初代 談洲楼 燕枝(だんしゅうろう えんし、1838年12月2日天保9年10月16日) - 1900年明治33年)2月11日)は江戸出身の落語家。本名∶長島 傳次郎。通称「二葉町の師匠」。妻の弟は春風亭錦枝

初代 談洲楼だんしゅうろう 燕枝えんし
初代 談洲楼(だんしゅうろう) 燕枝(えんし)
柳派定紋「花菱」
本名 長島 傳次郎
別名 あら垣痴文
自慢額成
生年月日 1838年12月2日
没年月日 (1900-02-11) 1900年2月11日(61歳没)
出身地 日本の旗 日本
師匠 初代春風亭柳枝
名跡 1. 春風亭傳枝
(1856年 - ?)
2. 初代柳亭傳枝
(? - 1861年)
3. 初代柳亭燕枝
(1861年 - 1885年)
4. 初代談洲楼燕枝
(1885年 - 1890年)
活動期間 1856年 - 1890年
家族 春風亭錦枝(義弟)
所属 柳派
睦会
演芸矯風会

来歴

編集

江戸小石川春日町の酒屋に生まれる。万屋勘兵衛(親類で水戸家出入りの料理屋)の養子となる。

1856年初代春風亭柳枝に入門、春風亭傳枝から初代柳亭傳枝を名乗る。一時、万屋に戻るが文久元年(1861年)、真打に昇進し初代柳亭燕枝と改名し小日向服部坂の席で披露。三遊派の初代三遊亭圓朝とは当時はライバル同士だった。明治元年(1868年)より「落語睦会」の頭取、議長、社長を勤めた。

1879年仮名垣魯文から「あら垣痴文」の名を貰う。のちに「自慢額成」も名乗った。1881年12月、落語史上初の「シカ芝居」を上演する。

1885年3月7日、初代談洲楼燕枝を名のり両国中村楼で披露を行う。1888年三遊亭圓朝等と共に「演芸矯風会」の評議員に就任。

1890年、柳派の頭取を三代目春風亭柳枝に譲り引退。動脈瘤破裂で死去。墓所は台東区源空寺[1]、戒名は「柳高院伝誉燕枝居士」。

芸歴

編集

人物

編集
  • 九代目市川團十郎とも親交があり、團十郎主催の「三升会」の会員でもあったため談洲楼としている。
  • 筆者でもあり仮名垣魯文の門で「あら垣痴文」や「自慢額成」も名乗り噺本も残し雑誌、新聞にも連載もしていた。
  • 噺以外の著書で『燕之巣立実痴必読』(通称『燕枝日記』)を残し幕末から明治から落語界の貴重な史料となっている。
  • 近代デジタルライブラリーでは「島鵆沖白浪」などの速記本を見ることが出来る。

演目

編集
柳枝譲り
自作
  • 「島鵆沖白浪」(嶋千鳥沖津白浪)
    一節を「大阪屋花鳥」として10代目金原亭馬生が演じている。
    2010年には柳家三三が「三三 談洲楼 三夜」と題し、通しで演じている。
  • 「天保奇談孝行車」
  • 「西海屋騒動」
    『小説 西海屋騒動』がある(谷津矢車柳亭左龍監修、二見書房、2021年)
  • 「御所車花五郎」
翻案物
  • 「侠客小金井桜」
  • 「岡山奇聞筆之命毛」
  • 「善悪草園生咲分」
外国種
  • 「あわれ浮世」(福地桜痴作、『レ・ミゼラブル』の脚色物)
  • 「仏国三人男」(森田思軒に教えを乞うたフランス種の噺)

他に三題噺を得意とした。

弟子

編集

脚注

編集

参考文献

編集

『落語怪談咄集』新日本古典文学大系 明治編6(「雁風呂」を収録)

関連項目

編集

外部リンク

編集