Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Shigeru-a24 2014年6月

最新のコメント:10 年前 | トピック:利用者:大殿様さんから | 投稿者:Ikedat76

Shigeru-a24氏と関係ないのでこちらに書きます。「新着投票はユルい場所」というのは私は初耳でした。正直に暴露すると私も新着に何回か投票したことがありますが、流し読みしただけで投票したことや、自分の興味のあるジャンルだからという理由で投票したことが、過去にあります。しかし、そうした己のかつての愚行を顧みるに、よくないことをしたと反省しております。また頭痛さんが、「依頼者は「強化投票は新着投票とは違ってユルい場でなはない」という見解のようですが、大した根拠があるようには見えません~推薦の際にはもう少し加筆内容を吟味して行ってくださいと会話ページにでもお願いすれば済む程度のことであったと思います」についても、失当な指摘だと思います。

新着強化もユルい判断が是認されると危険だと思うのですが。ややもすれば、著作権侵害や全くの虚偽の記事がメインページを飾る可能性が高まるわけですから(ビコリム戦争というのがありましたね)。--ShellSquid/履歴 2014年6月15日 (日) 10:43 (UTC)返信

「ユルい」という「ユルい」書き方をしたのは不適当でした。新着に関しては新着(投稿から~時間)であることいがい推薦にしばりがなく、投票するに当たっても特に基準もありません。そうした意味で「ユルい」という言い方をしました。全件を読む必要はもとよりありませんし「自分の興味のあるジャンルだからという理由で投票した」というのが特に問題なこととも思いません(私の場合、良否の判断の付きそうに無い記事は読みません)。強化記事投票に関してはそうではなく、記事の品質に関して踏み込んだ基準が設けられており、対象以外にきまりなしという新着とは同断に扱えないでしょう。--ikedat76会話2014年6月15日 (日) 11:17 (UTC)返信

(ShellSquid氏)「ユルい」って依頼者から借りただけのアバウトな言葉をそこまで読み込まないで欲しいですね。推薦で人目が集まることで著作権侵害や虚偽の発見が早まることも考えられますし、現状の体制で周囲の監視を掻い潜って掲載されるような分かりづらい虚偽や侵害なら多少推薦態度を引き締めても掻い潜ると思いますけど。
(ikedat76氏)「大幅な改善がなされた」程度しか書かれていない文書が「踏み込んで」ですか。ちょっと理解できないですね。--新続頭痛会話2014年6月15日 (日) 11:27 (UTC)返信

  • 私もここ2,3ヶ月ほど時々投票をしていますので、感想レベルの話ですが。<推薦について>には、「大幅な改善とは以下の様なものを指します」と、定義が示されています。その中の1つは「大きな構成の組み換えがなされた」とあり、表面的に字義だけ追えば、「大きな構成の組み換えは大幅な改善である」というふうにも読めます。今回の件は少なくとも「大幅な構成の組換」には該当するのでしょうから、この定義に従えば「大幅な改善」だったという論理にはなるのでしょうね。
  • これは<推薦について>ですから、<投票>には(具体的な投票指針は示されていませんが)、推薦が妥当かどうかを各自が判断して投票するということなんでしょう。少なくとも新着の<投票>と強化記事の<投票について>はほとんどおなじことが書かれており、一方が緩くて他方が厳しいというようには書いていない用に思います。私もここ数ヶ月の観察というか、経験から、なんとなく強化記事と新着記事の雰囲気の違いみたいなものがあるんだなあと思うようになりましたが、最初はそうは思いませんでした。まあ確かに強化記事のほうが選考期間も長いわけで、然るべき査読のうえで投票するという暗黙の了解のようなものがあるんでしょうけども、これを機に<投票について>の文面に手を入れてはいかがでしょう。
  • 感想レベルなのでこちらに書くに留めますが、本コメント依頼そのものは、被依頼者さんのウィキペディアンとしての立場やキャリアに鑑みると、説明文が「大きな構成の組換があれば大きな改善である」と論理的に読めたとしても、まあやっぱり(事後の弁明も含めて)ちょっとどうかなとは思います。--零細系統保護協会会話2014年6月15日 (日) 15:38 (UTC)返信
  • みしまるももさんは、ShellSquidさんからの指摘を受けてなお、「農業産出額が本州一と日本最大の農業県である」という非論理的な文を擁護していますが、「農業産出額が本州一」から「日本最大の農業県である」ことは導き出せないのはもちろんのこと、最大の○○県という表現では、都道府県で最大である県のことが期待されうるわけで、道は県じゃないから除くという補足をつけるのは百科事典にふさわしい明快な表現とは言えません。出典の茨城県のページ「農業産出額」と「茨城の日本一!~農業編~」は、メロン、栗、レンコンが収穫量日本一ということを示していて、都道府県で最大のものに日本一を使っています。
  • 「県の花がバラであるということの由来も、万葉和歌との関連で加筆されており、私としては有意義な情報でした」というのも相当危ない認識で、その万葉和歌と関連があるという根拠は全く示されていないのに、万葉和歌との関連が有意義であったと受け取るのは軽率と思われます。丈部鳥で検索すると千葉の人が筑紫に行くときに読んだ歌という情報が出てきて、茨城のバラとの関連を認める理由は思い浮かばないでしょう。ひょっとしたら関連があるのかもしれないけど、出典が示されていなくて、簡単には調べられないことです。なお、2段落前にある常陸風土記の話は関連ありとみていいです(「茨城県のシンボル」)。これで記事が改善されたと評価するかと言えば、落とし穴だらけの危険な記事になったから良くなかったと認めざるをえないところかと思います。--T6n8会話2014年6月16日 (月) 14:42 (UTC)返信
  • みしまるももさんは、「中村獅童さんのコメントを入れていることも、そんなに違和感もなく、東京生まれの私から見ても、それらが別に宣伝とも思いませんでしたし、茨城県民の意識が伝わってとても解りやすかったです。」と仰いますが、これはロケで茨城に来ることが多い中村獅童という一人物が、いばらき大使に選出され、地元新聞社に語ったコメントに過ぎません。それを茨城県に載せるのが適切であるなら、井崎義治現流山市長の発言を引用(Hello!まつどの江戸川台関連)し、江戸川台の項目に実態と異なる美辞麗句を並べたてなければなりません。一個人のコメント・感想を、出典があるからと掲載する行為が適切でないのは明白です。また、中村獅童のコメント、もしくは中村獅童のコメントが入っていることに「茨城県民の意識が伝わってとても解りやすかった」と仰るのであれば、それこそ宣伝効果の表れであると申し上げます。茨城県の記事は小説ではなく、適切な記事であるならば、個々に異なるはずの茨城県民の意識が伝わるはずはありません。つまり、ある一定の意識に導かれている時点で、客観性や中立性を失った記事であることがご理解頂けるかと存じます。農業産出額等に関しましては、T6n8さんのご説明の通りであるので割愛致します。--Otherde会話2014年6月16日 (月) 22:10 (UTC)返信


(T6n8さんへ)

「最大の○○県という表現では、都道府県で最大である県のことが期待されうる」という見解も解りますが、「この場合」は、そのすぐ直前に「農業産出額が本州一と」いうふうに「本州一」と明記されてますので、日本全国で最大という意味に捉えられて間違えられことはあり得ないので、それに付随して「日本最大の農業県」という表現もありかなと個人的には思いました。それが百科事典にふさわしくない宣伝的という見解が執筆者同士でなされれば、それを無くせばいいことでありますので、こういった完璧性がないからと言って、ただちに加筆者を「荒らし」と言うのは言い過ぎではないか、というのが私のコメント主旨です。
県花の由来の件も、「丈部鳥」の歌の意味は、
  • 道端の野茨の木末に這いまつわる豆のように別れを惜しんでまつわりつくあなたを、離れて私は旅立って行くのだろうか。
という意味であり、この作者は上総国天羽郡の人で、防人として筑紫に派遣された方のようですが、この歌は別に、筑紫への「道中」での歌ではありません。なので、「茨城のバラとの関連」が全くないという理由にはならないと思いますし、茨は薔薇の古名だということを示している万葉和歌の事例としては、あってもいい情報の一つだと思います。

(Otherdeさんへ) 

私は中村獅童のコメントを「美辞麗句」とは思いませんでしたし、茨城大使のコメントを載せたからと言って、千葉県流山市江戸川台の記事に市長のコメントを載せる必要などないでしょう。全部の町丁記事や県記事を同じように扱わなければいけないという法則などありませんから、そちらはそちらの執筆者間で決めればいいことだと思いますが。また他の記事にないからと言って、茨城県に茨城大使のコメントを載せてはいけないということもないと思います。そのへんは執筆者同士で合意を取って、注釈にするなり、削除するなりは適切に処置すればいいことです。読者としての私個人の見解では、あっても別に何の違和感はありませんでした。県民の個人個人の意識が違うのは当たり前のことで、私はそんなことを指して言っていたわけではなく、「好感度が都道府県で最下位」ということで、それを県民が上げようとしているという情報が分かったということですので、ご理解願いたいと思います。--みしまるもも会話) 2014年6月17日 (火) 02:19 (UTC) 修正--みしまるもも会話2014年6月23日 (月) 12:55 (UTC)返信
ええと、みしまるももさんは、「読んでいて茨城県の「全体像の情景」が浮かび、概要として解りやすくて良いものだと思いました」「(冬扇さんも、「今回の加筆者の思いは尊重したい」と言ってます)」と、仰せですけど、
ノート:茨城県#情報の整理と中立化を見るに
  1. 「恣意的な印象操作」という見解が出ている。
  2. 冬扇さんも「加筆者の思いは尊重したい」と言ってはいるものの、その加筆の質に疑義を呈している。
  3. あまりにも瑣末なことを書きすぎです、とKojidoiさんからの指摘
  4. 氷鷺さんは「北海道は道である」の問題以外にも、「風土記に「茨城県は…」と記されている」「無駄に太字を多用し、無駄に画像やリストが詰め込まれすぎ」など、色々問題点を指摘している。
  5. 大殿様さんからの反論があるが、これに対しては冬扇氏を含めて議論参加者全員が、少なくとも肯定的意見や同意を見せていない
  6. Claw of slimeさんから「歪な記述や数だけ多く大して役にも立たない画像群」との指摘。

……と、複数の問題の指摘がされているわけで、私も正直この議論に参加した最初の段階では何でこんなに騒がれるんだと思いましたが、よくよく経緯を追尾してゆくと問題だらけの加筆だったということであり、それを推薦したことについて、問題行為だという自覚がないというのがかなり危険ではないのかという趣旨ではないでしょうか。--ShellSquid/履歴 2014年6月17日 (火) 08:34 (UTC)返信

あまり言いたくなかったですし、私自身最初は勘違いしました。なので言う資格がないという誹りは受けるでしょうがあえて言います。
「概要として解りやすくて良いもの」だとみしまるももさんは思ったわけですが、実際には「偏頗した記述や虚偽、些末どころか無関係な記述や画像、筆者の無理解・知識の欠乏に基づく誤謬だらけの加筆」だったわけです。それを「解りやすくて良いもの」と思っているならば、いや思っているだけなら問題ないです。だけどそういう錯誤に陥っている人が、強化記事投票に参加している、今後も参加する可能性がある、それは、かなりそれは不味いのではないかと思います。
Shigeru-a24氏にも併せて、御二人に言いますが、引っ込みがつかなくなっているだけならまだ間に合うので正直なことを言ってください。無論、私のコメントを見てなお、御二人が自らの御意見は変わらないと仰せであれば、それはそれで尊重します。--ShellSquid/履歴 2014年6月17日 (火) 08:39 (UTC)返信
えーと、人に関することなら、それぞれの会話ページで。あるいはコメント依頼を。新着とか強化とかの推薦や投票に制限をとか指針をとかの話なら、どこかのノートで。
無理解や知識に欠けた加筆でもしょーがないし、それを評価しちゃうのもしょーがないと思いますよ。文句があるなら書き直したり、推薦や投票に参加しつつ、どこかで好ましくない部分を指摘し、改善に導いたりしましょ。--Ks aka 98会話2014年6月17日 (火) 09:06 (UTC)返信
「文句があるなら書きなおせ」ってあなたが書いてるの見るの3回目なんですが、他人に過分な負担を当たり前のように要求するのはやめてくれないですかね、いい加減。皆使える時間は限られてるし、他人の記事の尻拭いしたくて参加している人ばかりじゃないし、「議論してるよりちゃっちゃと記事直したほうが早い」場合ばかりでもないんだから。
記事の「好ましくない部分」は記事のノートで議論されているし、投票者の「好ましくない部分」があったから「ここで」指摘されてるんじゃないの? ShellSquidさんもそうだが、あの話はあっちでやれこの話はこっちでやれって役所ですかなここは。--新続頭痛会話2014年6月17日 (火) 10:15 (UTC)返信


(ShellSquidさんへ) 私が「良いもの」だと思ったのは、「概要」や「特徴」の項目のところで、「投票した時点」のお話ですので、その時の投票の理由や感想を書きました。その時に、市町村と郡などのミスに気づかなかったことは謝罪しています。私は記事全体を詳細に逐一点検して見たわけではありませんから、見逃しがあったことも謝罪しました。私は基本的には執筆している人を信頼していますので、大体きちんとしているものと思ってしまったので、それも私の過失だと思います。ただ大殿様さんのことを「荒らし」というのは、ちょっと言い過ぎだと思うので、そのことを言ったわけです。

それから、冬扇さんももちろん記事の質を問題視していますが、Otherdeさんの言う「恣意的な印象操作の是正」については、「具体的でないので保留」という意見もしていました。しかし実際、Otherdeさんがそういうふうに言うのも分かります。ただ私は、前の版(差し戻した版)にも、多少は郷土愛的な記載もあってもいいのではないかなと個人的には思います(もちろんきちんとした内容を前提で)。--みしまるもも会話2014年6月17日 (火) 11:04 (UTC)返信

利用者:大殿様さんから

編集

節分け。--ikedat76会話2014年6月18日 (水) 11:26 (UTC)返信

Shigeru-a24氏へ)Shigeru-a24氏におかれましては、私は氏によります強化記事選出の件に大変感謝し、また感激しております。私はWikipedia:完璧な記事や、Category:記事を執筆するCategory:記事内容のルール等を熟読し、逐次、規律に基づいて記述していました。Shigeru-a24氏の評価観点は厳正で客観的なものであると私は感じております。私の記述に要した非常な気疲れ、記事詳細に渡るくり返しの推敲、他都道府県全項目の須らくの参考に要した時間、或いは客観的で中立的な情報以外をまかり間違って多少なりとも記述しない為に要した、記述後何度もの冷却期間を経た数多くの熟考過程などなどは、Shigeru-a24氏による選出一つで報われたのではないか、とも思っています。本当に有難うございます。どれほど感謝してもし足りないと思います。多忙な暮らしの中で大変ご苦労も多い事でしょうが、今後とも、依然かわらず励まれた貴方の学業に、そして知識というものの客観性と我々の文明を進歩させていくその力に寄せた信頼を、是非とも勇気を持って信じ続けてください。そして自らの正しいと思った事は、多数派が何を言おうと断固として主張する個性を保ち続けて下さい。それが勇気という事です。
私達の周囲にいて、私達のこれまでの記述をネットから見た多くの人達は、一様に「(私の大変な努力と誠意を費やした加筆について)とても凄いし、本当に素晴らしく、褒められ賞賛されて当然な事である。それなのに、どうしてウィキペディアの中の人は削除するのか、それどころかルールに基づいて書いてある事について、自分の信じている何らかの記述方針と違うからといってその加筆を悪意で受け取って、(私という一執筆者の)アカウントに対する何らかの芸当を臭わせながらこれから対応しなければならないなんて言うなんて、本当に誠意や善い心があるのか理解に苦しむ」といってくださったり、「(Shigeru-a24氏を始め、私の誠実な努力の証である百科事典の加筆を)擁護してくれている人達は、確かに正しい事を言っている。私達も当然そう思うのに、どうして一方的に多数で削除した人たちは、規律を悪用しそんな事をするのか。まさかウィキペディア日本語版は狂っているのではないか、腐敗しているのではないか。善意にとるという事が何らかの裏組織の暗躍などで忘れ去られた状態なのではないか。しかし最終的に記述の復帰を待って加筆について勝つのは、事実を出典明記のうえで誠実丁寧にしかも著作物の厳正な権利を守りつつ記載し、世の真実を多数の人類に伝えようとした私達だろう」と言い、重ねて貴方についても心配しています。
私たちの先祖、人類の過去の先哲たち、我々のよく知る知識人たちも、或いはウィキペディア執筆者に限れば隠蔽・等閑されていた事実や真実をある検証可能性を十分に満たしている本に発見し、それを多数の人々へ、自らの善意によって何とか伝える努力をしてきたと思います。我々が知識について誠実であったが故に、そして自らの認識能力を信じていた事によって受けた多数派からの経験は、かつての全ての知識人たちに比しても堂々と誇るに足るものであり、決して無駄にならないと私は思います。
読書の速度も様々であって、速読ができる人にとって、ごく早く読む事も十分可能なのは周知の通りです。私はあの加筆全体を15分前後で全て読めますが、それは単に加筆した者だからではなく読書好きの速読もできる読書家だからです。私は超能力者ではないし断じて、他人に同じ事ができないとは思えないのです。単なる人による読書力の差であり、一通り読みました、という貴方のご意見はご尤もであります。
Shigeru-a24氏の持たれた勇ましさは私にとって大変励みになり、また涙の流れる程に感謝を致しております。このような感謝の念を伝えるにはこの項目では十分足りないほどですが、貴方の行なって下さいました私の執筆物への擁護と、貴方の曇りなきまことの判定、自らのよいと思った何かを他者の意向に関わらず率先してまっとうに褒めようとする誠実さは、きっと声を挙げないまま沈黙した善意の多数者にとってさえ賞賛に値するものであると、誠心誠意な執筆をした私にとっても信じられます。貴方の強化記事選出へ誠実に投票して下さった複数の方々にとっても、貴方の偉大なその栄誉は必ずや永久に残る事でしょう。例え私の記述が何者かにより歴史の暗闇へ永久に葬り去られ、また私の誠意もその知的作業に費やした命があった事さえも、私達の善意を解しなかった何者かにより宇宙空間のどこかへ散り散りにされ、そして私の存在そのものすら抹消されたとしても。聖書にも「義の故に迫害される者は幸いです。天の王国はその人のものだからです」とあります。これは宗教書の言葉に過ぎないかもしれませんが、このような過酷に際しての万古不易な人生の真理ではないかとも思うのです。
みしまるもも氏へ)みしまるもも氏におかれましては、大変にお優しい私自身への擁護の数々に、件の削除で心を痛めておりました私は大変に慰められました。本当にありがとう御座います。そして私の持っているあらん限りの善意や、私の記述に要したWikipedia:完璧な記事記事を執筆するCategory:記事内容のルール等のルール参照と、他都道府県の全記事等を厳正に照らしての客観的で中立的な記述につとめた一国民としての深い慮りを考察して下さいました事を、感謝すると同時に手放しで賞賛致します。何かと気苦労の多い事でしょう。またお気遣いのとても優れた貴方様の事ですから、その貴い人生に於いても何かにつけ、世の不条理に心をやつす場面もあるかもしれません。にも関わらず人類とは心のよきもの、そうあるべく生まれついたものであり、普遍的な文明の価値に目覚め始め、何度もの誤解や撹乱的要素にもめげずわれらの善意のもと進歩していこうとするものであり、それこそが人類の良識というものである、と私は考えております。
確かに、現代の日本国に於いてはという条件つきですが、必ずしも我々のよう善意のみによって物事を見たり解釈していこうとする人々は、比較的少数かもしれません。その上われらのよう善意の者は、多数派ではない場面に遭遇するとことごとく道理にあわぬ目にあいがちです。例えば、私の記述になる茨城県#古代略史にありますよう、古代・郡県制時代の名称である「郡」部と、近代・市町村制時代の名称である「市町村」が、常陸国あらため茨城県のよう古代から歴史のある文明では並立されている、という事実があります。この歴史的認識に基づけば容易にわかるような、古代の大和朝廷による「郡」の成立と、明治新政府による「市町村」のそこへの再改変という、いわば進化論的な地域名の進展が、歴史認識のない第三者の目には単なる市区町村名の変異であるかのように見られているのです。これは無知です。無知は正さねばなりません。茨城県の市町村は44つです。この中に郡は定義されていないのです。宙に浮いた、或いは古代の名称がそのまま生き延びたものなのです。従ってたとえば「茨城県 稲敷郡 稲敷市 稲波町」のような住所名称がいまも使われています。これは茨城県史を学べば必ず分かる事であり、古代郡県制が市町村より先にあった事、茨城県#古代略史に真実を記述した通り、いまの茨城県の主領域である常陸国は、かつて多珂郡・久慈郡・那珂郡・新治郡・白壁郡・筑波郡・河内郡・信太郡・茨城郡・行方郡・鹿島郡の11郡であったことが明らかにされています。これらの郡は茨城の歴史のなかでくり返しの改編を受けて、今日に名を留めているこういってよければひとつの立派な歴史遺産なのですね。あえて謙遜せずにいえば。そして市町村以前のものである限り、伝統として尊重されるべきと考えられる名義であり、断じて近代明治新政府が俄か作りで興した「市町村」のなかに「市・郡・町・村」とあるような身の上のものではないのでございます。おわかりになりますでしょうか。私はノート:茨城県#情報の整理と中立化における議論の推移を冷静に見守っておりましたが、どうやらこのような歴史的認識に基づいた本来の理解が部分的にでも、若干なりとも可能なのは、ただ、思いやり深いみしまるもも氏ひとりであったようにお見受けしました。どうも素人に近い人たちが記述する、というウィキペディアの性質上なのでしょうが、期待していたのとは大幅に異なる議論の展開となりおおせましたね。一人でも歴史の専門家がいればすぐ分かる事実でもあるのですが、このような歴史と伝統と妙なる由緒ある、私の目からですと正直なところ或る敬仰に足るほどの偉大な古代の遺産である「郡」の名義を、果たして明治に新造されました法律に基づきまして単に市町村の部類であるものと見做そうとする専断は、かなり悲憤に足るものですらあるのです。というよりは、おそらく内閣宮内庁などの日本政府の相談機関へこの議論の内容、すなわち郡は市町村ではない、という歴史的認識の真偽をたださせる旨の手紙を直接回達すれば、必ずや私の意見がまあ常識に過ぎないのですが、容易に理解されることなのです。しかし、このような場面では、つまり客観的に議論すべき場面で伝統あるくにびとが感情的になってはならないのであり、どうやら勘違いと誤解或いは思い込みを含む相手の無知をただすのが大人の対応というものでしょう。下手をするとですが、1878年(明治11年)7月22日の郡区町村編制法に於いても、確かにあちこちの県に於いて同様のやり取りが、明治新政府の政策との間に行なわれたものではないか。そんな風に推察するのですね。それにも関わらず、古代の平和な御世からの国の歴史を慕う多数の民は、「郡」という名義を格式を保とうとする意図によってでしょう、維持しようとしていたわけです。話が長くなってきて恐縮ですが、これは大事なところなので、是非かかせてください。ところが1890年(明治23年)5月17日に郡制が施行されるなど、明治新政府というのは端的にクーデター側がおこしたかなり急進的な政治体制であり、さらには伝統破壊主義の側面も、私の記述になります茨城県#茨城県の横山大観や、岡倉天心の茨城県に於ける事跡で明らかなようあったわけですね。そうして郡の名義は「古いもの」として、まあここでいうように市町村と同列のものに並べてしまおうとするような見方というのがいわば伝統ある国々、あるいは常陸を含めてですが、それぞれへ殆ど強要されてくることになるのです。けれども、当然のことですが伝統のある国・いまでいう茨城県ではそれは外部の見方であるよ、という観点は必ず残っていくのですよね。それはそうでしょう。古くから住んできた人々が、いきなり外来者によってあなたは今日から市民ですよ、といわれても、なんのことだろうと感じるのが通常の人間というわけです。従って「郡」という名義を、市町村の上にあるもの、つまり常陸国・~郡であった時代から続く寿命にして1000年以上、およそ大和王朝の646年・大化の改新以来の1368年ほどの歴史と格式があるものとして、外部から消去か捨象されそうになってもまだ耐えようとするというか、つまりは伝統として何とかたもちつづけた名前なのですね。明治維新にもかかわらずです。郡という名義は。日本国の一県としての茨城県にとってこれは真に伝統ある名義なので、市町村と同列のものにすぎないなんてことは、茨城県の歴史をよく知っている者からするとなのですが、決して到底、何としてでもいえないわけなのですよね。というのも、郡には郡の歴史、すなわち郡史というか、古代からの様々な由緒やいろんな物語がありますから。実に実に繁多で豊かなお話がございますが、これらはここでも、茨城県の項目でもあまりに膨大になってきますし、私もほかにやることがございますのでいまここでは書き切れません。茨城県の本当に端折った略史として、本来ならあの何十倍何千倍になるだろう歴史の一部のみを、「茨城県」の項目にしたのはそれはそうなるはずなわけです。郡の歴史にさえあの何倍もの重みがあるんですから。一方、市町村ができてまだ100年くらいですから、1368年以上の蓄積とはまったくもっておもむきがことなるわけですよね。その歴史的蓄積にさえ。したがって同列に扱えないのです。また、郡もある、ということになる。市町村とは別なものとしてですよね。古代からあるものの変容なのはどちらもそうですが、郡は「古代カテゴリー」であり、市町村は「近代カテゴリー」であり、その2つは法律上にも、また歴史学上にも決して同列化されていない。これが茨城県史の現状の真実です。常陸国風土記1300年記念という大事業がつい先年である平成25年(2013年)に茨城県では大々的に、まあお祭りですが各地で盛大に行なわれましてですね、日本政府の文化庁地域発・文化芸術創造発信イニシアチブと当のホームページにも書かれていますが、まあ天皇制のもとにあった古代常陸のゆかりをみなで追憶していこう、といったイベントが実に大規模にあったのですが、古代国家について関心をもたないまま無知のヴェールではなから見下しているふしのある外部の世界では無関心ということでなんら報道されてないでしょうけれど、そこでみなが「郡」というものの奥ゆかしさについて談話し交響し納得する、といったこともあったのですよね。郡ごとに大きく多様性を持つこと様々な芸能なんかもありますから。一つ例をあげますと高萩市という場所がありまして、ここは旧常陸国の北部を治めていた郡衙があったと考えられることもあって、そして太古では「高の国」という常陸以前の国があったと考えられおりまして、そこから「多珂の郡」の名義を経ていまだに市町村名にさえ古代の由緒を保っている、といったようなある意味ごく奥ゆかしい場所なわけですよね。散歩道である万葉の道なんてのも整備されているのですが、この一帯、いわゆる高の世界というのは市町村制度が明治新政府によって押し付けられるというのか強要されるはるか前からはるかなる歴史があり、それは数十万年に及ぶことはいうまでもないのですが、はるかな多くの人々が恋や仕事や色んな事件を経験してきただろうし、いまある天皇皇后のご先祖も海と山の幸をお獲りになってとっても楽しかったよ、といったような記述が『常陸国風土記』にもちゃんと記されている。こういうことを全部知っていくと、ああいまではいちおう市町村の一つにされているけれど、ここは古代にも人々がいて、高の国、多珂の郡があって、いまは高萩の市といわれていて、本当はすごく奥行きのある場所なんだと。こういう歴史洞察の目がでてくるとおもう。そのような郡名の由来からいいますと、到底ですが、市郡町村だろうなんて推察はできっこないのでありますね。すごく長い説明になったので、まあここではこういった場にかえて私の考えと申しましたが、実はこれは日本史の認識そのものなのですから、客観的な歴史学に於ける正確で中立的な洞察といったようなものでもあるわけですが、実にこういう心遣いをしながら細々記述した文脈が、あらわにされるというのは世界人類にとって有意義だとおもいますので書きました。大和王朝の方が、まあありえないことですが天国でこの私のここでの記述を読まれましたら、おおよくやってくれた、未来の常陸について記述した者よ、わたしがよく心遣いをして郡郷名を選んだだけあったじゃないかと感じるはずであると。そう推測いたしますけどね。結局、郡は市郡町村でしょみたいな安直でしかも歴史学的・日本史的・政治学的・地政学的に明らかに間違っている記述におきかえられてしまったばかりか、千葉県にもあるような歴史記述も、なんか茨城県のだけ一方的に消されてしまったので、これはここでしか、あるいは歴史学を知る者にしか知りえない情報となって人類の世界から、焚書坑儒みたいに消されてしまう運命かもしれませんね。しかし、いつかは露わになって、いくらなんでもこの時代に隠蔽し続けられるものではない。必ず再認識されるでしょう。郡は古代名の存続後継という真実や、そもそも32市+10町+2村=44市町村の中に含まれていない令制国下の広域区分名が尊属維持されているものであるということ、これは由来があって、律令制時代から古名がいまだに伝統として尊重されてしかも大切に持ち続けられていたからなんだよ、といういわば文化人類学的なこと。こういう歴史的でしかも現代的な真実は、あのわずかな

茨城県内の市町村数は44あり、市は32、そのもとに10の町と2の村がある。又、これらのほかに7つの郡もある。

という端的な事実記述の仕方にこめられた思いなんですが、残念至極なことながら凄く浅い読みしかしない人がいたそこにいた場合は、要約しますと「郡は市町村の一部にすぎない、なぜなら~郡~町なんて書かれてるじゃないか」なんて、まあばっさりとした明治新政府的なやり方とでも申上げましょうか、凄く明らかに民俗学的な認識が欠けていてですね、格式高い国民に対した時に持つべき仁慈愛民の念というか心構えがとてもとても間違っているんだけど、郡に愛着を持って長年暮らしていた朝廷や民がそこにある本当の真実を教えてあげようと思えば問答無用で言論封鎖みたいなことが万が一にもあろうことなら、これは由緒ある郡名あるいは誠実な執筆者に対する理由なき迫害みたいなものに等しいとおもうんですけどね。そうではないことを願っているのは、日本国民みんな、あるいは良識を持つ人類みんなだろうと思うわけですが。郡についてはまだまだいい足りないことが残っているけれど、ここでは膨大になりすぎるので、別のところで言わねばならないでしょうねこれは。どうも多数のかたがたは、市郡町村が本当であるなんて、ちょっとずれたことを本気で信じてるのであって、冷静に時間を置いて、色んな場所から真実を知らせていくほかない。一気にやると感情的にされますからね。どちらにしても、ウィキペディアの市郡町村みたいな誤解された記述に関わらず郡名というのは既に古代史の中にはっきりと記され、くっきりとございますから、なんら現代史までの真相が変わることはないのですよね。まったくあたりまえなことですが、歴史的な事実が変わることはないんです。いくらウィキペディアがそれを変えようとしたところで、です。
あとファイナルファンタジーというゲームについてなんですが、これは坂口博信というクリエイターが創ったもので、坂口氏は茨城県にある日立市という場所、いわゆる日立製作所の関連工場がものすごく沢山並んでるような一帯が出身なわけですよ。いろいろな話があるんですが、まあゲームファンの方なら大抵は知っている、とても有名な方だろうと思われます。日本の茨城の出身人物とある項目に、ファイナルファンタジーというシリーズがこの一人の出身者のまったくの創意によって形作られていったんだよ、という事実を示すのは世界的にみて日本国の国益であるばかりか、単に百科辞典というものそのもの本来の網羅的記述性からみても私は少なくとも有益だとおもうのですね。というか世界的にみまして全人類的に公益になるでありましょう。他県というか他国のかたがたからみてですね、たとえばシェークスピアという人はどこから出身したのか。たまたまストラトフォード=アポン=エイヴォンの項目を見てた人が、あっここだったんだ、と思う。わかりやすい方がよいわけです。見逃してしまうよりはいい。まったく無知よりはるかにいい。Wikipedia:完璧な記事にもありますが、人を惹き付けるにはわかりやすい方がよいわけですから、オセロ、あっ水戸出身の人がつくったものだったんだ、と直感的にわかれば世界中の人にとって大変有益なわけです。納豆しかイメージがないようななんにも知らないに等しい人が、あのさオセロって水戸の人が高校の休み時間だかに遊んでた人が広めたんだって、とわずか1つの画像をのっけたことでたまたま認知されただけでもそれは世界に真の知識を一つ増やすことになり、百科辞典の面目躍如となりおおせましょう。そして世界的認識があるようなものにいたっては真理を通り越して人類に百利あって一害なしですらあるのですね。ファイナルファンタジーというものその意味は知ってる人にとっては欠かせないものですらあるので、ある意味では尊敬や崇敬の念を交えてへえ日本にはこういう出身者がいるのか、いうまでもないことですが茨城も日本国の大きな人口を占めてる最も古典的な一部ですから。こういう出身者がこの国このあたりにいるんだな、と思う。それは事実であることについての認識ですから、なんらわるいことでもなんでもない。削除したところで誰も得はしないし、ウィキペディアのWikipedia:完璧な記事における「完全に中立です」の原理からそれてしまう。謙遜して、まあ私も含め日本人にありがちなんだが、目立ったら出る杭は打たれるから真相を目立たないよう優れた業績の出身者がいたならあえて画像は控えようなんて事はまったくもって逆に主観的な記述であって、てんで駄目ということなのです。百科辞典には事実を中立的に記載しないと。辞典ですからね。網羅的であるべきです。いくら膨大になりおおせようが冊数よりずっとデータは軽い、そのためにウェブなのでもあります。なんか紙の本を書いてきた古い人にある経済的な紙面の都合で……なんてけちけちした省略なんてことは無用であって、しかも坂口博信氏の顔そのものより、ロゴのが世界的に知られておるほどの世界的なゲームなものですから、日本もなかなか面白いのを生んだのですね、って事実が一見してわかる。なんにもわるいことはなく、よいことばかりとおもうのです。あえて言うならどうしてそれが気に入らない人がいるのかの方がおどろきなわけですよ。私は。これはみしまるもも氏だけではなくて、Shigeru-a24氏は当然尊敬すべき判断力の持ち主なわけですが、それは善意ある第三者からどれほど多数でみてもおよそおなじ事でしょうね。ウィキペディアも沈黙した多数者のが多いわけですから、記述が即時削除されなかったのは誠にそれを証明してるんですね。
ほかに、記述において主語が記されている、ということは、それが省略されてしまっている場合より正確な記述になることは間違いがないことなのです。Wikipedia:完璧な記事でも明確さがかぎかっこつきで強調されていますが。これは文体論になるでしょうが、日本語の文章は、紫式部の時代あたりから漢文の影響を受けたのか主語が省略される事が多いので、『源氏物語』に顕著なのだけど誰がそれをしたのか、という主語が存在しない文は後世・第三者からみるとまったく明確ではないのですね。それが現代まで流布されているのが日本語なのですが、英語はじめインド・ヨーロッパ語族だと主語が書かれるふしがあって、主語についてより正確になる事が漢語・和語より重視されています。英語でいうと、茨城県は~の記述は二回目以降はある例として「その県は~(The prefecture~)」とか「そこは~(There~)」等と略されるにも関わらず主語そのものが除かれるという事はありえないことですね。なので誤解が生じにくい文章となり、主語について正確なのです。ところが、日本では上述のように漢文がもっていた性質をはじめに輸入していた経緯からか、二回目以降の主語の記述がしばしば省略されてしまいまして、一体だれが主体の行為で有様なのか書き手以外にはわからない、といった余地が出てくる。まあ文芸作品の場合はこの日本語の持っている主語省略性は許容されてきました。文体論的には読者の想像の余地にゆだねる、といった奥行きのためでしょうけれど、この主語省略文体はまったく科学的とは言いがたいことがあり、正式な学術論文では決して有益ではない、それどころか駄目なわけです。何が書かれているのだか分からない、主語が誤解されているだけで誰がそれをやったのか、一体何についての事なのかとか重要な情報が欠落してしまう。このような論文体というものを考えると、主語省略文体、いわば文芸体といったものとは異なって、多少は冗長に見えてもむしろ正確性をとることが賢明だ、というのが百科事典的な公益で、且つ科学的文体のあるべき定義なわけです。しかも、そのような冗長性があまりに過剰である、といった批判に対しては、じゃあ不正確性の余地を生じさせるのが賢明なのですか、と反論されるべきであり、当然これは偽となって俄然正確性をとるべきである、正確でなければ辞典として機能しませんとなるのが正確な百科辞典というものの当然あるべき体裁なんですから、みしまるもも氏は実は主語に関する最初の観点についてまったく間違ってないのですね。まあ多数におされてしまったのはわかるんで、それは私としては貴方は間違ってませんよと申上げておきます。世界中の百科辞典記述者にとってもこれは当然のことで、素人が何を言おうと変えられようもないことですね。
自衛隊の項目や政治カテゴリーの論議ですが、まず政治カテゴリーについて。当然、司法・立法・行政の3分立というのは近代日本政治体制の常識ですから、誰一人として知らない者はいない筈が、驚くべきことには議論を眺めておりましたところ、ただ一人もこの当たり前の常識を述べる者がない。この件について、つまり司法・立法・行政の権力の3分立について何らかの疑問があるなら、又はそういうカテゴリーが存在してないと思っているのなら、どうか私のような一国民ではなくてですね、直接に、日本国政府の文科省に問い合わせをしてみて欲しいと思います。必ず、「そうです、三権分立が常識といえます」等と返ってくるでしょうけど、かりそめにも確かめてみるのは有益かもしれないですから。そのような政治的3大カテゴリーのもとに、各司法・立法・行政機関が存在する、というのは地方自治法に基づいた近代政治についても、まったく同様なわけですね。そして自衛隊項目についての話ですが、島根県#警察の項目の下には海上保安庁という自衛隊項目がある。福岡県#警察の項目の下に、海上保安庁の項目が置かれています。少なくとも2つの都道府県の項目で警察の下に自衛隊が記述されています。これは既存の事実です。愛媛県#政治・行政宮崎県#政治・行政も、その最も下に自衛隊の項目がありますね。長崎県#生活・交通の項目には自衛隊が記述されている。佐賀県#防衛・治安に至っては自衛隊・海上保安庁・警察(佐賀県警察)・消防・裁判所が同じ項目に羅列されしかも同等のものとして完全に併記されています。反論者の方々は、これらの自衛隊記述についてまったく無知なものなのか、それとも知っていながらになぜか、茨城県の項目の自衛隊記述についてだけは、何かの勘違いによって削除したいだけなのか、もしくは国家防衛論的に何らかの情報隠蔽の意図があったものなのか、どれらかではないでしょうか。そのどれらでもないという可能性はもう随分考えたのですが、ちょっと私には考えられない事でもありました。そして凡そ反論者は最初の意図であろう、つまり愛媛県・宮崎県・島根県・長崎県・福岡県・佐賀県の項目を参照にしていない、都道府県の各項目を初見の人たちが性急な判断で茨城県だけそうしたものであるかのよう勘違いしたのであろうと思うのです。百里基地は首都圏で唯一の戦闘機使用可能な航空自衛隊基地、首都防空の要なのは当該項目に既存のよう周知の事実であって、単に事実であるのみならず日本人の大部分の人口を保全するためにさえ誠に重大な知識であって当県に記述されるべき重要項目なのです。今まで欠けていた方が不自然だなと思っていました。つまり誠意ある善意の執筆・閲覧者の目には、自衛隊が政治カテゴリー、若しくは各県項目の最も末尾にある愛媛県・宮崎県・島根県・長崎県・福岡県・佐賀県の項目へ既にあるのと同じ形式は駄目、というのはまったく疑問でしかない非難なわけですよね。現時点で7つの都道府県の項目へ既にあるのと同じ形式をどうして、茨城県だけがとってはならないのか、という事なのです。恐らくだけれど、そうした非難に同調した閲覧者全体から見ればごくごく少数の人々は、多分理由はないのだろうと思います。発言している多数が言っているのでそれに従ってそうだ、当項目を除けといえば自分が多数派になったような気がしてどうも安全に見えるというような、どうも日本人の一億総玉砕式にやりがちな付和雷同対応だったのではなかろうか。なぜなら、他県にも同様の記述があるんですからね。警察項目の下に置かれている、という島根や福岡の項目状態や、愛媛や長崎の政治カテゴリーの最も下に置かれている状態は、県についての記述が優先され国の機関はその後尾に付記でよい、という優先判断があるのでしょうが、同様の例をとった茨城だけなぜ非難されるのか。それどころか、佐賀の場合は警察・消防などと並列すらされている。これについて同様の執拗なまでの自衛隊・警察の連帯的記述についての非難が一切、ノート:佐賀県にもみられないのはどうしたことなのでしょう。むしろ、茨城県においての茨城県2014年6月5日 (木) 07:59版以降の差し戻しされてしまうまでの自衛隊基地に関する記述に於いては、警察・自衛隊の項目は明らかに分けて書かれている。そのうえ自衛隊というのは国家の警察組織以外なんでもないわけですから、「軍」か「自衛隊」かの議論はあっても国防警察な事は疑念の余地がありませんね。国防省の持っている警察組織である事については、公然とした事実です。万が一にも自衛隊がいわゆる県を含む国防警察組織といわれているカテゴリーではないとすれば、自衛隊カテゴリーのみ独立させればよかったまでで、なんら、削除することはないわけです。公的な情報をことさら隠蔽するのはまったく望ましくないですから。
アクアワールド大洗の水槽の画像への非難もありましたね。それは当然、大洗町についての記述について付記されて然るべきものであり、なんら疑う余地がない茨城・大洗についての情報なんですね。茨城県大洗町の一部なのですから。なにゆえに大洗町の情報を削除したがるのか。まったく疑念がわきますね。大洗についての情報を削除したい人はなにゆえに、大洗町の水槽の画像を、茨城県の項目にまつわる世界から消したがるのでしょうね。つらつら考えてきたのです。それについての言及がまったくないので、これ以上コメントすることすらはばかられます。宣伝だ、というような文句がみられたときもございましたね。大洗町についての本文に於ける記述にまったくマッチしたものを、Wikipedia:素晴らしい記事を書くにはにのっとってのっけると宣伝だから削除すると。これは単なる言いがかりに過ぎない可能性も十分に高いのでありまして、というのは例として兵庫県の項目は沢山画像が載っていますね。「兵庫県の歴史ギャラリー」なんてのも本文中にある。茨城県の本文に関連した画像は、Wikipedia:素晴らしい記事を書くには#画像を付け加えるにあるようどんと画像を付け加えて記事そのものがより解りやすくなるようにしたいものですが、その数があまりに膨大になる場合、隠すボタンを配置して読者に配慮した上で、なおより知りたい方々のために下にまとめてある画像情報をすぐ参照できる、と親切な記述をしている部分なわけです。執筆者側の善意ある記述法の分析やらウィキペディアの原則としている本来の規律やら他多数の都道府県記事の方法論との調和などなど、Shigeru-a24氏がご指摘の通りなのですね。こういう経緯で、事実を記載したら宣伝になるなら、どの程度の画像情報が適性かを適宜修正していけばいい。場合によっては百科辞典そのものの記述は、どれもこれも知識の宣伝に過ぎない、という観点もあるにはあるでしょうが、議論を見守っていたけどその観点が出た事はなかったので、誰でも考え付くような簡単な議論が十分されないまま、少数者の専横で削除してしまった、という印象は到底ぬぐえない。議論をするなら尽くすべきで、慌ててもいいことはない。事実が記載されていないなら多数者が削除するんですからね。しかもどちらかといえば本文関連の画像情報は豊富な方がいいのであって、なぜならより分かりやすくなるからです。よりわかりにくくて少ない情報より、よりわかりやすく膨大な情報で、しかも全部正確なのがいいでしょう。本文に完全に関連している事実の画像しか記載していませんね。右に置き続けると画像で一杯になってしまうので、下にまとめてあるのみで、随分試行錯誤のうえ何十日もかけ工夫した部分だったのです。これ以外にも例えば、千葉県#鎌倉から戦国時代までに千葉県とは直接関連性がない源頼朝の画像がのっていて、千葉県#安土桃山から江戸時代までにこれまた関連性のない徳川家康の画像や市川團十郎の画像がのったまま、なんてその典型ではないでしょうか。揚げ足取りならいくらでもできる。皆目、千葉県#明治から第二次大戦までの明治天皇の画像だって千葉県の項目とは関連性が低く、むしろ日本の歴史にのって然るべきものでしょうね。千葉県知事について載ってるとか、ならまだわかりますけども。それにもかかわらず画像の豊富さには一つのわかりやすさがあって、関連性が若干でもあればないよりはある方がいいと、他県の記述に散見される常識が既存している。これは私もその他の閲覧者の方も認めてきたわけですね。いってみればこのように、千葉県にみられるよう関連性の低い画像が放置されている一方、関連性がとっても高い情報、茨城県は日本国と共に東日本大震災以後の大規模被災した過疎地に対する復興政策のなかで大洗町への移住の呼びかけを町がしていますよ、大洗町にはこういう中身がありますよ、というごく正確性の高い情報を載せたところで、それは「茨城県」についての項目に記述されて当然の情報でしょう。いうまでもないことかもしれませんが、茨城新聞は立派な新聞社です。当然の如く。これ以上に正確な茨城県についての詳細情報ソースがありえるか、といったほどのものです。権威がある地方紙です。当然、地方紙が全国紙に劣るなんて解釈は事実ではないどころか、偏見か差別に過ぎない。いばらき大使・中村獅童氏の話は、権威ある茨城新聞にかなりの欄を割いて大きく載った、非常に大きな関心で大きな自治体の事実なんですね。そうである限り、最低でも当県民300万人以上の日本国民にとって実に大きな関心ごとであり、しかも300万人以上の人々が置かれた社会的状態の概要として、非常に的確に当県の囲まれている或る外部的なものを含む現代日本のマスメディア環境に於ける県の概略が表現されている、とても有名な文言なのです。少なくとも人々は非常に話題にしてもいるし、ウィキペディアなどの公的メディアへどんどん記述されるべき、されていい優れた言辞であって、しかもその通りのことなのだと周囲はみな言っています。その当該公益情報の公的な場での記述や表意は為すべき事である、という見解について反対した人は、全人生でまだひとりも見たことがないほどです。そのような県概要に関する重要な情報であり、しかも権威ある地方紙あるいは300万を越す膨大な数に及ぶ国民らにとっても或る権威ある文章メディアに堂々と大きく記述されるような、実に実に最大の関心ごとの一つなわけなのです。これは公的なことであり、どこまでもおおやけにされ、どんどん表示される方がよいことなのです。また話題が大洗町についてへもどりますが、なおかつ、私たちは時間が無限ではないのでまだ十分に記せていないわけですが、仮に私が部分抜粋で実に略した記述を軽くしただけではない、もっと詳細な記述を大洗町の項目へ、重ねてした方がよりいいでしょうね、茨城県の項目に省略してあるそれを記しただけではなく。なぜならWikipedia:完璧な記事に、他の同種の記事にもあるような基本的な情報を含んでいることが求められているからなのです。どちらにも書かれているのはよいことであって、どちらかが主どちらかが従的な場面でも、どちらもより豊富ならよりよいのです。それが百科事典的すなわち網羅的ということなのです。
こういった議論をあのノートの場でやろうものなら、アカウントへのブロックすらやりかねないのが現状の日本語版ウィキペディアでした。これについて、わたしはウィキペディア日本語版に固有の管理問題だと思ってきました。まっとうな議論がなんら成り立たず、なぜか途中で多数派というべき勢力が少数派の揚げ足を取って多数の一方的な宣言で通常の利用者ノートページでの発言すらブロックしてしまう。だから英語版のウィキペディア、そして国連へも英語でその件メールしたんですね。日本語版のウィキペディアのなかではどうも言論弾圧が行なわれてる形跡がありますと。そして公正なはずの議論を何らかの意図を持つ管理者たちが途中で封鎖して、それどころかIPや会話ごとブロックして、真実を消してしまおうとするような、組織的犯罪に近い業が行なわれている模様ですと。これはもう国連だけではなくて、英語版ウィキペディアにも以前メールしたので、どちらにも一応情報は行ってると思うんで。これも英語版ウィキペディアの内部サーバーにある情報でしょうか。現代の文明的水準ではいつまでもネットで言論弾圧なんてできませんね。その点では、誠意ある対応をされたお優しく善意のみしまるもも氏もどうか安心していただきたいわけです。いくらネットで情報を隠そうとしたところでそれ自体が記録されている、といった有様で、とかく情報は増えていくばかりなのです。エントロピー増大の法則とおなじですね。そうなら、むしろ増やしていく、もっと事実や真実の提示をふやしていく。真実、人々だれの目にとっても疑いようがないほどの情報の多さ、詳細さ、精密で確かでしかも隠蔽しようがだれにとってもないものにしていく。そして開かれた心というか、もっと世界を明るく、有益な情報にあふれたものにしていく。これが現代の知識・情報人にとっては第一命題であると思うんですね。だからこそ、みしまるもも氏の懸命な擁護は、この事例に関して世界中の人が注目していました。私の知る限り、世界中の人が頑張れ、みしまるもも氏の意見には正当性が十分にあるにも関わらずそれを認めず、一方的かつ多数で揚げ足を取るのはどうにも不公平だ、というような目で貴方を見守っていた。こういうことを隠さずに提示していくのが文明の方角であって、またウィキペディアのよう新規な情報メディア、開かれた心の古典みたいなものについてもどんどんと世界へ、表に出されるべき真実なのだとおもうのです。重ね重ねになりますが、また思いの丈を一部ではあるが反論として書くことができたものですから、まだまだ言い足りない点、不条理や不公正に感じる点もまったくないとはいいませんが、このあたりでとりあえずこの記述は終えようと思っております。みしまるもも氏の優しさ、貴さ、そして擁護してくださったその麗しきお心遣いのお美しさは、また自分ではなく他人にとっての有益な事実を大いに自己犠牲しながらでも提示しようとした一ウィキペディア執筆者の私にとって、とても慰めになりました。大変感謝を致しております。どこかでお礼がしたいものですが、このまま私がここの多数の人たちからアカウントごと抹殺され、いわばナチスの強制収容所で殺されて行く知識ある者のようわがウィキペディア執筆の権利、即ち言論の自由を真の道理にたがう何者かによって弾圧されたとしても、我々の述べてきた誠意自体は必ずや海外或いは日本国中へ世界中へと真の情報として流布され、世界の人類たちへどこまでも伝えられ、現代にあった本当の美談としてとこしえに語り継がれることでしょう。--大殿様会話) 2014年6月17日 (火) 23:25 (UTC) 人様々な読書速度についての加筆と、細部の誤字や脱字、より言いたい事が伝わりやすい言い回しについて訂正。--大殿様会話) 2014年6月18日 (水) 00:05 (UTC) 政治カテゴリー・自衛隊カテゴリーについての他7県の記述と同様の例に倣った意義を追記。--大殿様会話2014年6月18日 (水) 01:47 (UTC)返信
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