二条定輔

藤原定輔から転送)
 
二条定輔
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 長寛元年(1163年
死没 嘉禄3年7月9日1227年8月22日
改名 親輔 → 定輔
別名 二条大納言、二条帥入道
官位 正二位権大納言大宰権帥
主君 高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇
氏族 藤原北家隆家流水無瀬家
父母 父:藤原親信、母:官女半物阿古丸
兄弟 定輔藤原親兼藤原仲経、忠遍、
信弘、源通宗室、藤原朝経室、
源通宗室、藤原朝定室、
藤原教成室(後に藤原朝経室)
家輔師親親定隆輔兼信兼輔博輔姉小路実世
テンプレートを表示

二条 定輔(にじょう さだすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。坊門中納言藤原親信長男。母は官女半物阿古丸。官位正二位権大納言大宰権帥二条大納言、また二条帥入道と号す。初名は親輔。妙音院相国藤原師長の琵琶の高弟として知られる。

経歴編集

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

承安2年(1172年)1月5日、叙爵[1]。承安3年(1173年)11月2日、従五位上に昇叙。安元3年(1177年)1月24日、右馬頭に任ぜられる[2]治承3年(1179年)1月5日、正五位下に昇叙[3]。同年11月17日、停任される[4]。治承5年(1181年)3月26日、周防守に任ぜられる。養和元年(1181年)12月4日、従四位下に昇叙。寿永元年(1182年)11月23日、従四位上に昇叙(院臨時御給)。寿永2年(1183年)1月27日、右少将に任ぜられる。周防守は元の如し。元暦2年(1185年)1月20日、正四位下に昇叙。同年6月10日、周防守を止める。文治3年(1187年)5月4日、修理大夫任ぜられる[5]。文治6年(1190年)1月24日、内蔵頭を兼ねる。

建久2年(1191年)12月30日、従三位に叙される。内蔵頭を止め修理大夫は元の如し。建久8年(1197年)7月12日、喪の服し、9月20日に復任する。建久9年(1198年))11月25日、正三位に昇叙。正治元年(1199年)6月23日、左兵衛督に任ぜられる。修理大夫は元の如し。

正治2年(1200年)4月1日、参議に任ぜられる。左兵衛督と修理大夫は元の如し。正治3年(1201年)1月29日、能登権守を兼ねる。8月19日、息男親定を左馬頭に挙任するため修理大夫を辞した。11月30日、検非違使別当に補される。建仁2年(1202年)7月23日、権中納言に任ぜられる。左兵衛督と検非違使別当は元の如し。建仁3年(1203年)1月5日、従二位に昇叙。同月13日、督と別当を辞した。5月27日、勅授帯剣(ちょくじゅたいけん)を許される。元久2年(1205年)7月18日、正二位に昇叙。11月24日、中納言に転正。承元3年(1209年)4月10日、権大納言に任ぜられる。承元5年(1211年)1月18日、権大納言を辞した。

建保5年(1217年)6月29日、大宰権帥に任ぜられる[6]承久3年(1221年)7月、恐懼に処せられ、閏10月9日には出仕を免ぜられる。12月10日、太宰権帥を止める。本座勅授を許される。貞応2年(1223年)2月17日、出家嘉禄3年(1227年)7月9日、薨去

琵琶の師範として編集

『文机談』によると、定輔は藤原師長の5人の高弟の一人として挙げられている[7]。しかも他の琵琶の名手達を差し置いて後鳥羽院順徳院の師範として選ばれたことが特筆されている[8]。定輔自身の琵琶の腕前が秀でていたことも事実であろうが、両親ともに今様に優れて後白河法皇の信任を受け、琵琶に関しては重代ではないものの芸能の家として知られていたこと、後鳥羽院の生母七条院が定輔と同じ一門である隆家流坊門家の出身で定輔自身もその院司であったことも師範として選ばれた理由のひとつと考えられる[9]。また、順徳院の時代に累代の名器である「玄上」を弾いたことのある3人の内の1人として定輔の名が挙げられている[10]。しかも定輔は「玄上」を3度弾いたと特筆されているのである[11]

また、後鳥羽院も琵琶を愛好してその地位を高めた人物であったことも定輔の昇進に関係したとみられている。豊永聡美は琵琶を愛好していた天皇としては二条天皇も挙げられるが、琵琶を天皇が習得すべき最も高貴な楽器となるまで高めたのは後鳥羽院であったと評価する[12]。特に元久2年(1205年)に行われた土御門天皇朝覲行幸(ちょうきんぎょうこう)では、上皇自らが琵琶の名器である「玄上」を弾いたのである[13]。その後鳥羽院が琵琶を教わる御師を選ぶにあたって師長の弟子である西園寺実宗九条兼実が候補に挙がっていたが、定輔は涙ながらに懇願したために定輔が選ばれ、特に実宗からは強く恨まれたという。後に順徳天皇の御師にも選ばれている[14]。同様に、師長から数々の秘伝を伝授されていた藤原孝道も定輔とは不仲で、両者との不仲は『古今著聞集』・『文机談』など説話集に取り上げられている[15]

琵琶の秘曲伝授の面では、元久2年(1205年)、後鳥羽院に「石上流泉」、「上原流泉」、「楊真操」、「啄木」を授けた記録が残る[16]。順徳院には建保6年(1218年)に「楊真操」を伝授し、定輔から伝授を受けた順徳院は同年8月13日に行われた「中殿和歌御会」にて「玄上」の演奏を披露されたのであった[17]。なお、順徳院の琵琶師範を勤めた定輔はこの「中殿和歌御会」にて久我通光[18]の次の席次を与えられ列席する栄誉に浴している[19]

定輔は単に琵琶の演奏に秀でていただけではなく、琵琶という楽器そのものにも詳しかったと伝わっている[20]。しかし一方では定輔の息子達はあまり琵琶に熱心ではなかったとも伝わっている[21]

また、様々な音楽・芸能の相承系図の作成を行い、白拍子相撲に関する奉行役を務めるなど、芸能面において後鳥羽院政を支える存在であった一方で、正二位権大納言にまで昇りながら、院や内裏での会議などに出席・発言した記録は少なく、政治的業績に関しては皆無に近かった[22]

藤原隆家流坊門一門のひとりとして後鳥羽院に近く、承久の乱最中の後鳥羽院の比叡山行幸にも甲冑を纏って尊長らとともに供奉した[23]定輔[24]であるが、承久の乱後に後堀河天皇即位したときの「清暑堂御遊」にて琵琶を弾いたのは定輔である[25]

定輔は琵琶を巡る西園寺実宗や藤原孝道との確執や政治的業績がなく芸能の才だけで昇進を重ねた経緯から多くの公家たちの反感を買っていたらしく、定輔が亡くなった時に藤原定家は「子供の頃より讒言(ざんげん)を(な)し、謀詐(さぼう)によって二代の天皇の琵琶の帝師になった」[26]と酷評している[27]

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ この時、親輔。
  2. ^ 父親信が同日に従三位に叙せられた替え。
  3. ^ 右馬頭の労による。
  4. ^ 入道太政大臣の訴えによる。
  5. ^ 右少将を止め、父親信の譲りによる。
  6. ^ 但し、息男左馬頭兼信は職を止められる。
  7. ^ 『文机談』第三冊、101頁。
  8. ^ 『文机談』前掲箇所。
  9. ^ 豊永、2006年平成18年)、231頁。
  10. ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、「順徳院御記」、33 - 34頁。
  11. ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』前掲箇所。
  12. ^ 豊永、2006年(平成18年)、58頁。なお、豊永は天皇の音楽史について、古代を「」、一条天皇以降を「」、後鳥羽天皇以降を「琵琶」、後光厳天皇以降を「」の時代であったとしている。
  13. ^ 豊永、2006年(平成18年)、64 - 65頁。朝覲行幸では子である天皇が親である院のために楽器を演奏することはあっても親の院が弾いた例は数える程(崇徳天皇の朝覲行幸で父の鳥羽院が笛を演奏したことがある)であること、「玄上」は内裏からの持ち出しを禁じられていたにも関わらず命令で強引に院御所に持ち出されていることの2点で異例であった。
  14. ^ 豊永、2006年(平成18年)、235 - 236頁。
  15. ^ 豊永、2006年(平成18年)、239頁。
  16. ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、「定輔卿記」、「花山院右大臣記」、66 - 67頁。
  17. ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、「順徳院御記」、70 - 71頁。
  18. ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、「順徳院御記」によれば通光は「玄上」を1度だけ弾いたことがある。
  19. ^ 続日本の絵巻、第12所収、「中殿御会図」、中央公論社
  20. ^ 『文机談』第四冊、107頁。
  21. ^ 『文机談』前掲箇所。
  22. ^ 豊永、2006年(平成18年)、240 - 250頁。
  23. ^ 『吾妻鏡』承久3年6月8日条
  24. ^ 豊永、2006年(平成18年)、252頁。
  25. ^ 『文机談』第四冊、109頁。
  26. ^ 『明月記』安貞元年7月9日条
  27. ^ 豊永、2006年(平成18年)、239頁。

出典編集