本芸術院賞・恩賜賞。2024年11月1日、慢性心不全のため東京都大田区の病院で死去した。98歳没[3]。
脚注
編集- ^ 日本人名大辞典+Plus デジタル版. “米川文子(初代)とは”. コトバンク. 2021年12月9日閲覧。
- ^ a b “米川文子 よねかわ ふみこ”. 高梁川流域連盟ウェブサイト. 高梁川流域ゆかりの偉人・賢人:高梁市. 高梁川流域連盟. 2024年2月15日閲覧。
- ^ a b c “生田流箏曲家で人間国宝の米川文子さん死去 98歳”. 産経新聞. (2022年11月1日) 2024年11月1日閲覧。