貞明公主

朝鮮第14代王・宣祖の娘

貞明公主(ていめいこうしゅ、チョンミョンコンジュ、정명공주、万暦31年5月19日1603年6月27日) - 康熙24年8月10日1685年9月8日))は、李氏朝鮮の第14代国王宣祖仁穆王后の娘。宣祖にとって、唯一の嫡女。また書道家としても有名だった。

貞明公主
宗親一世
公主
出生年 万暦31年5月19日1603年6月27日
没死年 康熙24年8月10日1685年9月8日
実父 宣祖
実母 仁穆王后
配偶者 洪柱元
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第22代国王正祖から第24代国王憲宗は、彼女の血を引いている(正祖の生母の恵慶宮洪氏は、次男の洪萬容の玄孫に当たる)。また、正祖の側近の洪国栄、元嬪洪氏も彼女の血を引く(三男の洪萬衡の来孫に当たる)。そして、憲宗の母の神貞王后も子孫の一人である(曾祖母が恵慶宮の叔母にあたる為)。

生涯

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1603年、宣祖と仁穆王后の娘として生まれる。また、唯一の嫡女であることから、同じく唯一の嫡男で弟の永昌大君と溺愛される。

しかし永昌大君の誕生が災いの元となり、やがて正室所生の永昌大君を推す小北派と側室所生の31歳上の異母兄の光海君を推す大北派が国王の座を巡って対立する。1608年、父の宣祖が次期国王を決めずに崩御。永昌大君が2歳ということから光海君が即位し、小北派は一掃され、母と共に慶運宮に幽閉され、弟とも離された。1614年、永昌大君が幽閉先の江華島で殺されてしまう。祖父の金悌男が賜薬に処され、母の親族も処刑や流罪にされた。さらに母は大妃の地位を廃されて側室の身分に降格、西宮(ソグン)と呼ばれた。幽閉中は、母を慰めるために書道に励んだ。

1623年3月13日、宮廷クーデターが発生(仁祖反正)、仁穆王后と公主は綾陽君(後の仁祖)を推す西人派によって、解放と共に名誉を回復。しかし、貞明公主は当時20歳で、結婚適齢期を過ぎていたため、夫選びを実施した。全国から集まった僅か9人の婚姻候補者の中から洪霙(ホン・ヨン、こう えい)の息子の永安尉洪柱元(ホン・ジュウォン、こう しゅげん、1606年 - 1672年)と婚姻する。さらに母の仁穆王后の依頼で、仁祖から広大な屋敷と土地を与えられた。その後、夫の洪柱元とは良好な関係を築いていき、7男1女を儲けた。

夫の洪柱元は、1672年に66歳で亡くなった。1685年8月10日、彼女は83歳で死去した。彼女は、6人の王の時代を生き抜き、朝鮮一長寿の王女となった。

家族

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子女

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登場作品

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出典・脚注

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  • 『韓国時代劇で学ぶ人物大事典』2019年 キネマ旬報社