阿部 政澄(あべ まさずみ)は、江戸時代前期の武蔵国岩槻藩の世嗣。官位修理亮

 
阿部政澄
時代 江戸時代前期
生誕 文禄元年(1593年
死没 寛永5年8月4日1628年9月1日
官位 修理亮
武蔵鳩ヶ谷藩上総大多喜藩相模小田原藩→武蔵岩槻藩世嗣
氏族 阿部氏
父母 阿部正次佐原義成
兄弟 政澄重次盛次内藤信照正室、
成瀬之成正室、安藤重元
本浄院
正能阿部忠秋養女
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略歴

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徳川家康家臣・阿部正次[1]の長男として誕生した。母は佐原義成の娘。正室は加藤清正の娘・本浄院(あま姫)。子は阿部正能(長男)、娘(阿部忠秋養女、有馬康純継室)。

大坂の陣には、父と共に参陣し武功を挙げている。その後、大坂城代になった父に代わり岩槻藩[1]の留守を守るが、家督相続前に病没した。弟・重次が外祖父の三浦重成(義次)の養子になっていたが復姓し、家督を継いだ。

長男・正能は、重次の家督相続の際に正次から分知を受けて大多喜藩主となったのち、従弟の忠秋の養子となり、武蔵忍藩主を継ぐ。娘も忠秋の養女となった。

脚注

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  1. ^ a b 政澄出生時には存命であった祖父・阿部正勝の死後、その嫡男として家督を継いだ正次は、その直後に関ヶ原の戦いの戦功で大名に列し、武蔵鳩ヶ谷藩から始まって上総大多喜藩相模小田原藩、武蔵岩槻藩と加増転封を重ねた。