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経歴編集

文章博士であった父・資業と同様に学問の道を歩み、長暦元年(1038年文章得業生となり、次いで対策に及第して長久2年(1041年)に六位蔵人に任ぜられる。長久3年(1042年)には後朱雀天皇の第二皇子尊仁親王(後の後三条天皇)読書始で尚復(侍読が読んだ内容を復唱する役割)を務めた[1]永承5年(1050年)に東宮尊仁親王の学士となり、敦成親王(後一条天皇)の侍読を務めた父資業に続いて、親子二代で侍読となった。

東宮学士実政に対する尊仁親王の信頼は厚く、天喜元年(1053年)東宮御息所藤原茂子が第一皇子・貞仁親王(後の白河天皇)を生んだ際には、実政の姉妹(藤原惟経の妻)が乳母の一人となっている。 また、康平7年(1064年)に実政が甲斐に任じられ任国に下向する際、尊仁親王から、任国に行ってものことひいては私のことを忘れないで欲しい、との趣旨の御製が贈られた[2]

治暦4年(1068年)尊仁親王が即位後三条天皇)したことに伴い、実政は前東宮学士の労により正四位下に昇進した。翌治暦5年(1069年)には、同じく尊仁親王の学士であった大江匡房とともに新東宮貞仁親王の学士に任じられ、尊仁・貞仁と二代続けて東宮学士を務めることとなる。

後三条天皇が即位してからもその信頼は変わらず、延久4年12月(1073年)には左中弁へ抜擢された。この人事について、本来であれば当時権左中弁の官職にあった藤原隆方を任命すべき所であった[3]。しかしながら、以前木津の渡しで隆方が実政に対して、なかなか天皇になれない皇太子(尊仁親王)に当てこすった悪口を言ったことがあり、それを覚えていた後三条天皇は隆方を越えて敢えて実政を左中弁に任じたとされる[1]。実政が左中弁に任ぜられた直後、後三条天皇は貞仁親王(白河天皇)に譲位して院庁を開き、実政は院庁別当となるが、まもなく後三条院は崩御した。

次代の白河天皇も恩師である実政を厚遇し、承保4年(1077年)に蔵人頭承暦4年(1080年)には参議従三位永保2年(1082年正三位と順調に昇進する。

永保4年(1084年)実政は大宰大弐に任ぜられ、参議を辞して大宰府へ下向。任国への赴任の功労として、翌応徳2年(1085年)には従二位に昇る。大宰府では九州最大の荘園領主であった宇佐八幡宮との間に紛争が発生したらしく、寛治元年(1087年)宇佐八幡宮の神人から白河院御所に対して、実政が正八幡宮神輿を射て毀損したとの訴えがあり[4]、翌寛治2年(1088年)に実政は大宰大弐を辞して上洛した。結局同年11月に実政は伊豆国への流罪と決定[5]、併せて息子敦宗連座左少弁解官された[6]。その後実政は配流途中の近江国出家したが許されず、寛治7年(1093年伊豆国の配所で薨去した。

官歴編集

系譜編集

脚注編集

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  1. ^ a b 今鏡』すべらぎの上 第一 司召
  2. ^ 『今鏡』『十訓抄』等
  3. ^ 左中弁について、正員(左中弁)には権官(権左中弁)を経て任官されることが慣例となっていた(和田英松『新訂 官職要解』講談社学術文庫、1983年、65頁)。
  4. ^ 『百練抄』寛治2年2月1日条
  5. ^ 『中右記』寛治2年11月30日条
  6. ^ 『百錬抄』寛治2年12月24日条

参考文献編集

  • 竹鼻績『今鏡 (上) 全訳注』講談社学術文庫、1984年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年