オーストラリア (重巡洋艦)
オーストラリア(HMAS Australia, D84)は、オーストラリア海軍の重巡洋艦。イギリス海軍の1924年度海軍整備計画の一環として発注されたケント級2隻のうちの1隻。
オーストラリア | |
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HMAS オーストラリア(1937年) | |
基本情報 | |
建造所 | イギリス、グラスゴー、ジョン・ブラウン造船所 |
運用者 | オーストラリア海軍 |
級名 | カウンティ級(ケント級)重巡洋艦 |
艦歴 | |
起工 | 1925年8月26日 |
進水 | 1927年3月17日 |
就役 | 1928年4月24日 |
退役 | 1954年8月31日 |
除籍 | 1954年8月31日 |
その後 | 1955年3月26日、スクラップとして売却。 |
要目 | |
基準排水量 | 9,850 トン |
満載排水量 | 13,450 トン |
全長 | 630 ft 4 in (192.13 m) |
最大幅 | 68 ft 3 in (20.8 m) |
吃水 | 21 ft 4 in (6.5 m) |
主缶 | ヤーロウ式高圧ボイラー×8基 |
主機 | パーソンズ式低圧ギアード・タービン×4基 |
出力 | 80,000 hp (60,000 kW) |
推進器 | 3枚羽根スクリュープロペラ×4軸 |
最大速力 | 31ノット (57 km/h) |
航続距離 |
2,270海里 (4,200 km)/31 kn 10,000海里 (19,000 km)/11 kn |
乗員 | 最大815 名 |
兵装 |
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装甲 |
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搭載機 |
スーパーマリン シーガル×1機 (1928 - 1936) スーパーマリン ウォーラス×1機 (1936 - 1944) |
その他 | 艦載機用カタパルト(1935 - 1944) |
ケント級は艦隊戦よりも個艦での遣外任務を主任務として設計されたために、条約に定められた排水量内で必要最小限の武装と低い防御能力と引き換えにして高い凌波性・航続距離・居住性を実現していた。
艦形
編集限度枠いっぱいの基準排水量9,700トン台の船体は乾舷の高い平甲板型船体とし、艦首側面形状は凌波性能を高めるために2段の強いフレア(反り返り)が付けられていた。艦首甲板上には20.3cm砲を連装砲塔に収めて背負い式配置で2基、2番主砲塔の基部から上部構造物は始まり、その上に箱を積み重ねたような形状の操舵艦橋の背後には後方に傾斜した単脚式の前部マストが立つ。船体中央部には等間隔に並んだ3本煙突が立つが、2番煙突のみ太かった。煙突の周囲は艦載艇置き場となっており、舷側に設けられた2本1組のボート・ダビッドが片舷に3組ずつ計6組で運用された。3番煙突の後方に露天の後部見張所と単脚式の後部マストが立ち、3番主砲塔の基部で上部構造物は終了し、甲板一段分下がって後部甲板上に4番主砲塔が配置された。船体舷側部には復元性と水雷防御として広範囲にバルジが装着されていた。
海軍休日から第2次世界大戦時
編集就役後の1935年よりカタパルトが設置され、シーガル水上機が搭載された。
1935年から1939年にかけて防御強化のために改装が行われ、水線部に114mm装甲(高さ1.8m)が貼られた。カタパルトは新型に換えられ、水上機のウォーラス水上機となった。他に対空火器としてヴィッカース 40mm(39口径)ポンポン砲を単装砲架で4基搭載し4.7cm速射砲全てが撤去された。
1940年12月に艦橋に286型レーダーが設置された。この際に10.2cm高角砲を単装4基から連装4基に換装され、533mm四連装魚雷発射管すべてが撤去された。1942年10月に40mm単装ポンポン砲を撤去して八連装砲架とし、煙突の脇に片舷1機ずつ計2基が搭載された。レーダーを286型から273型と281型レーダーに更新する際に1943年に40mm単装ポンポン砲4基と12.7mm四連装機銃2基を撤去し、近接火器としてエリコン 20mm(76口径)機関砲を単装砲架で7基に更新した。1944年に航空施設を撤去し、エリコン20mm単装機銃7基と20mm連装機銃7基を追加して対空火器を強化した。また戦況の激化に伴い、レーダーを284型と285型に更新した際に20.3cm主砲塔1基を撤去して40mm八連装ポンポン砲2基に加えてボフォース 40mm(56口径)機関砲を四連装砲架で2基、連装砲架で2基、単装砲架で2基を追加した。
艦歴
編集1925年8月26日にスコットランド、グラスゴーのジョン・ブラウン社で起工。1927年3月17日進水。1928年4月24日就役。1938年から1939年にかけて近代化改装を実施され、対空火器と防御力の強化が行われた。
「オーストラリア」は第二次世界大戦に参加。1940年9月、ダカール攻撃に参加してフランス駆逐艦「ローダシュー」を撃破したが、「オーストラリア」も沿岸砲台からの砲撃で中破した。修理後、1941年の間は船団護衛や大西洋、インド洋の哨戒をおこなっていた。
日本軍によるポートモレスビー侵攻が迫るとアメリカ軍は珊瑚海に空母「ヨークタウン」を中心とする第17任務部隊(フレッチャー少将)や空母「レキシントン」(フィッチ少将)を中心とする第11任務部隊を派遣し、第44任務部隊(クレース少将)の「オーストラリア」と軽巡洋艦「ホバート」も5月1日にシドニーから出撃した[1]。5月5日、「オーストラリア」と「ホバート」は「ヨークタウン」や「レキシントン」と合流[2]。これらの部隊は5月6日には第17任務部隊に統合された[2]。5月7日、第17任務部隊と日本軍との間で珊瑚海海戦が始まった。午前6時25分(現地時間)、フレッチャー少将は「オーストラリア」と重巡洋艦「シカゴ」、軽巡洋艦「ホバート」と駆逐艦「パーキンス」、「ウォーケ」、「ファラガット」(第17.3任務群[3]、クレース少将)を分離し、ジョマード水道へと向かわせた[4]。これは空母部隊が敗れた場合でもこの部隊が日本軍のポートモレスビー攻略部隊を阻止すること期待してのものであった[5]。この日ラバウルから日本軍第四航空隊の一式陸上攻撃機12機(雷装)と元山航空隊の九六式陸上攻撃機20機(爆装、1機は途中で引き返す)が発進しており[6]、第17.3任務群はそれらによる攻撃を受けた。だが、この攻撃による大きな損害は無かった[7]。次いで第17.3任務群はオーストラリアから発進したアメリカのB-17爆撃機による爆撃を受けた[8]。5月8日に「ホバート」と「ウォーケ」をブリスベンへ向かわせた後も、しばらくクレース少将は日本軍を迎撃できる場所にとどまっていたが、5月11日にウイットサンデー島Cid Harbourに帰投した[9]。
1942年8月から1944年の中頃まで「オーストラリア」はガダルカナル島やニューギニア島、ニューブリテン島上陸作戦を支援した。1942年8月8日、クラッチレー提督座乗の「オーストラリア」は作戦協議のためルンガ泊地を離れ、紙一重の差でこの日の夜に起きた日本軍の攻撃を逃れたが(第一次ソロモン海戦)この戦いで僚艦「キャンベラ」を喪った。
1944年10月21日、第77任務部隊第3群(指揮官:ラッセル・S・バーキー少将)に所属する第5巡洋隊の旗艦としてレイテ島攻略戦に参加していた「オーストラリア」はフィリピン近海で日本軍機の神風特攻の体当たりにより損傷。艦長エミール・デシェヌーを含む30人が戦死し、ジョン・A・コリンズ指揮官も重傷を負った。同日中に他に損傷を受けたホノルルやリチャード・P・リアリーらと共に、修理のためニューヘブリディーズ諸島へ後退した[10]。1945年1月に復帰し、戦争終結までに6度体当たりを受けて86名の戦死者を出した。
第二次世界戦後は練習艦となり、1954年8月31日に除籍。1955年3月26日に売却されて解体処分された。
脚注
編集- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, Volume II, p.41
- ^ a b Royal Australian Navy, 1942–1945, Volume II, p.45
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, Volume II, p.47
- ^ 暁の珊瑚海、107-108ページ
- ^ 暁の珊瑚海、107ページ
- ^ 暁の珊瑚海、190、193ページ
- ^ 暁の珊瑚海、203ページ
- ^ 暁の珊瑚海、219-220ページ
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, Volume II, p.52-53
- ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, p. 513
参考文献
編集- Gill, George Hermon, Royal Australian Navy, 1942–1945. Australia in the War of 1939–1945, Series 2, Volume II[リンク切れ], Australian War Memorial, 1968
- 森史郎、『暁の珊瑚海』、光人社、2005年、ISBN 4-7698-1228-0
参考図書
編集関連項目
編集外部リンク
編集- HMAS Australia (II) | Royal Australian Navy
- HMAS Australia history and images - ウェイバックマシン(2002年12月28日アーカイブ分), U. S. Naval Historical Center