荒川堤(あらかわづつみ)はの名所として知られた東京都荒川や旧荒川(隅田川)河畔堤防の景勝地[1]。最盛期は荒川の五色桜としても知られた。一時は衰退したが、その後復興されて桜の名所となっている。

歴史編集

桜の品種改良は平安時代頃から行われていたと考えられており、江戸時代後期には品種が250種類近くが存在していた。これらの多くは大名屋敷や神社仏閣に植えられていたが、明治維新後、旧大名や社寺の権威が下がると共に桜が植えてある敷地は荒廃し、所有者が変わることで多くの桜が近代化に伴い伐採された。駒込の植木職人だった高木孫右衛門は、このような桜を惜しみ、自宅に多種多様な桜を集めて保存を行っていた[2]

1885年明治18年)に荒川の堤防が改修される時に、堤防上に桜を植えてはどうかという周辺住民の要望によって、桜が植えられることになった。戸長だった清水謙吾はありふれたソメイヨシノではなく、サトザクラ類の優れた品種を植えたいと考え、旧知の仲だった高木と交渉を行い、彼が集めていた78種3225本の桜をそっくり堤防上に植えた[3]。もしこのとき入手しやすかったソメイヨシノだけを植えていたら、現在見ることのできる江戸時代の品種はもっと少なかっただろうと言われている[2]

桜は江北から西新井にかけて植えられた。1903年(明治36年)には見頃となり、それ以降、荒川堤は東京一の桜の名所となった。荒川堤からは小石川植物園興津園芸試験場、新宿御苑東京府立園芸学校など、各地の研究施設に移植され[4]、多くのサトザクラの品種が全国的に広まった。また、この荒川堤から日米親善の証として、ポトマック川の河畔に桜の苗木が贈られた。様々な種類、色であったために五色桜と呼ばれるようになり、多くの人でにぎわうようになった[5]

荒川堤の桜は荒川放水路の建設工事の際の堤防工事や都市化の影響で衰退した。放水路を作る際には桜の移植を行い、船津清作らが樹勢の回復作業を行った。しかし芳しい効果は上がらず、その後、1924年に荒川堤を名所として残すために国の史跡名勝記念物に指定して、保護を進めようとした。しかし、第二次世界大戦期、物資の欠乏下で薪木として伐採されてしまった[1]。第二次大戦中は小清水亀之助が品種の保護に尽力している[3]

その後、全国各地やアメリカの協力で桜並木の復活が試みられたものの、完遂することは敵わなかった[6][7]。足立区政50周年となった1981年、ワシントンから再び35種約3000本の桜の苗木が里帰りした。これらは再び荒川沿いに植えられ、これが現在の桜並木の原型になっている。また、足立区内の公園に植えられ、レーガン大統領夫人が送ってくれたため、レーガン桜と呼ばれている。

荒川堤の桜」 明治19年(1886)、荒川堤の補修の際、78種、3,200本余りの桜苗が植えられた。染井吉野のほか八重桜が混植され、白や黄色、淡紅色などに彩られ、荒川の五色桜と呼ばれた。その最盛期は、35年から45年(1902 - 12)頃で、昭和初期までは花見客で賑わった。五色桜の絵あり。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「荒川堤の桜」より抜粋[8]

特徴編集

多くのサトザクラはソメイヨシノに比べ遅く咲き、花を咲かせる時間が長くなっており、種類も様々であるために長期間桜を楽しむことが出来る。

多くの品種がここに保持されていたために、荒川堤を発祥地にしている桜の品種は数多く存在する。

参考文献編集

  1. ^ a b 荒川堤はサクラの名所 その1”. セルフガイドシリーズさんぽのおとも. 都市農業公園自然環境館. 2011年4月27日閲覧。
  2. ^ a b NHK『歴史秘話ヒストリア』(2011年4月6日放送)[出典無効]
  3. ^ a b 五色桜ものがたり”. あだち・荒川土手に桜を植える会. 2011年4月27日閲覧。
  4. ^ NHK『歴史秘話ヒストリア』「日本人と桜の物語」(2015年3月25日
  5. ^ 五色桜と中川堤の桜”. 足立区. 2011年4月27日閲覧。
  6. ^ 荒川堤はサクラの名所 その2”. セルフガイドシリーズさんぽのおとも. 都市農業公園自然環境館. 2011年4月27日閲覧。
  7. ^ 千住と五色桜”. 2011年4月27日閲覧。
  8. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「荒川堤の桜」国立国会図書館蔵書、2018年2月11日閲覧

関連項目編集

外部リンク編集