雷ノ峰 伊助(らいのみね いすけ、1903年8月17日 - 1940年5月10日)は、神奈川県横須賀市出身の大相撲力士。最高位は西前頭3枚目(1929年5月場所・9月場所)。本名は新倉 伊助。現役時代の体格は187cm、98kg。得意手は右四つ、吊り、寄り、投げ、うっちゃりなど[1]

来歴

編集

1919年1月場所、雷部屋から初土俵を踏む。幕下で全勝して、1924年5月場所十両に昇進、翌1925年5月場所には入幕を果たした。横綱2代梅ヶ谷の率いる名門雷部屋も、その後は低迷が続いていたなかで、若手のホープとして期待された。1927年5月場所には、9勝2敗で優勝旗手になるなど、その期待に応えられるかというところで親方が急逝、彼をはじめとする力士たちは、部屋を転々とすることになる。最初は元玉椿憲太郎白玉親方に預けられたが、親方もまもなく死去、その後一門の八角部屋に移籍する。その中で、彼は西ノ海宮城山の横綱、能代潟豊國の大関陣に対して、各場所ひとつは殊勲の星をあげるなど、活躍を続けていた[1]

1929年5月から立浪部屋に移籍、方屋も連合側に移って、出羽海勢と対戦するようになると、徐々に精彩を欠いてはいたが、幕内中堅力士として、存在感を出していた。しかし、預かり弟子ということもあって、1932年春秋園事件のときに脱退[2][1]してからは、帰参もかなわず、1936年の現役引退まで天竜三郎たちと行動をともにした。

主な戦績

編集
  • 幕内在位 24場所(脱退した1932年1月を含む)
  • 幕内成績 114勝135敗4休 勝率.458
  • 金星 2個(3代西ノ海、宮城山各1)

場所別成績

編集
雷ノ峰伊助
春場所 三月場所 夏場所 秋場所
1919年
(大正8年)
(前相撲) x (前相撲) x
1920年
(大正9年)
新序
1–2 
x 東序ノ口10枚目
3–2 
x
1921年
(大正10年)
西序二段32枚目
3–2 
x 西序二段7枚目
1–2 
x
1922年
(大正11年)
東序二段13枚目
優勝
5–0
x 東三段目15枚目
3–2 
x
1923年
(大正12年)
西三段目3枚目
7–3 
x 西幕下25枚目
5–1 
x
1924年
(大正13年)
東幕下3枚目
優勝
5–0
x 西十両6枚目
5–1 
x
1925年
(大正14年)
東十両筆頭
優勝
7–1
x 西前頭13枚目
7–4 
x
1926年
(大正15年)
西前頭4枚目
4–7 
x 東前頭7枚目
2–9 
x
1927年
(昭和2年)
西前頭11枚目
3–8 
西前頭11枚目
7–4 
西張出前頭
9–2
旗手
 
東前頭4枚目
4–7
1928年
(昭和3年)
東前頭5枚目
6–5 
西前頭3枚目
2–9 
西前頭6枚目
5–6 
西前頭6枚目
6–5 
1929年
(昭和4年)
東前頭8枚目
6–5
東前頭8枚目
7–4 
西前頭3枚目
2–9 
西前頭3枚目
6–5 
1930年
(昭和5年)
西前頭4枚目
6–5 
西前頭4枚目
2–9 
西前頭7枚目
6–5 
西前頭7枚目
4–7 
1931年
(昭和6年)
東前頭8枚目
2–5–4 
東前頭8枚目
7–4 
西前頭6枚目
7–4 
西前頭6枚目
4–7 
1932年
(昭和7年)
東前頭7枚目

脱退
 
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

脚注

編集
  1. ^ a b c ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p25
  2. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p9