正村竹一
正村 竹一(まさむら たけいち、1906年9月5日 - 1975年10月18日)は、日本の実業家。パチンコの正村ゲージの考案者。パチンコの父・パチンコの神様・現代パチンコの生みの親[1]と称される。
まさむら たけいち 正村 竹一 | |
---|---|
生誕 |
1906年9月5日 日本岐阜県稲葉郡茜部村 |
死没 | 1975年10月18日(69歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 実業家 |
略歴
編集伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
生い立ち
編集- 1906年(明治39年)9月5日 - 岐阜県稲葉郡茜部村(現在の岐阜市)に、小作人 鐵次郎とこう夫妻の九人兄弟の三男として生まれた[2]。
- 1912年(明治45年) - 茜部尋常小学校に入学[3]。
- 1915年(大正4年)頃 - 初めて奉公に出された[4]。
- 1916年(大正5年)頃 - 指物職人の長崎五三郎に奉公[5]。
- 1919年(大正8年) - 奉公を終え、実家のある茜部に戻った[6]。
- 1923年(大正12年) - 笠松の高木酒問屋に奉公に出[7]、持ち前の器用さを生かして自動ビン洗い機などを開発した[8]。
- 1926年(大正15年) - 高木酒店における奉公を終える[6]。また、独立するまで、長崎のもとで指物職人として働く[9]。
- 1927年(昭和2年) - 名古屋市西区江川横町44番地にガラス商として「正村竹一商店」を開業した[9]。
- 1928年(昭和3年)10月23日 - 岐阜県竹鼻の機屋経営の岩田平次郎の長女、岩田千代子と結婚[10]。当時、あまりの忙しさに式を商店の2階で行なった[10]。
- 1933年(昭和8年)4月29日 - 長女久子が誕生[11]。アイスキャンディー店をはじめた[12]。
- 1934年(昭和9年)12月4日 - 武雄誕生するも、生後5日で亡くす[13]。
- 1936年(昭和11年)1月10日 - 長男竹次が誕生[13]。
- 1937年(昭和12年)1月21日 - 次女光子が誕生。
- 1938年(昭和13年)12月30日 - 西区堀越町字藤田町三丁目16・17番地に貸家を開業[15]。
- 1940年(昭和15年) - パチンコ店の営業及びパチンコ台の製造が当局により禁止された。堀越町字江向町に一棟貸家を開業[15]。
- 1941年(昭和16年) - 三女陽代が生まれる[15]。西区大道町一丁目・中村区則武町西廻りに一棟ずつ貸家を開業[15]。
- 1942年(昭和17年)9月8日 - 次女光子を亡くす[16]。
- 1943年(昭和18年) - 四女勝子が生まれるが、3か月で亡くす[17]。
- 1943年(昭和18年)8月 - 愛知航空機(現愛知機械工業)船方工場に徴用される[18]。
- 1944年(昭和19年)3月 - 昭和19年度所得申告書によればガラス商としては廃業し、扇子製造に乗り出す[19]。
- 1945年(昭和20年)4月24日 - 次男勝一が生まれる[17]。
- 1945年(昭和20年)6月9日 - 勤務先の軍需工場であった愛知航空機で熱田空襲に遭い、右半身の腕から足先にかけて30数発の弾片が突き刺さり、4-5発が腕を貫通する大怪我をするが生還[20]。
- 1946年(昭和21年)5月30日 - 西区江川横町一丁目44番地において「浄心遊技場」としてパチンコ店を再開[21]。「西税務所管内パチンコ営業者一覧表」によれば、従業員はなく、家族7人、20台での営業とある[22]。
- 1948年(昭和23年) - パチンコ機の試作を開始し、正村ゲージを完成させる。
- 1949年(昭和24年) - パチンコ機「オール10」の開発に着手。この頃に正村ゲージを配したパチンコ機の販売を開始し、毎朝店の前に買い手が300mの行列を作る大ヒットとなった[23]。
- 1951年(昭和26年) - 株式会社正村商会を設立[24]。ピーク時に月産約2万台を記録。遊技機1台7000円程だったが、年商は当時10億円を超えたという。
- 1952年(昭和27年)10月21日 - 隠匿物資の摘発という名目で[25]自宅が家宅捜索を受け、50本の金の延べ棒を押収された[23]。
- 1953年(昭和28年) - 1952年に押収された金の延べ棒が1本2000円の公定価格で政府に買い取られた。ヤミの価格では1本100万円、1989年時点での価格では5億円程度になったという[23]。
- 1954年(昭和29年) - 連発式パチンコが当局の規制を受け、パチンコ業全体が衰退する。
- 1966年(昭和41年) - パチンコ製造の直営工場を閉鎖し、事実上のパチンコ業撤退。
- 1967年(昭和42年) - ガソリンスタンド経営に着手した。
- 1973年(昭和48年) - 肺がんを宣告された。
- 1975年(昭和50年)10月18日[26] - 肺がんにより死去。享年69。
正村ゲージが爆発的にヒットし、現在のパチンコ産業の基礎を築いた人物の一人と称えられる。現在のパチンコ台の釘構成も、正村ゲージが原型となるほど影響力がある。
人物
編集言葉
編集脚注
編集- ^ 鈴木笑子 2001, p. 8.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 16.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 18.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 22.
- ^ 鈴木笑子 2001, pp. 23–24.
- ^ a b 鈴木笑子 2001, p. 24.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 26.
- ^ 鈴木笑子 2001, pp. 32–34.
- ^ a b 鈴木笑子 2001, p. 36.
- ^ a b 鈴木笑子 2001, pp. 38–41.
- ^ a b 鈴木笑子 2001, p. 48.
- ^ 鈴木笑子 2001, pp. 47–49.
- ^ a b c 鈴木笑子 2001, p. 49.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 50.
- ^ a b c d e 鈴木笑子 2001, p. 59.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 63.
- ^ a b 鈴木笑子 2001, p. 77.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 66.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 64.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 74-91.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 101.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 102.
- ^ a b c 小野稔 1989, p. 69.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 177.
- ^ 小野稔 1989, p. 70.
- ^ 小野稔 1989, p. 76.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 60.
- ^ 小野稔 1989, p. 71.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 97.
- ^ a b 鈴木笑子 2001, p. 238.
- ^ 鈴木笑子 2001, p. 45.
参考文献
編集- パチンコ博物館案内パンフレット
- 鈴木笑子『天の釘 現代パチンコをつくった男 正村竹一』晩聲社、2001年。ISBN 978-4891883010。
- 正村商会 正村竹一氏プロフィール(経歴)[リンク切れ]
- 小野稔『骨董金側懐中時計』新潮社、1989年。ISBN 4-10-373901-0。
伝記
編集- 鈴木笑子『天の釘 現代パチンコをつくった男 正村竹一』晩聲社、2001年。ISBN 978-4891883010。