藤原公実
1053-1107, 平安時代の公卿、歌人。藤原実季の長男。官位は正二位・権大納言。『堀川院御時百首和歌』。勅撰集『後拾遺和歌集』以下に57首入集
略歴編集
大納言実季の長男で、母は藤原経平女。閑院家の祖・太政大臣公季の玄孫にあたる。弟に保実・仲実、妹に苡子(堀河天皇女御、鳥羽天皇生母)らがいる。白河院とは従兄弟に当たるため朝廷の信任も篤く、堀河天皇に近臣として仕え、妻光子は堀河・鳥羽二代の乳母となった。歌壇でも活躍し、長治2年(1105年)頃奏覧の『堀河院御時百首和歌』に出詠し、後拾遺集以下の勅撰和歌集に57首が入集している。また家集『公実集』(断簡のみ)がある。
公実の逸話として、嘉承2年(1107年)に甥が鳥羽天皇として即位した時、公実は摂関家の当主忠実の若年であることを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ摂政に就任すべしと主張したが、「五代もの間、並の公卿として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴されたという話がある[1]。また、鳥羽天皇の即位直後、天皇の側近く仕える公卿が行うべき作法を天皇の伯父である公実が知らなかったことを藤原忠実から批判されている[2]。樋口健太郎は公実を含む閑院流には天皇を後見するために必要な有職故実に伝わっていなかった上に、鳥羽天皇の即位時に閑院流の公卿は権大納言の公実と弟の権中納言の仲実しかおらず、輔仁親王という皇位継承を巡る競争相手が控えた鳥羽天皇の後見として閑院流(公実・仲実兄弟)は頼りにならなかったという現実的な理由があったとしている[3]。しかも、その公実も鳥羽天皇の即位からわずか4か月後に病死している。享年55。
しかし、公実の権勢はその子供たちの出世にそのまま反映され(実行は太政大臣、実能は左大臣、末娘璋子は鳥羽天皇中宮)、三条・西園寺・徳大寺の三清華家の共通の祖となった。
系譜編集
略歴編集
- 治暦4年(1068年)7月 従五位下
- 延久2年(1070年)12月 左兵衛佐
- 延久4年(1072年)正月 従五位上
- 延久4年(1072年)12月 蔵人
- 延久5年(1073年)正月 左少将
- 延久6年(1074年)正月 正五位下 備前介
- 承保元年(1074年)11月 従四位下
- 承保2年(1075年)正月 従四位上
- 承保2年(1075年)6月 中将
- 承保4年(1077年)正月 正四位下 中宮権亮
- 承暦4年(1080年)正月 蔵人頭
- 承暦4年(1080年)12月 参議
- 永保2年(1082年) 従三位
- 永保3年(1083年)11月 正三位
- 康和2年(1100年) 正二位 権大納言
- 康和5年(1103年)8月 春宮大夫
- 嘉承2年(1107年)11月14日 薨去。55歳。