郡山新木山古墳
郡山新木山古墳(こおりやまにきやまこふん)は、奈良県大和郡山市新木町にある古墳。形状は前方後円墳。
郡山新木山古墳 | |
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墳丘(右に前方部、左奥に後円部) | |
別名 | 丸山古墳 |
所在地 | 奈良県大和郡山市新木町 |
位置 | 北緯34度38分32.87秒 東経135度46分29.18秒 / 北緯34.6424639度 東経135.7747722度座標: 北緯34度38分32.87秒 東経135度46分29.18秒 / 北緯34.6424639度 東経135.7747722度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長122.5m 高さ10.7m(後円部) |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 埴輪 |
築造時期 | 古墳時代中期前半 |
被葬者 | (宮内庁推定)阿倍古美奈 |
陵墓 | 宮内庁治定「郡山陵墓参考地」 |
地図 |
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「郡山陵墓参考地」(被葬候補者:第50代桓武天皇尚蔵阿倍古美奈)として陵墓参考地に治定されている。
概要 編集
奈良盆地北西部、東を秋篠川・佐保川、西を富雄川に挟まれた緩やかな西の京丘陵の最南端に築造された大型前方後円墳である[1]。これまでに墳丘は大きく改変を受けているほか、2012年度(平成24年度)に宮内庁書陵部による墳丘周囲の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を南南西方向に向ける。墳丘は3段築成[注 1]。墳丘外表では葺石・埴輪が検出されている[1][注 2]。また墳丘の西側くびれ部では造出の存在が推測される[1]。墳丘周囲には盾形(または馬蹄形)の周濠が巡らされる[1]。埋葬施設は未調査のため明らかでなく、副葬品も詳らかでない。墳丘周辺にはかつて陪塚と見られる古墳数基が存在したというが、現在はすべて消滅している[2]。
築造時期は、古墳時代中期前半(川西編年III期[1])頃と推定される(従来は古墳時代後期の築造と推定された)。実際の被葬者は明らかでないが、かつて阿倍古美奈(第50代桓武天皇尚蔵、784年死去)の墓に擬されたことがあり[3]、現在では宮内庁により陵墓参考地に治定されている。
遺跡歴 編集
墳丘 編集
墳丘の規模は次の通り[5]。
- 墳丘長:122.5メートル
- 後円部
- 直径:72メートル
- 高さ:10.7メートル
- 前方部
- 長さ:59メートル
- 幅:7.5メートル
- 高さ:9メートル
脚注 編集
注釈
- ^ 墳丘について、従来は2段築成とされてきたが、平成24年度の宮内庁書陵部による測量調査では前方部前面について3段築成と観察されている (書陵部紀要 陵墓篇 第64号 2013)。
- ^ 葺石について、墳丘内において葺石に使用されたと見られる石材はほとんどなく、従来は存在しないとされてきたが、平成24年度の宮内庁書陵部による発掘調査において葺石の一部が検出されている。多くの葺石が失われた要因としては、豊臣秀長による郡山城整備が可能性として指摘される (書陵部紀要 陵墓篇 第64号 2013)。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k 書陵部紀要 陵墓篇 第64号 2013.
- ^ 新木山古墳(平凡社) 1981.
- ^ 戸原純一「村国墓」『国史大辞典』吉川弘文館。
- ^ 書陵部紀要 陵墓篇 第66号 2015.
- ^ 新木山古墳(平凡社、刊行後版) 2006.
参考文献 編集
(記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(大和郡山市、1993年設置)
- 宮内庁発行
- 『書陵部紀要 陵墓篇 第64号 (PDF)』宮内庁書陵部、2013年。 - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
- 「郡山陵墓参考地整備工事予定区域の事前調査」、「郡山陵墓参考地出土石材の石種とその採石地」。
- 『書陵部紀要 陵墓篇 第66号 (PDF)』宮内庁書陵部、2015年。 - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
- 「外構柵整備工事に伴う立会調査」。
- 『書陵部紀要 陵墓篇 第64号 (PDF)』宮内庁書陵部、2013年。 - リンクは宮内庁「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」。
- 事典類
- 「新木山古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)、2006年。
- 木下亘「新木山古墳 > 郡山新木山古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「新木山古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。