遠山友由

美濃国苗木藩の第5代藩主

遠山 友由(とおやま ともよし)は、美濃苗木藩の第5代藩主。幼名は勝千代。通称は宮内。

 
遠山友由
中津川市苗木遠山史料館所蔵
時代 江戸時代中期
生誕 元禄7年9月22日1694年11月9日
死没 享保7年4月21日1722年6月4日
改名 友章→友由
別名 幼名:犬勝・勝千代→宮内
戒名 大林殿前予州大守涼厳宗蔭居士
官位 従五位下・伊予守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家継吉宗
美濃苗木藩
氏族 苗木遠山氏
父母 父:友春、母:俊(織田長政の娘)
兄弟 長男:友由・三男:友央・娘(阿部正晴正室)・娘(新庄直祐正室)
高木正陳の娘
長男:友将
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略歴

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元禄7年9月22日1694年11月9日)、苗木城にて生まれた。

宝永2年(1705年)6月10日、将軍・徳川綱吉に御目見えした。

宝永4年(1707年)12月23日、従五位下に叙任され、伊予守 友章と称した。

正徳2年(1712年)2月16日、父の隠居により家督を継ぎ、4月28日に藩主となって初めて苗木城へ帰城した。

正徳3年(1713年)2月、大坂加番に任じられ、3月11日に苗木城を発駕した。藩政では倹約を主とした。

この時に家老の陶山直右衛門、安田造酒右衛門、そして物頭の纐纈市兵衛が旗を、棚橋左一右衛門が鉄炮を、陶山茂左衛門が弓を、深尾斧右衛門が槍を携え、

その他、神山定右衛門、纐纈左中、伊藤輿三右衛門、小川平左衛門、小倉音右衛門、大脇権右衛門、鹽治輿九郎らが随従し、同年8月5日まで勤番した。

正徳5年(1715年)4月から、享保元年(1716年)4月まで幸橋御門番を勤めた。また同年、名前を友由に改名した。

享保2年(1717年)10月24日から、享保3年(1718年)4月15日まで日比谷御門番を勤めた。

享保3年7月26日(1718年8月22日)に発生した遠山地震によって苗木城内が大破した。

享保6年(1721年)8月15日、江戸城の殿中にて急病により倒れた。11月には、十三ヶ条の百姓衣類定書を公布した。

友由は生前、長男の遠山友将に跡目を相続することと、弟の遠山友央に加茂郡の内[1]の500石を分知して旗本とすることを願い出て許可された。

その後病状は次第に重篤となり、享保7年(1722年)4月21日に江戸にて没した。

遺骸は苗木へ送られて雲林寺墓地(中津川市苗木の苗木遠山家廟所)に埋葬された。享年29歳。

長男の友将が苗木藩主を嗣いだ。

参考文献

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  • 『苗木藩政史研究』 第一章 苗木藩の成立 第一節 苗木藩の成立事情 二 歴代藩主の素描 五代伊予守友由 p12 後藤時男 中津川市 1982年
  • 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第三節 領主の略系譜 一 遠山家 遠山伊予守友由 p47 中津川市 1988年 
  • 『恵那郡史』 第七篇 江戸時代 (近世「領主時代」) 第二十八章 諸藩分治 其二 苗木藩距江戸 遠山友由 p234 恵那郡教育会 1926年 
  • 『福岡町史 通史編 下巻』 第五部 近世 第一章 近世における苗木藩の概観 第一節 苗木藩成立と領村支配 苗木遠山氏と藩主 p1~p8 福岡町 1992年

脚注

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  1. ^ 飯地村・峯下立村・福地村・切井村・赤河村・犬地村の6箇村