霊明殿

京都市東山区の泉涌寺にある殿舎

霊明殿(れいめいでん)は、京都市東山区泉涌寺にある殿舎

霊明殿

歴代天皇の尊牌(位牌)を祀っている。現在の建物は、1884年明治17年)に明治天皇勅命で再建されたもので、宮内省内匠寮によって造営された。

皇室では、宮中三殿「皇霊殿」で歴代皇霊を神式で祀っているのに対し、皇室の菩提寺御寺(みてら)と呼ばれる泉涌寺では、「霊明殿」で仏式で祀っている。皇室の慣例と同じく、先帝四代の回向を行い、祥月命日には年忌法要が営まれ、天皇の代理として、宮内庁京都事務所の職員が代拝している[1]

概要

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霊明殿

霊明殿は、古代中国の漢代礼制の故事にある皇帝に先祖を配祀するための廟堂「霊台」「明堂」が語源で、日本では天皇に関する位牌所を指して広く用いられ、皇室ゆかりの大覚寺仁和寺などにもある[2]

現在の霊明殿は、1884年(明治17年)に明治天皇の勅命によって宮内省が再建したもので、外観は宸殿風で、屋根は檜皮葺となっている。殿内は内陣・中陣・外陣に分かれ、内陣は5室の厨子となっている。それぞれに御扉を設け、中央御扉内には四条天皇の尊像と尊牌をはじめ、明治天皇・昭憲皇太后大正天皇貞明皇后昭和天皇香淳皇后御真影と尊牌が奉安されている。 それ以外の天皇や皇后の尊牌は左右の御扉内に、さらに左右には皇族の尊牌が奉安されている[3]

歴代天皇の尊牌(位牌)は、内裏(現在の京都御所清涼殿黒戸(仏間)などに安置され、中世以降江戸時代までは仏式で供養が行われ、春秋の彼岸会法要も行われていた。しかし、明治維新後、神仏判然令により宮中祭祀はすべて神式となったことから、歴代天皇の念持仏などとともに泉涌寺に遷された。

歴史

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1246年寛元5年)、四条天皇の国忌を泉涌寺で厳修。

1669年寛文9年)、後水尾院による泉涌寺の寛文復興。後水尾院統の家廟として「霊明殿」成立。

1876年明治9年)、宮内省通達により、京都府内の寺院に奉祀されていた歴代天皇の位牌を泉涌寺に一元化。

1882年(明治15年)、「霊明殿」焼失。

1884年(明治17年)、明治天皇の勅命により現「霊明殿」竣工。

逸話

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泉涌寺には天智天皇とその孫に当たる光仁天皇以降の天皇が祀られており、天武系統の天皇が祀られていない[4]ことから、天智天皇と天武天皇は兄弟ではないなどの陰謀説も出ている[5]。しかし、天智天皇の尊牌は、1876年(明治9年)の宮内省通達による「京都府下各寺院之尊牌」結集で、山内塔頭の法安寺から遷されたものであり、天武系統の天皇は、奈良県内の薬師寺東大寺西大寺などに祀られている[6]

脚注

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  1. ^ 尾藤克之 (2019年3月27日). “「新元号」の真の意味とは? 天皇の菩提寺・御寺泉涌寺に聞いた”. オトナンサー. メディア・ヴァーグ. 2021年2月5日閲覧。
  2. ^ 石野浩司 (2015年). “「泉涌寺における明治期「霊明殿」の成立ー皇室祭祀と御寺泉涌寺の関係ー」”. 明治聖徳記念学会起要 復刊第52号: 217頁. 
  3. ^ 文化財・施設”. 泉涌寺. 2021年2月5日閲覧。
  4. ^ 泉涌寺は京都の寺院であるため京都に遷都した桓武天皇を初めとし、その父・光仁天皇と曽祖父で京都に近い近江大津宮に都し、御廟野古墳に葬られた天智天皇を加えたと思われる。桓武天皇は即位の詔で父と曽祖父に言及している。天武系以外にも平城京に戻ろうとした平城天皇を初め、後醍醐天皇以前には多数の脱落がある。また京都の北朝を正統とし、吉野南朝は後醍醐天皇と正平一統後村上天皇のみである。
  5. ^ 井沢元彦 (1998年). “『逆説の日本史2 古代怨霊編』”. 小学館. 
  6. ^ 石野浩司 (2015年). “「泉涌寺における明治期「霊明殿」の成立ー皇室祭祀と御寺泉涌寺の関係ー」”. 明治聖徳記念学会起要 復刊第52号: 233頁. 

参考文献

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  • 皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』KADOKAWA、2019年
  • 久能靖『知られざる皇室ー伝統行事から宮内庁の仕事まで』河出書房新社、2019年

関連項目

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外部リンク

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