難波 木蓮子(なにわ の いたび、生没年不詳)は古墳時代飛鳥時代豪族吉士吉士 木蓮子(きし の いたび)とも言う。任那滅亡後の「任那の調」実現のための外交交渉を担当している。

経歴

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日本書紀』巻第二十によると、敏達天皇4年(575年)、百済が使節を派遣して、例年よりもたくさん調を貢進した際に、天皇は押坂彦人大兄皇子大臣蘇我馬子に、「任那のことを怠らないように」と口にしたという[1]。これにより、4月に吉士金子新羅に、木蓮子が任那に、吉士訳語彦(きし の おさひこ)が百済に派遣された、という[2]。これにより、6月、新羅も使いを遣わし、調を貢進し、同時に元任那であった4つの邑の調を貢進した、という[3]

同13年(584年)、天皇の命により木蓮子は今度は新羅への使いとして派遣された。だが、「遂に任那へ之く」としか述べられていないため[4]、新羅へは到着できなかったようである。

『書紀』巻第二十一によると、崇峻天皇4年(591年)、上述の吉士金とともに、それぞれ先に訪れている任那・新羅に派遣されている。この時、紀男麻呂巨勢猿大伴囓葛城烏奈良を大将軍とする2万あまりの部隊が筑紫国に駐屯していた[5]

『書紀』巻第二十二によると、推古天皇8年(600年)2月に新羅と任那が交戦することがあり、天皇は任那を救おうとして[6]、境部臣(境部摩理勢)を大将軍、穂積臣(穂積祖足)を副将軍とする1万あまりの軍隊を派遣して新羅を討った、とあり、この時に5つの城を攻略し、さらに新羅は旧任那内の6つの城を割譲して降服した。その後、天皇は新羅に難波吉士神(なにわ の きし みわ)を、任那に木蓮子を派遣し、事情を調査させ、結果として新羅と任那は使節を贈り調を貢進し、天上と天皇の意向に従うこと、相互不可侵・毎年の朝貢を約束した、という。しかし、将軍等が撤退した後、新羅は再度任那に侵攻した[7]。その結果、再度、ヤマト政権は朝鮮半島に軍を進めることになり、大伴噛を高句麗に、坂本糠手を百済に派遣することになった[8]

以上が、朝鮮半島に関連する、難波吉士木蓮子の関与した事績である。その後の彼の行動については、記録されていないので不明である。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』敏達天皇4年2月11日条
  2. ^ 『日本書紀』敏達天皇4年4月6日条
  3. ^ 『日本書紀』敏達天皇4年6月条
  4. ^ 『日本書紀』敏達天皇13年2月8日条
  5. ^ 『日本書紀』崇峻天皇4年11月4日条
  6. ^ 『日本書紀』推古天皇8年2月条
  7. ^ 『日本書紀』推古天皇8年是歳条
  8. ^ 『日本書紀』推古天皇9年3月5日条

参考文献

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関連項目

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