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馬屋町(まやちょう)は、江戸期から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8357。2017年6月1日現在の人口は212人、世帯数は110世帯[1]

馬屋町
馬屋町の位置(青森県内)
馬屋町
馬屋町
馬屋町の位置
北緯40度36分19.44秒 東経140度27分36.47秒 / 北緯40.6054000度 東経140.4601306度 / 40.6054000; 140.4601306
日本の旗 日本
都道府県 青森県
市町村 弘前市
人口
2017年(平成29年)6月1日現在)[1]
 • 合計 212人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
036-8357
市外局番 0172[2]
ナンバープレート 弘前

地理 編集

青森県道3号弘前岳鰺ケ沢線(新坂)を下った場所に位置し、青森県立弘前工業高等学校の裏手に弘前城の西の郭が接している。当地は主に住宅地として機能する。町域の北部から東部にかけて下白銀町、南東部は上白銀町、南部は新町、西部は鷹匠町に接する。

歴史 編集

  • 天和2年 - 岩木川堀替え工事が未完成で、西部に隣接する鷹匠町とも通じていなかったことから、弘前城の西外の郭とされていた(津軽弘前城史)。
  • 正保3年 - 町名は無く、当地は堀と樋ノ口川に囲まれ、侍屋敷と馬屋が見える(津軽弘前城之絵図)。
  • 慶安2年 - 当地の西側は御馬屋町と見え、御馬屋3軒。東側は本百石町と見え、侍屋敷35軒(うち空家4軒)があり、川沿いに材木場が設置される(弘前古御絵図)。
  • 万治2年・寛文13年 - 当地の西側に馬場が設けられ、その西側に馬役、青沼藤兵衛ら3人の屋敷がある(弘前中惣屋敷絵図)。
  • 貞亨3年 - 上白銀町とを結ぶ坂道(新坂)が作られる(奥富士日記)。
  • 元禄13年 - 当地の西側に馬廻馬場と馬屋3軒。東側に侍屋敷が35軒あり、馬屋町・馬屋中町・馬屋前町・馬屋後町の4区画に分かれている(弘前侍町屋敷割)。
  • 寛政5年 - 寛政の改革による藩士土着令で当地の藩士が在方へ移住し、御家中潰町の1つに数えられる。当地には御目見以下、諸組諸支配の藩士の屋敷が給される(平山日記)。
  • 寛政12年 - 馬屋町に武家屋敷17軒、馬屋南小路(前町)に武家屋敷6軒、馬屋中町に武家屋敷9軒のほかに御馬飼育所があり、馬場の西側に武家屋敷3軒がある(分間弘前大絵図)。
  • 明治初年 - 戸数28(国誌)。
  • 1935年(昭和10年)8月22日 - 集中豪雨のため町内全戸、床上もしくは床下浸水[3]

沿革 編集

  • 江戸期 - 弘前城下の一町。
  • 慶安2年 - 当地の西側は御馬屋町、東側は本百石町と称される。
  • 元禄13年 - 馬屋町・馬屋中町・馬屋前町・馬屋後町の4区画に分かれて称される。
  • 明治初年〜明治22年 - 弘前を冠称。
  • 1889年(明治22年) - 弘前市に所属。

地名の由来 編集

当地に馬屋があったことから。

施設 編集

教育 編集

商業 編集

  • 高木学習社
  • アキモト製麺
  • 嶽開発本社ビル

その他 編集

  • 馬屋町渋川記念福祉会館

小・中学校の学区 編集

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。

大字 番・番地 小学校 中学校
馬屋町 全域 弘前市立城西小学校 弘前市立第二中学校

交通 編集

工業高校前(弘前駅 - 工業高校経由 - 藤代営業所線)停留所。

脚注 編集

  1. ^ a b オープンデータひろさき 弘前市 町名別人口・世帯数_平成29年”. ひろさき未来戦略研究センター (2017年6月1日). 2017年6月18日閲覧。
  2. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  3. ^ 記録破りの豪雨で県下全般水浸し『東奥日報』(昭和10年8月24日).『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p16-17 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

参考文献 編集

角川日本地名大辞典 2 青森県(角川書店)