藤井 勝志(ふじい かつし、1915年4月13日 - 1996年1月25日)は、日本政治家。叙正三位勲一等旭日大綬章

藤井 勝志
ふじい かつし
生年月日 (1915-04-13) 1915年4月13日
出生地 日本の旗 岡山県後月郡芳井村
(現・井原市
没年月日 (1996-01-25) 1996年1月25日(80歳没)
出身校 東京帝国大学法学部政治学科
所属政党 自由民主党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
井原市名誉市民
親族 村田吉隆(娘婿)

日本の旗 第40代 労働大臣
内閣 福田赳夫改造内閣
在任期間 1977年11月28日 - 1978年12月7日

選挙区 旧岡山2区
当選回数 9回
在任期間 1960年11月21日 - 1986年6月2日

当選回数 3回
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井原市名誉市民[1]労働大臣大蔵政務次官などを務めた。

経歴 編集

岡山県井原市出身。興譲館中学第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学法学部卒業。東大法学部では、矢部貞治に師事。その後岡山に戻り政治活動に入る。岡山県議会議員を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に立候補し初当選。連続当選9回。自由民主党三木派に所属した。1965年、第1次佐藤第1次改造内閣大蔵政務次官に就任。1977年、福田改造内閣労働大臣に就任。村田吉隆を労働大臣秘書官に登用する。1986年、政界を引退し、勲一等旭日大綬章を受章した。

ほかに、自由民主党総務会長代理、衆議院大蔵委員会理事、衆議院決算委員会委員、通産政務次官、興譲館理事、興譲館校友会長、井笠鉄道監査役、協同民主党岡山県支部書記長、岡山県アンゴラ兎農業協同組合、自由民主党外交調査会長などの要職を歴任した。

衆議院議員時代は、同じ選挙区に加藤六月橋本龍太郎らがおり、苦戦することもあったが、地盤は磐石だった。

藤井の引退後、1990年に娘婿の村田を岡山2区から衆院選に出馬させた。このとき、藤井自身の引退からすでに4年が経過していたこと、当時リクルート事件で自民党に逆風が吹いていたこと、さらに当時まだ橋本や加藤が現役だったことなど、当選は厳しいと見られていたが、無所属で立候補したことが功を奏し村田は当選を果たした。その後引退まで村田は連続当選を果たしている。

労相在任時、温泉の持つ健康効果に着目し、中高年労働者健康管理のための温泉地活用を策定し、シルバーヘルスプランにつなげた。

岡山県議会議長を務めた肥田璋三郎、同副議長を務めた河本勉杉本渡は元秘書。

引退直前、自民党の外交調査会長を務めていたが、憲法改正論議に際しては、改憲に慎重な立場を表明していた。

親族 編集

関連人物 編集

脚注 編集

  1. ^ 歴代市長と名誉市民”. 井原市. 2022年7月13日閲覧。
議会
先代
福田篤泰
  衆議院外務委員長
1972年 - 1973年
次代
木村俊夫
公職
先代
石田博英
  労働大臣
第40代:1977年 - 1978年
次代
栗原祐幸