竹前重吉

日本の映画監督 (1922-2011)

竹前 重吉(たけまえ じゅうきち[1][2][3][4]1922年6月15日[1][3][4] - 2011年9月11日)は、日本の映画監督である[1][2][3][4][5][6]。名の読みは「しげきち」説あり[6]日本映画監督協会会員[3]

たけまえ じゅうきち
竹前 重吉
生年月日 (1922-06-15) 1922年6月15日
没年月日 (2011-09-11) 2011年9月11日(89歳没)
出生地 日本の旗 日本 山梨県甲府市
職業 映画監督
ジャンル 劇場用映画テレビ映画
活動期間 1947年 - 1970年代
活動内容 1947年 新演伎座文芸部
1953年 宝塚映画製作所助監督課
1959年 監督昇進
1970年 フリーランス
配偶者 あり
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人物・来歴

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1922年(大正11年)6月15日山梨県甲府市に生まれる[1][3][4]

1940年(昭和15年)、旧制・甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業[3][4]第二次世界大戦の召集を受け出征、戦後1946年(昭和21年)に南方戦線から復員する[3][4]。1947年(昭和22年)、俳優の長谷川一夫が主宰する新演伎座の文芸部に入社し、映画監督の衣笠貞之助冬島泰三に師事する[3][4]

1953年(昭和28年)、宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)助監督課に移籍[3][4]、冬島のほか、豊田四郎丸根賛太郎佐伯幸三らの助監督を務め、1959年(昭和29年)、同社が製作した劇場用映画『やりくりアパート』で監督に昇進[3][5]、社員から契約監督となる[4]

同作を含めて6作を監督した後に、松竹から1作のみの条件で東宝系への小津安二郎監督の招請が認められ、宝塚映画が製作することになった『小早川家の秋』のチーフ助監督を務める[2][5]。以降、1964年(昭和39年)まで、内川清一郎稲垣浩らのチーフ助監督を務め[5]、その傍ら、テレビ映画に進出し、『天兵童子』、『マキちゃん日記』等を監督として手がける[3]。1970年(昭和45年)に退社し、フリーランスとなる[4]

1970年代以降、テレビ映画、企業のPR映画、カラオケ映像等の演出を手がけた[4]

2011年9月11日、直腸癌により死去。

フィルモグラフィ

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劇場用映画

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特筆以外はすべて監督、製作は特筆以外は宝塚映画、配給は特筆以外は東宝である[5]。監督作に関してはフルリストである[5]

テレビ映画

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すべて監督、製作は特筆以外は宝塚映画である[3]

  1. ^ a b c d 竹前重吉、キネマ旬報映画データベース、2010年10月27日閲覧。
  2. ^ a b c 竹前重吉、allcinema ONLINE、2010年10月27日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 竹前重吉、日本映画監督協会、2010年10月27日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本映画人名事典 監督篇』、キネマ旬報社、1997年 ISBN 4873762081, p.489.
  5. ^ a b c d e f 竹前重吉、日本映画データベース、2010年10月27日閲覧。
  6. ^ a b Shigekichi Takemae, インターネット・ムービー・データベース (英語), 2010年10月27日閲覧。

外部リンク

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