フィリップ・ルネ・ガブリエル・アリオーPhilippe René Gabriel Alliot, 1954年7月27日 - )は、フランス出身の元レーシングドライバー

フィリップ・アリオー
基本情報
フルネーム フィリップ・ルネ・ガブリエル・アリオー
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 同・ウール=エ=ロワール県
ヴォーヴ
生年月日 (1954-07-27) 1954年7月27日(69歳)
F1での経歴
活動時期 1984-1990,1993-1994
所属チーム '84-'85 RAM
'86,'90 リジェ
'87-'89 ローラ
'93,'94 ラルース
'94 マクラーレン
出走回数 116 (109スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 7
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1984年ブラジルGP
最終戦 1994年ベルギーGP
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プロフィール 編集

グラハム・ヒルクリス・エイモンに憧れてレースを始め、1978年にフランス フォーミュラ・ルノーのチャンピオンになり、F3F2を経て、1984年RAMから29歳でF1デビューを果たした。同年にはアイルトン・セナトールマン)、ステファン・ベロフマーティン・ブランドル(共にティレル)らもF1デビューを果たしている。

RAMからの参戦となった初年度は13戦決勝に進出するが、ハートターボ、シャシーの信頼性不足の影響で2回予選落ちを喫し、完走はわずかの3回(最高位10位)にとどまった。予選成績ではチームメイトのジョナサン・パーマーに対し5勝9敗、マイク・サックウェルに0勝1敗と負け越した。

1985年も同チームに残留したが、エンジン、シャシーの信頼性は相変わらずで、新たなチームメイトとなったマンフレッド・ヴィンケルホックと共に開幕戦のみ完走(最高位9位)に終わり、第14戦終了後にチームはスポンサーとの契約を解除され、残り2戦欠場する羽目になった。予選ではヴィンケルホックに3勝6敗、ケネス・アチソンに対し1勝1敗の成績だった。

1986年は国際F3000に参戦していたが、イギリスGPのスタート直後の事故で両足を複雑骨折し、引退を余儀なくされたジャック・ラフィットの後任としてリジェより第10戦から最終戦まで参戦し、第15戦ポルトガルGPで自身初となる6位入賞を果たした。

1987年には新規チーム・ラルースに移籍し、ドイツGPスペインGPメキシコGPで6位入賞し、3ポイントを挙げた。

1988年もラルースから参戦するが、ノーポイントに終わる。メキシコGP予選ではスピン後にホームストレートのコンクリートウォールに高速でぶつかり、マシンが上下反転する大きなクラッシュを起こした[1][2]1989年もラルースに残留し、この年から搭載されたランボルギーニV12エンジンの熟成が進み、予選で速さを見せるが、入賞はスペインGPでの6位1回のみに終わり、この年をもってラルースから離脱した。

 
リジェ時代のアリオー(1990年アメリカグランプリ

1990年はリジェに移籍、ニコラ・ラリーニとのコンビとなった。結局無得点に終わり、シーズン終了後にシートを喪失し、一度F1から姿を消した。

1991年から2年間、スポーツカー世界選手権(SWC)にてプジョーから参戦し、2年連続ランキング3位を記録し、1992年・1993年に同チームからパートナーであるマウロ・バルディジャン=ピエール・ジャブイーユと共にル・マン24時間レースに参戦し、2年連続総合3位に入賞を果たした。

1993年は3年ぶりにF1に復帰、古巣のラルースから参戦した。サンマリノGPでは5位入賞を果たし自己最高の記録を挙げたが、シーズン最後の2戦で鈴木利男にシートを譲った。

1994年はSWCでの貢献により強いパイプが出来ていたプジョーの推薦によりマクラーレンに加入。開幕前はレギュラードライバーの話もあったが、ロン・デニスがアリオーの起用に難色を示し、マーティン・ブランドルを起用したため、結局テストドライバーを務めることとなった。ハンガリーGPでは出場停止となったミカ・ハッキネンの代役として出走したが、予選・決勝ともブランドルよりかなり遅れ[3]、マクラーレンでの参戦はこの1戦のみであった。次戦ベルギーGPではマクラーレンの許可を得てラルースからオリビエ・ベレッタの代役で出走した。この年限りでF1のキャリアに終止符を打った。

その後はル・マン24時間レース、パリ・ダカールラリー、フランスGT選手権に参戦した。

エピソード 編集

  • 少年時代のヒーローはクリス・エイモンだった。このため1976年に自分がレースを始める時、ヘルメットのカラーデザインを自分のイニシャルであるAを元に、エイモンのヘルメット・デザインと似るように自分で考えて塗った。このデザインは変えたことが無い[4]
  • 毎回レース直前に、立ち小便をするという奇癖を持っていた。
  • 周回遅れの時にも優勝争いやポイント争いをしているドライバーに進路を譲らない事から、上位ドライバーからはよく怒りのポーズを掲げられることがあった[5]
  • F1引退後に判明したことであるが、20代で髪の毛が完全に白髪となってしまったため、現役時代は黒髪に染め続けていた。 
  • 今宮純著のF1大百科では、「速いのか遅いのか良く分らないドライバー」 「無口そうで実は意外とおしゃべり」などと評されていた。

レース戦績 編集

ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権 編集

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 順位 Pos.
1979年 コレス・レーシング ローラ・T770 ルノー VLL ÖST ZOL
DNQ
MAG
Ret
DON
Ret
ZAN PER MNZ
DNQ
KNU KIN JAR KAS NC 0
1980年 エキュリエ・オレカ マルティニ・MK31 トヨタ・2T-G NÜR
2
ÖST
3
ZOL
2
MAG
2
ZAN
19
LAC
DNQ
MUG
8
MNZ
4
MIS
4
JAR
3
KAS
11
ZOL
2
5位 39
AP サイエンテック KNU
6
SIL
Ret
1981年 エキュリエ・オレカ マルティニ・MK34 アルファロメオ VLL
5
NÜR
2
DON
5
ÖST
3
ZOL
4
MAG
1
LAC
1
ZAN
5
SIL
9
CET
Ret
MIS
10
KNU
Ret
JAR
3
IMO
Ret
MUG 3位 41
1982年 オレカ マルティニ・MK37 MUG
DNQ
NÜR
6
DON
DNS
ZOL
8
MAG
4
ÖST
4
ZAN
5
SIL
DNS
MNZ
DNQ
PER LAC
1
KNU
Ret
NOG
4
JAR
3
KAS 6位 25

国際F3000選手権 編集

チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1985年 BS・オートモービル マーチ・85B コスワース SIL THR EST NÜR VLL PAU SPA DIJ
6
PER ÖST ZAN DON 19位 1
1986年 オゼッラ マーチ・86B SIL
Ret
VLL
8
PAU
Ret
SPA
1
IMO
13
MUG
Ret
PER ÖST BIR BUG JAR 9位 9

F1 編集

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1984年 スコール・バンディット (RAM) 02 BRA
Ret
RSA
Ret
BEL
DNQ
SMR
Ret
FRA
Ret
MON
DNQ
CAN
10
DET
Ret
DAL
DNS
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
11
NED
10
ITA
Ret
EUR
Ret
POR
Ret
NC
(30位)
0
1985年 03 BRA
9
POR
Ret
SMR
Ret
MON
DNQ
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
BEL
Ret
EUR
Ret
RSA AUS NC
(28位)
0
1986年 リジェ JS27 BRA ESP SMR MON BEL CAN DET FRA GBR GER
Ret
HUN
9
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
MEX
6
AUS
8
18位 1
1987年 ローララルース LC87 BRA SMR
10
BEL
8
MON
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
6
HUN
Ret
AUT
12
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
6
MEX
6
JPN
Ret
AUS
Ret
17位 3
1988年 LC88 BRA
Ret
SMR
17
MON
Ret
MEX
Ret
CAN
10
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
14
GER
Ret
HUN
12
BEL
9
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
14
JPN
9
AUS
10
NC
(24位)
0
1989年 LC88C BRA
12
26位 1
LC89 SMR
Ret
MON
Ret
MEX
NC
USA
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
DNPQ
BEL
16
ITA
Ret
POR
9
ESP
6
JPN
Ret
AUS
Ret
1990年 リジェ JS33B USA
EX
BRA
12
SMR
9
MON
Ret
CAN
Ret
MEX
18
FRA
9
GBR
13
GER
DSQ
HUN
14
BEL
DNQ
ITA
13
POR
Ret
ESP
Ret
JPN
10
AUS
11
NC
(23位)
0
1993年 ラルース LH93 RSA
Ret
BRA
7
EUR
Ret
SMR
5
ESP
Ret
MON
12
CAN
Ret
FRA
9
GBR
11
GER
12
HUN
8
BEL
12
ITA
9
POR
10
JPN AUS 17位 2
1994年 マクラーレン MP4/9 BRA PAC SMR MON ESP CAN FRA GBR GER HUN
Ret
NC
(43位)
0
ラルース LH94 BEL
Ret
ITA POR EUR JPN AUS

スポーツカー世界選手権 編集

所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1991年 プジョー・タルボ・スポール プジョー・905 C1 SUZ
1
MON
8
SIL
6
LMN
Ret
NÜR
Ret
MAG
2
MEX
2
AUT
4
3位 69
1992年 C1 MON
Ret
SIL
Ret
LMN
3
DON
1
SUZ
3
MAG
1
3位 64

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1983年   ポルシェ・クレマー・レーシング   マリオ・アンドレッティ
  マイケル・アンドレッティ
ポルシェ・956 C 364 3位 3位
1986年   ジョン・フィッツパトリック・レーシング   パコ・ロメロ
  ミシェル・トロレ
ポルシェ・962C C1 312 10位 8位
1990年   ポルシェ・クレマー・レーシング   パトリック・ゴーニン
  バーナード・デ・ドライヴァー
ポルシェ・962CK6 C1 319 16位 16位
1991年   プジョー・タルボ・スポール   マウロ・バルディ
  ジャン=ピエール・ジャブイーユ
プジョー・905 C1 22 DNF DNF
1992年   マウロ・バルディ
  ジャン=ピエール・ジャブイーユ
プジョー・905 Evo 1B C1 345 3位 3位
1993年   マウロ・バルディ
  ジャン=ピエール・ジャブイーユ
C1 367 3位 3位
1995年   GTCレーシング   ピエール=アンリ・ラファネル
  リンゼイ・オーウェン-ジョーンズ
マクラーレン・F1 GTR GT1 77 DNF DNF
1996年   クラージュ・コンペティション   ディデェー・コッタズ
  ジェローム・ポリカン
クラージュ・C36-ポルシェ LMP1 215 DNF DNF
2003年   デビッド・ハリデイ
  カール・ローゼンブラッド
クラージュ・C65-JPX LMP675 41 DNF DNF

フランス・スーパーツーリング選手権 編集

チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
1995年 プジョー・エッソ プジョー・405 NOG
1

6
NOG
2

Ret
DIJ
1

5
DIJ
2

6
PAU
1

5
PAU
2

10
CHA
1

7
CHA
2

5
VDV
1

6
VDV
2

5
CET
1

3
CET
2

5
LEC
1

Ret
LEC
2

4
ALB
1

Ret
ALB
2

7
DML
1

6
DML
2

4
6位 53

注釈 編集

  1. ^ La cabriole de Philippe Alliot en 1988 demeure l’un des crash les plus effrayants de l’histoire. WARM-UP F1
  2. ^ Larrousse wreckage that reveals Alliot’s lucky escape Motorsport Magazine
  3. ^ Round-10 HUNGARIAN GP McLARENプジョー崩壊の危機 出場停止ハッキネンの代役アリオーは力不足が否めず F1グランプリ特集 47頁,131頁 1994年9月16日発行
  4. ^ HELMET DATA フリップ・アリオー(アライ製) F1グランプリ特集 Vol.48 76頁 ソニーマガジンズ 1993年6月16日発行
  5. ^ Formula One Rejects 『The "What Mirrors?" Award 2. Philippe Alliot』の項目

関連項目 編集