農地改革
農地改革(のうちかいかく)は、農地をめぐる所有者の変更や法制度の変更などの土地改革政策。農地解体[1]あるいは農地開放とも称する。
特に第二次世界大戦直後の一時期、資本主義圏の東アジア(日本、韓国、台湾)、社会主義のもとで人民公社制に移行した中国、社会主義的要請から実施された東欧諸国などで農地改革が行われた[2]。これらの第二次世界大戦直後の東アジアや東欧諸国の農地改革は、いずれも当初は小土地所有の散布(形式的小農創出策)という方法がとられた[2]。しかし、その後、小土地所有による自作農体制が結実したのは日本など一部の東アジア諸国のみで、東欧諸国では社会主義的な大経営化、中国では人民公社制に至る集団化の道をたどった[2]。
日本の農地改革編集
歴史編集
一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。元々、日本の官僚の間には農村の疲弊を打開するために地主制度を解体する案はあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く、実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる[注釈 1]。
1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され[3]、日本政府は指示により、徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。正確には農地調整法(1938年)の改正と自作農創設特別措置法である。
この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。
また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。
農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡された。しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった[4]。譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は46%から10%に激減し[5]、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある[6]。
一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから不徹底であったとされる。ただし農地を失い困窮した地主が山林や牧場を売り払ったことで、結果として解放された場所もある[注釈 2]。
この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条第3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条第3項でいう正当な補償とは市場価格とは異なるという解釈がされ、請求は棄却された。
特徴編集
日本の農地改革は受益者が中農的性格(専業的家族経営)を帯びており、都府県平均で経営規模3反未満の零細層は原則として買受け対象から除外されたほか、農業諸施設の買収では生産力の向上を基準に是非が判断された[2]。「中農主義」「生産力主義」 が加味されていた点は日本の農地改革の特質とされている[2]。
この農地改革は、当時日本の有職者の約半数が農業従事者であり、同時期に施行された選挙権の大幅拡大に連動されていた側面もあった。当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており[7]、政府やGHQもその勢力拡大を警戒していた日本共産党や共産主義の力を大幅に削ぐことになった。従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党や戦後保守に取り込まれたためである[注釈 3]。
結果として小規模農家が主流となり大規模化・効率化が遅れたという指摘もある。2000年代以降の少子高齢化により担い手が不足し耕作放棄地が増加したため、政府は農地中間管理機構を組織するなど農地の大規模化や法人経営を促す方針に転換している[8]。
農地被買収者国庫債券[要説明]
問題点編集
経営規模の小規模化編集
政治的には成功したかに見えた政策であったが、大規模経営が世界的に主流になる中で土地の所有者が大幅に増加した日本の農業は、機械の稼働能率が低く、兼業農家が多くを占めるようになり、先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たなかった。戦後の食料自給率は大幅に低下し、先進国の中では最低水準となっている。
また、都市化優先政策と食管制度温存による米優先農政により、次第に日本農業は国際競争力を低下させていくこととなる[9]。
土地所有者の細分化編集
農地改革で大地主が減り、面積あたりの土地の所有者が増えたことで、都市開発や道路建設等の用地買収交渉の困難化や長期化を招き、社会資本整備の遅れにつながった。
中国の農地改革編集
歴史編集
中国では1946年5月に中国共産党中央執行委員会が「土地政策に関する指令」を出して農地改革に着手[10]。同年9月13日には従来の富農等に対し生計維持に特に必要な財産の保有のみを認め、地主の土地所有権を無効とし、地主や富農等の所有していた家畜、農具、食糧その他の財産を没収する処分が行われた[10]。
他の東アジアの国々と同じく小経営の農業の強化の特徴も持っていたが、受益者には営農実績や経営担当実績のほとんどない者も多く東欧諸国と同様の社会安定の性格も併せ持っていた[2]。農地改革は深刻な過剰人口対策でもあったが、それが一段落すると過小経営による没落や流民化を防ぎつつ食糧問題へ対処することが必要となり、膨大な過小農を吸収しつつ合作社さらに人民公社へと社会主義的な集団化の道を歩むことになった[2]。
民族間の土地所有権移転編集
「地主」と「小作農」の民族が異なる場合は、土地所有権が他民族に移ることになった。
中国の内モンゴル・綏遠省などのモンゴル人地域では、土地を掘ることを忌み嫌うモンゴル人の放牧地だった土地を漢民族入植者が借地して農地として開墾していた。これらの土地は農地改革により、遊牧民族のモンゴル人から農耕民族の漢民族へ土地所有権が移ることになった。
東欧の農地改革編集
第二次世界大戦後、ドイツではユンカーが所有していた農地をソ連赤軍に占領されたことで徹底的な農地改革が行われ、ユンカーも完全に解体されるに至った[11]。
東ドイツの受益階層別の土地買受面積(1950年)は、農業労働者42.5%、難民34.8%、零細農12.5%、非農業労働者・職員5.2%で、 農業経営への関わりが皆無である者も多く、経営主体として何の蓄積もないか乏しい人々に小土地所有を分け与えるものだった[2]。しかし、従来のグーツ経営は巨大な経営資本を装備する大型技術体系であったため、分割には適しておらず、いわゆる「新農民」は農業経営の経験に乏しく経営資本も劣弱で、1953年には39万6千ヘクタールの耕作放棄地が発生した[2]。そのため農地改革はアンシャンレジームの崩壊や難民流入に対する社会政策としては効果があったが、農業生産力の低下による農業・食糧問題を生じさせた[2]。
東ドイツでは農業生産協同組合LPG(Landwirtshaft Production Gesellshaft)が組織され、当初の実態は経営破綻を余儀なくされた「新農民」の救済策であったが、徐々に大規模化し社会主義的大経営へ移っていった[2]。
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ 忠則, 吉田. “日経ビジネス電子版” (日本語). 日経ビジネス電子版. 2020年1月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 野田公夫. “農地改革の歴史的意義(農林業問題研究第127号)”. 2021年2月26日閲覧。
- ^ “コラム「農地改革の真相-忘れられた戦後経済復興の最大の功労者、和田博雄」” (日本語). www.rieti.go.jp. 2020年1月23日閲覧。
- ^ (日本語) 明治150年 真の日本の姿 第五話 2020年1月23日閲覧。
- ^ 農地改革資料編纂委員会編『農地改革資料集成』第11巻 35~54頁
- ^ “毎日新聞1946:農地改革 GHQ主導の断行評価” (日本語). 毎日新聞. 2020年1月23日閲覧。
- ^ 農地改革資料編纂委員会編『農地改革資料集成』第1巻 104~110頁
- ^ 都府県における大規模農家の動向と特徴 - 農林水産省
- ^ 中村政則編「占領と戦後改革」1994年 吉川弘文館より 鈴木邦夫「初期占領改革」
- ^ a b 東京大学社会科学研究所『農地改革』東京大学出版会、1975年、164頁。
- ^ 世界大百科事典(1988年版)「ユンカー」の項目
参考文献編集
関連項目編集
外部リンク編集
- 日本大百科全書(ニッポニカ)『農地改革』 - コトバンク
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