本来の表記は「郭伋」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

郭 伋(かく きゅう、紀元前38年 - 47年)は、中国前漢時代末期から後漢時代初期にかけての政治家。字は細侯司隷右扶風茂陵県の人。父は蜀郡太守の郭梵。

事跡編集

姓名 郭伋
時代 前漢時代 - 後漢時代
生没年 紀元前38年建昭1年) - 47年建武23年)
字・別号 細侯(字)
本貫・出身地等 司隷右扶風茂陵県
職官 漁陽都尉(前漢)→上谷大尹(新)

→并州牧(新)→左馮翊(更始)
雍州牧(後漢)→尚書令(後漢)
→中山太守(後漢)→漁陽太守(後漢)
→潁川太守(後漢)→并州牧(後漢)
太中大夫(後漢)

爵位・号等 -
陣営・所属等 哀帝平帝孺子嬰王莽更始帝光武帝
家族・一族 父:郭梵

郭伋は若くして大志を抱き、哀帝平帝の代に大司空府で用いられ、3度の昇進・異動を経て漁陽都尉となった。王莽を建てると、上谷大尹[1]となり、さらに并州牧に遷った。

更始帝(劉玄)が即位し、更始2年(24年)に長安に遷ってきたが、三輔では豪族たちが割拠し安定しなかった。更始帝は郭伋の名を聞いていたため、これを召し寄せて左馮翊に任命し、民衆を鎮撫させた。

建武1年(25年)、光武帝(劉秀)が即位すると、雍州牧に任命され、さらに尚書令に転じて、諫言を度々行った。

建武4年(28年)、中山太守に転任し、翌建武5年(29年)には彭寵滅亡後の漁陽郡に太守として赴任した。当時の漁陽郡は、王莽・彭寵時代の影響もあって、民衆は狡猾で、盗賊が蔓延っていた。郭伋は赴任すると直ちに、信賞必罰の姿勢で臨み、盗賊の首領たちを次々と誅し、盗賊を壊滅させた。また、匈奴が度々郡界に進入していたが、郭伋が兵士や軍馬を整備し、攻守の手はずを定めたところ、匈奴は恐れて進入してこようとせず、民の暮らしは安定した。郭伋の5年間の統治で、漁陽郡の戸口は倍増した。

建武9年(33年)、潁川郡で盗賊が発生したため、郭伋が潁川太守に任命されることになった。潁川の盗賊たちは郭伋が来たと知ると、次々とその下を訪れて降伏し、郭伋は彼らを農民へと帰した。郭伋は勝手に盗賊たちの罪を赦したことについて、自らを弾劾して光武帝に報告したが、光武帝は罪に問わなかった。郭伋の声望は遠く江南や幽州冀州にまで轟き、盗賊たちが引切り無しに投降してきたという。

建武11年(35年)、盧芳が北方を占拠していたことに対処するために、郭伋を并州牧に任命した。郭伋はかつて同地に赴任したときに、よく恩徳を施したことため、郭伋が再び赴任すると聞いて、各県邑から民衆が老幼を連れて歓迎した。当時、朝廷では多くの人が郭伋を大司空として推薦したが、光武帝は、郭伋が盧芳や匈奴への対処に適任と見てこれに応じなかった。郭伋は盧芳を簡単に制圧できないと見て、烽火による警戒を厳重にし、懸賞をかけ、内紛を待った。その結果、建武12年(36年)に盧芳の部将随育が郭伋に降伏し、盧芳は匈奴を頼って逃亡した。

その後、郭伋は骸骨を乞い、建武22年(46年)、太中大夫として召された。翌建武23年(47年)、死去。享年86。

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  1. ^ 大尹は太守に相当。ただし新代には、耿況が朔調連率となっており、これも上谷太守に相当する地位である。

参考文献編集

  • 後漢書』列伝21郭伋伝 列伝2盧芳伝