遠山秀友

美濃国苗木藩の第2代藩主

遠山 秀友(とおやま ひでとも)は、美濃苗木藩の第2代藩主。通称は刑部。

 
遠山秀友
中津川市苗木遠山史料館所蔵
時代 江戸時代初期
生誕 慶長14年11月6日1609年12月2日)
死没 寛永19年1月7日(1642年2月6日
別名 通称:刑部
戒名 大寶寺殿智嶽宗勝居士
官位 従五位下・刑部少輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠徳川家光
美濃苗木藩
氏族 苗木遠山氏
父母 父:遠山友政、母:正室:松夫人 平井頼母(七郎左衛門)の娘
兄弟 長男:秀友
女(生駒利豊室)
女(山村良安室)
女(加藤順正室)
女(遠山万五郎室)
女(五十川某室)
女(原某室)
正室:皆川隆庸の娘
継室:滋野井季吉の娘
長男:友貞[1]
娘(滋野井教広室)
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苗木藩初代藩主の遠山友政の長男。

略歴

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慶長14年(1609年)12月2日11月6日苗木城で生まれた。

慶長19年(1614年)、将軍・徳川秀忠に御目見えした。

元和5年(1619年)12月19日に父が死去したため、元和6年(1620年)5月に苗木藩主を嗣いだ。

寛永13年(1636年)、大坂加番を勤めた。

寛永14年(1637年)、江戸城本丸奥の間御普請御手傳を勤めた。

寛永16年(1639年)、美濃郡代岡田善政が、福岡村から江戸城本丸用材として1万本を伐出した。

寛永17年(1640年)、再び大坂加番を勤めた。

寛永19年(1642年)1月7日、苗木城にて没した。享年34歳。嫡男の遠山友貞が苗木藩主を嗣いだ。

墓所は中津川市苗木の苗木遠山家廟所(明治初期に廃仏毀釈により廃寺となった雲林寺の跡地)。

参考文献

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  • 『苗木藩政史研究』 第一章 苗木藩の成立 第一節 苗木藩の成立事情 二 歴代藩主の素描 二代刑部少輔秀友 p10 後藤時男 中津川市 1982年
  • 『中津川市史 中巻Ⅰ』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第三節 領主の略系譜 一 遠山家 遠山刑部少輔秀友 p45~p46 中津川市 1988年 
  • 『恵那郡史』 第七篇 江戸時代 (近世「領主時代」) 第二十八章 諸藩分治 其二 苗木藩距江戸 遠山秀友 p232~p233 恵那郡教育会 1926年 
  • 『福岡町史 通史編 下巻』 第五部 近世 第一章 近世における苗木藩の概観 第一節 苗木藩成立と領村支配 苗木遠山氏と藩主 p1~p8 福岡町 1992年

脚注

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  1. ^ 母は滋野井季吉の娘