羊祉
経歴
編集父の羊規之は南朝宋の任城県令で、北魏の太武帝が南征して鄒山に入ったとき、宋の魯郡太守の崔邪利やその属県の徐通・愛猛之らとともに降伏して、鉅平子の爵位を受け、雁門郡太守に任じられた。
羊祉は刑名学を好み、司空令輔国長史となって、鉅平子の爵位を嗣いだ。官の資産を横領して、私的に邸宅を建設したため、御史に取り調べられて死罪に相当すると宣告されたが、孝文帝により遠隔地への徙刑に減刑された。後に洛陽に帰還した。500年(景明元年)、将作都将となり、左軍将軍の号を加えられた。503年(景明4年)、持節・梁州軍司となり、行梁州事の楊椿とともに楊会の反乱を討った。505年(正始2年)、魏軍が蜀を攻撃すると、羊祉は仮節・龍驤将軍・益州刺史となり、剣閣に進出したが、撤退した。龍驤将軍のまま秦梁二州刺史となり、征虜将軍の号を加えられた。羊祉の統治は残忍で、汚職にまみれたものであった。羊祉は人を掠って奴婢に落としていたため、御史中尉の王顕の弾劾を受けて免官された。514年(延昌3年)、高肇が南征の軍を起こすと、羊祉は光禄大夫・仮平南将軍として再び起用され、持節として3万の兵を率いて涪城に向かった。515年(延昌4年)、目的地に着かないうちに宣武帝が死去したため、軍を返した。羊祉は夜間に行軍して道に迷い、その責任を隊副の楊明達に押しつけて斬り、その首級を路側にさらした。御史中尉の元昭の弾劾を受けたが、赦免された。516年(熙平元年)、平北将軍の号を加えられた。2月12日、洛陽の徽文里の家で死去した。享年は59。安東将軍・兗州刺史の位を追贈された。諡は景といった。
妻子
編集妻
編集男子
編集女子
編集- 羊顕姿(早逝)
- 羊景姿(鄭松年の妻)
- 羊華姿
- 羊淑姿