史天安
史 天安(し てんあん、承安4年(1199年)- 憲宗5年5月5日(1255年6月10日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人軍閥の一人である。字は全甫。析津府永清県の出身。曾祖父は史倫。祖父は史成珪。父は史秉直。兄に史天倪、弟に史天沢がいる。子は史枢ら。
概要
編集史天安の祖先はかつて唐朝に仕え大官を輩出していたが、唐の滅亡後衰退して中央政界から離れ、農村の名家となった家系であった。金末、モンゴル軍の侵攻を受けて華北が混乱すると、史家の当主たる史秉直は一族のみならず里中の住民数千人を率いて興隆里を出立し、陥落したばかりの涿州に駐屯するムカリに投降を申し出た。ムカリは史家の投降を歓迎し史秉直を配下の軍団に加えようとしたが、史秉直は老母の世話を見なければならないことを理由にこれを辞退し、代わりに史天倪・史天安・史天沢ら自らの息子たちを推薦した。ムカリは史秉直の申し出を受け入れ、史天安はトルカク(質子)という扱いでムカリの配下ウヤルの下に配属された[1][2][3]。
1217年(丁丑)、張致が義州・錦州を拠点にモンゴルに対して叛旗を翻すと、ムカリはウヤル[4]を中心とする史天安・史枢[5]・史天祥[6]・移剌捏児[7]・王珣ら遼西地方の軍団を招集して進軍し張致を討伐したが、諸将の中でも最も功が多かったのが史天安であったという[8]。
1219年(己卯)にはムカリに従って関右(陝西地方)に侵攻し、鄜州で「鉄槍」の称で知られる張資禄を討ち取ったことで史天安の威望は鳴り響いた[9]。その後、一度モンゴルに降りながら再び寝返った武仙が史天倪を殺害すると、史天安は史天沢らとともにこれを討って西山に敗走させた[10]。1229年(己丑)、武仙を討って兄の仇を討った史天安は、それまでの功績により行北京元帥府事とされた[11][12][13][14]。
1232年(壬辰)、群盗を討伐して尽くその巣窟を平定した[15]。1234年(甲午)に宣権の職を拝し、1246年(丙午)には新帝グユク・カンに入観し牝馬100匹・黄金50両・白狐裘1を与えられた[16][17]。
1254年(甲寅)、病により史天安は先に帰還し、1255年(乙卯)5月5日に57歳にして亡くなった[18][19]。史天安の墓は獲鹿県の東8里にある馬村郷の東にあり、墓に建てられた神道碑に史天安の事蹟を伝えている[20]。
真定史氏
編集高祖某 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史倫 (季) | 佚名 (叔) | 佚名 (仲) | 佚名 (伯) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史成珪 | 佚名 | 佚名 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史進道 | 史秉直 | 史懐徳 | 佚名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史天沢 | 史天安 | 史天倪 | 史天祥 | 史天瑞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史格 | 史枢 | 史楫 | 史権 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史燿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ 池内1980B, p. 50.
- ^ 池内1980A, p. 490.
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「歳癸酉、木華里太師擁貔虎南下、天地為震動。公与昆季合謀曰、是不可以人力抗、廼拉耄稚詣轅門請命。太師亮其衷、留公隷北京師烏野児帳下、属藁韃列牙校」
- ^ 『元史』巻120列伝7吾也而伝,「十一年、張致以錦州叛、又攻破之。木華黎大喜、以馬十匹・甲五事賞其功」
- ^ 『元史』巻147列伝34史枢伝,「枢字子明。……丁丑、従討錦州叛人張致、平之」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天祥伝,「張致盗拠錦州、従木華黎討平之」
- ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「乙亥……及錦州賊張致兵勢方熾、且盗名号、木華黎命捏児与大将烏也児・雕斡児合兵討之。致拒戦、捏児出奇兵掩撃、斬致。木華黎第功以聞、遷龍虎衛上将軍・兵馬都提控元帥」
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「丁丑、叛人張智盗拠義・錦、淫名慝号、挺蕩遼雪、太師出甲撲討、公之功為多」
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「己卯、太師略関右、惟公有不戦、戦無不捷。鄜梟将張資禄、素有鉄槍之称、公与合関生獲之。由是、威望赫然、為諸軍冠」
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「初恒山公武仙、為金城守。真定既内附、太師承制、拜公兄為都帥、以鎮之。仙忌其材武、潜包禍心、卒為所叛。已而公聞其季令経略、公興師致討、亦率衆赴援、遂復取正定、仙奔西山」
- ^ 池内1980B, p. 52.
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「己丑、仙再振、連肆抄掠、公糾兵襲撃、破平之。録功行北京元師府事、仍撫治正定府一道」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「枢字子明。父天安、字全甫、秉直仲子也。歳癸酉、従秉直降。太師木華黎以其兄天倪為万戸、而質天安軍中。丁丑、従討錦州叛人張致、平之。己卯、従略地関右、生擒鄜州驍将張資禄号張鉄槍者。乙酉、武仙殺天倪於真定、天安率衆來会天沢、併力攻仙、敗走之。以功授行北京元帥府事、撫治真定」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「枢字子明。父天安、字全甫、秉直仲子也。歳癸酉、従秉直降。太師木華黎以其兄天倪為万戸、而質天安軍中。丁丑、従討錦州叛人張致、平之。己卯、従略地関右、生擒鄜州驍将張資禄号張鉄槍者。乙酉、武仙殺天倪於真定、天安率衆来会天沢、併力攻仙、敗走之。以功授行北京元帥府事、撫治真定」
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「壬辰、六師変伐、公復以謀勇従、及還、群盗盤詰獷驁不服、公審形勢布方略以捕、三数年間、尽抜其窟穴無遺種」
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「甲午、擢拜宣権之職、仍錫金符。丙午、入覲眷偶弥涯、以牝馬百匹・黄金五十両・白狐裘一、賜之」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「庚寅、宋聚兵邢之西山、声言為仙援、遣其徒趙和行間城中、誣倅副李甲・劉清嘗輸款為内応、守将械両人送府、大帥趣命戮之、天安揣知其詐、請自鞫之、果得其情、遂斬和以徇。壬辰、従伐金。師還、討劇盜梁満・蘇傑等、悉平之。甲午、宣權真定等路万戸、賜金符。丙午、入覲、賜黄金五十両・白狐裘一・牝馬百。乙卯卒」
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「甲寅、詔群后畢会、公祇命北上、行膺晋寵舒宿疾先帰。越明年、夏五月五日薨於正寝、春秋五十有七」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「庚寅、宋聚兵邢之西山、声言為仙援、遣其徒趙和行間城中、誣倅副李甲・劉清嘗輸款為内応、守将械両人送府、大帥趣命戮之、天安揣知其詐、請自鞫之、果得其情、遂斬和以徇。壬辰、従伐金。師還、討劇盗梁満・蘇傑等、悉平之。甲午、宣権真定等路万戸、賜金符。丙午、入覲、賜黄金五十両・白狐裘一・牝馬百。乙卯卒」
- ^ 『畿輔通志』巻171古蹟略陵墓7史天安神道碑,「元史天安墓、在県東八里馬村郷之東。府志、楽城李冶撰、神道碑記。公諱天安、字全甫、燕之永清人。天委穎抜好学通経方求售有司属口口板蕩弗克進」
- ^ 池内1980A, p. 495.
参考文献
編集- 中嶋敏, 中嶋敏先生古稀記念事業会記念論集編集委員会「池内功「史氏一族とモンゴルの金国経略」」『中嶋敏先生古稀記念論集』(上巻)中嶋敏先生古稀記念事業会, 汲古書院 (発売)、1980年。NDLJP:12208202 。
- 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-2-」『四国学院大学論集』第46号、善通寺 : 四国学院文化学会、1980年7月、42-61頁、doi:10.11501/12407255、ISSN 02880156、NDLJP:12407255。
- 『元史』巻147列伝34史天倪伝
- 『新元史』巻138列伝35史天安伝