木村二瓶子
木村 二瓶子(きむら にへいし、1903年 - 1994年 )は、日本の陶芸家、歌人である[1]。本名木村 一男(きむら かずお)[1]。7代目木村 清山(きむら せいざん)であり[2]、その工房は「清山草房」である。生誕・死没ともに京都市。
来歴・人物
編集1903年(明治36年)、京都市下京区五条坂(現在の同市東山区)に生まれる。祖父は陶芸家5代目木村清山(木村市太郎)、父は同6代目木村清山(木村仙之助)、長男は長じて漫画家木村光久(のちの剪紙作家木村祥刀)となり、同志社大学教授の稲本健二は甥、映画プロデューサーでエッセイストの木村立哉は孫(三男の子息)にあたる[3]。
河村蜻山に師事する。粉青沙器のような朝鮮系統の陶芸に魅力を感じ、花瓶や皿、火鉢、あるいは陶硯等の文房具、茶碗、水指等の茶器の制作を多く手がけた[1]。手法としては、三島手、絵高麗手等の高麗茶碗、劃花、緑花、赤絵・青絵を得意とした[1]。
1927年(昭和2年)、岸村不空枝らとともに陶芸団体「土に生きる会」を設立している[4]。1929年(昭和4年)、師の河村蜻山や同志とともに「蒼玄社」を創立、新開覧山らもこれに入会、東京・大阪・神戸・京都で同会の展覧会を開催した[1]。
1940年代の第二次世界大戦中、満州国(現在の中華人民共和国東北地区)に渡り、東安省林口に築窯しての作陶すると同時に、現地で技術指導に従事した[1]。同地での作品は、昭和天皇、香淳皇后、閑院宮、久邇宮、賀陽宮、李王家に買い上げられるなど、献上品を制作した[1]。
フランス政府主催の国際美術展に入選して同国に買い上げられ、文部省美術展覧会(新文展)にも入選、聖徳太子奉讃美術展覧会(東京府美術館、現在の東京都美術館)、大礼記念京都美術館美術展覧会(大礼記念京都美術館、現在の京都市美術館)、商工省工芸展覧会(商工展)、京都市美術展、選匠会展、国画創作協会工芸部(現在の国画会工芸部)、京都美術工芸院展覧会、大阪美術工芸展覧会等に入選した[1]。
歌人としては、吉井勇に師事し、陶芸に関するもの、石仏に関する短歌を詠んだ[1]。松本涼斧に師事して俳句もものした[1]。
1994年(平成6年)、京都・五条坂の自宅で死去した。91歳没。
脚注
編集参考文献
編集- 『京都府百年の年表 8 美術工芸編』、京都府立総合資料館、京都府、1970年
- 『青山二郎全文集 下』、青山二郎、ちくま学芸文庫、筑摩書房、2003年1月8日 ISBN 4480087427
- 『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』、東京文化財研究所、中央公論美術出版、2006年6月 ISBN 4805505230
関連項目
編集外部リンク
編集- 木村二瓶子 - 公式ウェブサイト
- 木村二瓶子 - 公式ウェブサイト(インターネットアーカイブ、2008年8月20日付)
- 木村二瓶子 魚文花瓶 - 作品画像(インターネットアーカイブ、2004年10月19日付)
- 国画会工芸部の創設時代 - インターネットアーカイブ、2008年12月28日付