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耶律 留哥(やりつ りゅうか、1165年 - 1220年)は、に属した宗室につらなる契丹人であり、のちに金に反乱を起こし、東遼政権を樹立した人物である。妻は姚里氏、子は耶律薛闍ら。

生涯編集

耶律留哥は元来金の北辺に居住していた。モンゴル族チンギス・ハーンが漠北で勃興した際に、金はの遺民の反乱を警戒し、遼民1戸に対し女真民2戸で監視させる政策を採用した。これに不満を募らせた耶律留哥は、1212年に隆安(現在の吉林省農安県)、韓州(吉林省梨樹県)一帯で叛乱を起こした。

金は兵を発し追捕を試みたが、これらは全て留哥により撃退されている。耶律留哥は同族の耶律耶的の軍と合流し、数ヶ月で十数万の軍勢を率いるに至った。衆人は留哥を都元帥に、耶的を副帥に推戴し遼東地区で大きな勢力を有するに至った。モンゴル軍がこの地に侵入した際には、耶律留哥は契丹軍の名目でモンゴルの勢力下に入っている。

これに対し金は完顔胡沙蒲鮮万奴による60万の軍隊で耶律留哥の討伐を計画した。耶律留哥はモンゴルに救援を求め、息子の耶律薛闍を人質に差し出した。

彼は一部モンゴル軍の支援の下、迪吉脳児(現在の遼寧省昌図付近)で金兵を迎え撃ちこれを撃破した。1213年3月、耶律留哥は王を称し、国号をと定め、元統と改元した。これが後に東遼と称される政権である。王となった耶律留哥は姚里氏を皇后とし、弟の耶律廝不を郡王に、耶律坡沙、耶律僧家奴、耶律耶的、耶律李家奴らを丞相、元帥、尚書とし建国後の体制を固めた。

1214年、金が再度蒲鮮万奴率いる40万の軍勢を率いて侵入すると、留哥は帰仁県(現在の遼寧昌図)北河で金兵を撃破、その勢いで遼東の州郡を占拠し都を咸平に定め中京と号した。

耶律留哥は1215年に金の東京(現在の遼陽)を平定して後、衆人より帝号を推戴されたがこれを拒否している。耶律留哥は秘密裏に耶律薛闍を漠北のチンギスに派遣し、遼王に封じられている。しかしチンギスは耶律留哥の副手である耶律可特哥が蒲鮮万奴の妻を娶っていることに不満を抱き、問責を検討した。この知らせを受けた耶律可特哥は自らの地位に不安を抱き、耶律廝不などと、耶律留哥は既に死亡したと発表し、叛乱を起こした。

1216年、弟の耶律廝不は帝号を称し、国号をと定めた。これが後世に後遼と称される政権である。その後廝不は部下に殺害され、金山部統古与及び喊捨は自立し、建国直後の後遼国内は安定に欠いていた。

1218年、耶律留哥はモンゴル、契丹軍及び東夏国の士兵10万を率いて喊捨を攻略、同時に高麗の支援を受け1219年春に喊捨を陥落させ耶律留哥は旧地を再び勢力下に置いた。

1220年、耶律留哥が死去した後は、モンゴルはその妻である姚里氏を摂政として、7年間も当地を統治させて、留哥の嗣子の耶律薛闍(1193年 - 1238年、姚里氏の継子)の補佐をさせている。

後に薛闍は、チンギス・ハーンの西征に従軍し、オゴタイ・ハーンを救助するなどの功績を残した。しかし、薛闍の生母は早世しており、亡父の後継者となる可能性は皆無だったという。これを案じた継母の姚里氏はわが子を差し置いて、薛闍を後継者とさせた。

オゴタイの代になると、薛闍は南宋高麗遠征に従軍し、度重なる歴戦によって、薛闍は行広寧路都元帥府事に任じられ、1238年に没した。

参考文献編集