軍国歌謡(ぐんこくかよう)とは、戦争中に作られた歌で、戦時色を表した歌詞を伴った浪曲的で[要出典]悲愴な曲調が多い作品。

1937年(昭和12年)8月、日活国家総動員」の主題歌として、テイチクレコードから「軍国の母」(作詞島田磐也・作曲古賀政男)が発売された。 当初、陸軍省から非常時歌謡というお墨付きを得て出来た作品である。この歌が、同年7月7日から始まった支那事変日中戦争)以来、はじめてヒットした戦時歌謡で、軍国歌謡という名称を作り出したのも、本作品からであった。 歌った、美ち奴の表現方法が非常に印象的で、流行の一因は彼女の切々とした歌い振りに負うことが多かった。

後に出た、「皇国の母」(作詞深草三郎・作曲明本京静)、「九段の母」(作詞石松秋二・作曲能代八郎)と並んで、軍国の「母」もの三部作と評された。

軍国歌謡は、晋平節以来一般大衆に定着し始めていた五音短音符と、都節音階をミックスした歌謡曲調であった。つまり、軍国の二文字を頭に付ける事で、歌謡の軟弱さをカモフラージュしていたのである。軍国歌謡と呼ばれながらも、五音短音符によって、浪曲調的で[要出典]悲愴な、涙っぽい歌謡が続出した。そして、出征兵士を送る日の丸の旗と共に、悲しい軍国歌謡が流れていたのである。これは、当時の国民感情を如実に表したものだと言えよう。

作品編集

日中戦争下編集

大正末期から『満州節』『朝鮮国境警備の唄』などの流行しており、1929年には『満州前衛の唄』が発表されていた。1931年に満州で中村大尉が殺害される事件が起きると時事小唄『噫中村大尉』が発売されてヒットし、満州事変の勃発後にはNHKの「ラジオ体操の時間」で『独立守備隊の歌』を流したところ、それ以降『起てよ国民』『守れよ満州』といった、国民の士気を高めるような時局レコードが発売され流行し始める。

1932年には朝日新聞社員の作った『満州行進曲』、そして第一次上海事変での肉弾三勇士を讃える歌を朝日新聞と毎日新聞で募集し、毎日の『爆弾三勇士の歌』には与謝野寛の詩が選ばれ、朝日の『肉弾三勇士の歌』、国民新聞推薦の『廟行鎮決死隊の歌』、報知新聞委嘱の『肉弾三勇士』、浪花節の『嗚呼軍神肉弾三勇士』など各社で宣伝を繰り広げた。当時下火になりかけていたエロ・グロ・ナンセンスのブームに代わってレコード会社も力を入れ、満州を題材にした『軍事探偵の唄』や牧逸馬作詞の『あゝ満州』、また『鬼将軍多聞閣下』『噫軍神古賀連隊長』『軍神八勇士の唄』など軍神や将官を題材にした曲やレコードドラマが多数発売され、紀平正美は雑誌『人の噂』1932年5月号のアンケートで「エロもグロも爆弾三勇士とともに吹き飛んだ」と評した。[1]

陸軍制定の軍歌『討匪行』は、作曲も手がけたテノール歌手藤原義江が歌って大ヒットした。1933年になると東京の人口が500万人に達した記念行事として、読売新聞の募集した流行小唄『東京祭』(門田ゆたか古賀政男)、時事新報で『丸の内音頭』の歌詞を手直しした『東京音頭』、レコード会社競作の『さくら音頭』などを使い盆踊り大会が行われ、政府も思想善導の観点からこれを後押しし、1935年頃まで続いた。

また1933年から内務省によるレコードの検閲が行われるようになり、桂孤月の歌う『製糸情話』や、杉狂児『のぞかれた花嫁』、渡辺はま子『忘れちゃいやヨ』、二村定一『とこイットだね』などが発売禁止の処分を受けた。1940年には『湖畔の宿』(佐藤惣之助服部良一)の時局的でないという理由で発売禁止となる。

1936年にNHKで放送された『国民歌謡』も、有馬通男『征けよますらを』(土岐善麿堀内敬三)、渡辺はま子『愛国の花』(福田正夫古関裕而)、東海林太郎『戦勝の歌』(大江素夫、大村能章)といった愛国的な歌も放送された。1937年の支那事変勃発からは、内閣情報局の懸賞募集した『愛国行進曲』の他、『海行かば』『露営の歌』『日の丸行進曲』といった歌が、新聞や軍によって国民歌として制定されて歌われ、講談社の制定した『出征兵士を送る歌』は陸軍に献納された。

1937年9月に発売された『軍国子守唄』(作詞山口義孝・作曲佐和輝禧)もヒットし、これを歌った塩まさるは翌年に『母子船頭唄』、テイチクへ移籍した後の『九段の母』の大ヒットで、軍国歌謡人気歌手となった。1940年には映画主題歌の『暁に祈る』『燃ゆる大空』や『国民歌謡』で放送された『隣組』が人気を呼んだ。

またこの時期の大衆歌謡としてアジアや南方を題材にした、『国境の町』『上海だより』『広東の花売り娘』『蘇州夜曲』『満州娘』といった、「大陸もの」「上海もの」「南京もの」などとも呼ばれた歌があり、歌詞やメロディーに地域性を織り込んでいる特徴があった。日本占領下の朝鮮では、『白頭山節』(植田国境子)、『鴨緑江節』などの日本民謡調のメロディーの歌も歌われていた。また1940年発売の『誰か故郷を想わざる』(西條八十、古賀政男)は、特に外地の兵士たちから愛されてヒットした。

太平洋戦争下編集

1941年の太平洋戦争開戦後にNHKでは「ニュース歌謡」を放送し、『宣戦布告』(野村俊夫、古関裕而)、『皇軍の戦果輝く』(同)、『タイ国進駐』(島田磬也山田榮一)などを放送し、『英国東洋艦隊潰滅』(高橋掬太郎、古関裕而)は、のちにサトウハチローが新たな詞を付けて、『断じて勝つぞ』としてもレコードかされた。また内閣情報局は「敵性音楽」の排除を目指し、1943年には政府の広報誌『週報』で曲名のリストを掲げ、鼻声でも歌ってはならぬなどと通知した。また1943年には大政翼賛会により「国民の心を明るくのびのびとさせるような運動」としてを国民皆唄運動が展開され、各地の運動では『海ゆかば』、『この決意』(大政翼賛会標語、片山頴太郎)を必唄歌曲とされ、愛国百人一首の海犬養岡麿に山本芳樹の曲を付けた『みたみわれ』も指定歌曲とされた。これらの唄は『週報』にも掲載される。

一方で、出征兵士を思わせる小唄勝太郎『明日はお立ちか』(佐伯孝夫佐々木俊一)もヒットする。終戦近い1945年には、『南洋航路』(1940年)の歌詞を変えた『ラバウル小唄』が、特に南方から撤退する兵士たちに広く好まれ、その地域ごとに土地の名前を入れ替えた替え歌で歌われた。

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  1. ^ 毛利眞人『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影』講談社 2016年

参考文献編集

  • 新井恵美子『哀しい歌たち 戦争と歌の記憶』マガジンハウス 1999年
  • 倉田喜弘『近代歌謡の軌跡』山川出版社 2002年
  • 五木寛之『わが人生の歌がたり 昭和の哀歓』角川書店 2007年
  • 戸之下達也『「国民歌」を唱和した時代 昭和の大衆歌謡』吉川弘文館 2010年

関連項目編集