膳 長野(かしわで の なかの、生没年不詳)は、日本古代の5世紀後半の豪族

 
膳長野
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明
主君 雄略天皇
氏族 膳臣
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記録

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日本書紀』巻第十四によると、推定458年、母親である皇太后の忍坂大中姫(おしさか の おおなかつひめ)の勧めで、雄略天皇宍人部を設置することになった。その際に、皇太后が第一番目に推薦したのが膳長野である。

膳臣長野、能く(よ)宍膾(なます=魚貝や獣などの肉を細かく切ったもの)を作る。願はくは此(これ)を以て貢(たてまつ)らむ

天皇は母親の心遣いに感服し、ひざまずいて礼をし、感謝した。皇太后も喜んで笑われ、追加人員として厨人(くりやびと)の菟田御戸部(うだのみとべ)・真鉾田高天(まさきたたかめ)を推挙した。さらに大倭国造吾子籠宿禰が狭穂子鳥別(さほ の ことりわけ)を貢上して宍人部に加えた。伴造国造もこれに随従して宍人部の人員を貢上した[1]

この伝承は、御食の調理を担当した膳夫が宍人部として独立し、膳臣の一族の者が伴造職につき、新たに宍人臣の氏姓を名乗ったことを表している。追加人員の名前より、当初、大和国宇陀郡奈良県宇陀郡)や添上郡佐保(佐保川流域)など限定された地域のものだったが、朝鮮半島と関係のある膳氏や倭氏の伝承から、半島系の渡来人なども編入して拡充されたことが窺われる。雄略天皇7年(推定463年)の分注にも、

或本(あるふみ)に云はく、吉備臣弟君(きび の おみ おときみ)百済より還りて、漢手人部(あやのてひとべ)衣縫部(きぬぬいべ)、宍人部を献(たてまつ)るといふ

とある[2]

長野を祖とする宍人臣氏については『新撰姓氏録』「左京神別」によると、孝元天皇の皇子で、「阿倍朝臣同祖」の「大彦命男彦背立大稲腰命之後也」とする「完人朝臣」の記述が載せられている。

脚注

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  1. ^ 日本書紀雄略天皇2年10月6日条
  2. ^ 『日本書紀』雄略天皇7年是歳条

参考文献

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関連項目

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