USS Chicago
艦歴
発注:
起工:
進水: 1930年4月10日
就役: 1931年3月9日
退役:
その後: 1943年1月30日に戦没
除籍:
性能諸元
排水量: 9,300 トン
全長: 600 ft 3 in (182.9 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.1 m)
吃水: 16 ft 8 in
機関:
最大速: 32 ノット
航続距離:
乗員: 士官、兵員621名
兵装: 8インチ砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門
21インチ魚雷発射管6門
航空機:
モットー:

シカゴ (USS Chicago, CL/CA-29) はアメリカ海軍重巡洋艦ノーザンプトン級重巡洋艦の4番艦。艦名はイリノイ州シカゴに因み、その名を持つ艦としては二隻目[注釈 1]。このシカゴのみが第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の巡洋艦の中で水上艦、潜水艦からの攻撃ではなく航空機による攻撃で失われた。

概要編集

一等巡洋艦シカゴは1931年(昭和6年)3月に就役したアメリカ海軍の重巡洋艦[注釈 2]太平洋戦争緒戦では空母レキシントン等と行動を共にした。 1942年(昭和17年)5月7日の珊瑚海海戦では第17任務部隊のクレース隊として行動し[注釈 3]一式陸上攻撃機の空襲をうけた[4][5]。 海戦後の5月31日、シカゴはシドニー港で特殊潜航艇甲標的奇襲を受けたが[6][7]、被害はなかった[8]

同年8月9日、ウォッチタワー作戦によりガダルカナル島アメリカ海兵隊の輸送船団を護衛中に、三川艦隊の奇襲をうける[9][注釈 4]。シカゴに酸素魚雷2本が命中し[注釈 5]、艦首に損傷を受けた[12]。また、駆逐艦パターソン同士討ちをおこなった[13]第一次ソロモン海戦[14]1943年(昭和18年)1月に戦線に復帰したが、戦局はガダルカナル島攻防戦の最終局面にはいっていた[15]1月29日夜から30日昼にかけての海空戦[16]、シカゴはラバウル航空隊陸上攻撃機の雷撃により沈没した[17]。 (レンネル島沖海戦[注釈 6][注釈 7]

艦歴編集

シカゴは1928年(昭和3年)9月にメア・アイランド海軍造船所で起工した[1]。1930年(昭和5年)4月10日にE・ブリトゥンによって進水、1931年(昭和6年)3月9日にM・H・シモンズ艦長の指揮下就役する。

大戦前編集

 
修理のためメア・アイランド海軍造船所に到着したシカゴと、損傷部位の写真。

ホノルルタヒチおよびサモアへの整調巡航後、シカゴは1931年7月27日にメア・アイランドを出航し東海岸に向かい、ニューヨーク州フォート・ポンドベイに8月16日到着した。同所でシカゴは偵察艦隊 (Scouting Fleet) の旗艦となり、部隊と共に1940年まで活動する。

1932年2月、シカゴは偵察艦隊と共にカリフォルニア沖で例年の艦隊演習英語版に参加する。艦隊は西海岸を拠点とし1934年までアラスカパナマ運河地帯ハワイ諸島といった太平洋海域で作戦活動に従事した。 1933年10月24日、シカゴはカリフォルニア州ポイントスール沖合でイギリスの貨物船Silver Palmと衝突事故を起こす。 1934年に例年の艦隊演習がカリブ海で実施され、その後シカゴは5月に行われたニューヨーク湾での大統領による閲艦式に参加する。艦隊は10月まで東海岸とカリブ海で活動し、その後カリフォルニア州サンペドロを拠点とする。シカゴはサンペドロから活動を続け、1940年(昭和15年)9月29日に真珠湾に向かう。

続く14ヶ月にわたってシカゴは真珠湾から作戦活動に従事し、様々な任務部隊ともに戦術、巡航訓練を行い、オーストラリアや西海岸を訪れた。

太平洋戦争緒戦編集

1941年(昭和16年)12月7日(日本時間12月8日)の真珠湾攻撃時、シカゴは第12任務部隊と共に海上にあった[20]。シカゴはニュートン英語版少将の旗艦であったという[21]。第12任務部隊(空母レキシントン、重巡シカゴ、ポートランド、アストリア[22]、駆逐艦5隻)は[21]ミッドウェー島に配備予定の航空機を輸送する任務に就いていた[23]。重巡インディアナポリスウィルソン・ブラウン中将旗艦)を加えた第12任務部隊は、すぐにオアフ島ジョンストン島パルミラ環礁を結ぶ三角形内で敵の捜索を開始する[24]。南雲機動部隊と遭遇する機会はなく、真珠湾に戻った[25]。その後は12月14日から27日まで、空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) を基幹とする第11任務部隊と共に、ウェーク島の戦いの妨害をするための行動や哨戒・索敵任務に従事した。

1942年(昭和17年)2月2日、シカゴは真珠湾を出航し、スバ湾に向かった。そこで新たに編成されたANZAC部隊英語版に加わり、シカゴはアメリカ・オーストラリア連合の第44任務部隊英語版の一艦として行動した。3月と4月はシカゴは第44任務部隊とともにルイジアード諸島沖で活動し、3月10日のニューギニア島ラエサラモア攻撃を援護した(ラエ・サラモアへの空襲)。また、シカゴはニューカレドニアへの兵員輸送も支援した。

5月1日、シカゴはヌメアを出港して南西太平洋部隊に合流した[26]。この時点での本艦と駆逐艦パーキンス (USS Perkins, DD–377) は油槽船ティッペカヌー (USS Tippecanoe, AO-21) を護衛しており、第17任務部隊のフレッチャー少将(旗艦ヨークタウン)は海軍兵学校同期のフィッチ少将(第11任務部隊、旗艦レキシントン)に「ガソリンは必要か、水平線のむこうにガソリンスタンド(シカゴ、パーキンス、ティッペカヌー)があるぞ」と送信している[27]。 5月4日、シカゴはソロモン諸島ツラギ島攻撃をおこなう空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を援護したあと、日本軍のポートモレスビー進撃を阻むべく[28]第五航空戦隊瑞鶴翔鶴)を基幹とするMO機動部隊との対決に備えた[29]

1942年(昭和17年)5月6日の時点で、フランク・J・フレッチャー少将は自身の旗艦ヨークタウンと護衛艦艇、フィッチ少将の旗艦レキシントンと護衛艦艇、クレース英語版少将が率いるクレース隊英語版を合わせて第17任務部隊英語版を編成していた[30][31]。 翌7日[29]、連合軍は日本軍のMO攻略部隊(輸送船団)を発見する[注釈 8]。 フレッチャー提督はクレース隊(重巡オーストラリア、重巡シカゴ、軽巡洋艦ホバート、駆逐艦パーキンス英語版、駆逐艦ウォーク英語版、駆逐艦ファラガット)を日本軍輸送船団撃滅のため先行させたので[33]、ヨークタウンとレキシントンの護衛艦艇はさらに減ってしまった[34][注釈 9]

こうしてクレース隊は空母機動部隊と分離し、日本軍輸送船団にむけて進撃を開始した[35][5]。もしクレース隊が順当に進撃していたら、日本軍輸送船団を護衛する主隊(青葉、加古、衣笠、古鷹、祥鳳、漣)と衝突したはずである[36]。だが午前6時40分にクレース隊は日本軍水上偵察機に触接された[35][37]。 日本時間午前7時25分、ニューブリテン島ラバウルを発進した偵察の陸攻は「戦艦2、重巡2、駆逐艦2」計6隻の連合軍艦隊を発見した[38]ラバウル航空隊零式艦上戦闘機12機と陸上攻撃機31機がクレース隊の攻撃にむかった[注釈 10]ルイジアード諸島ロッセル島英語版西方で、正午ごろよりクレース部隊に対する攻撃を開始する[42]。クレース部隊も対空砲火で応戦し、陸攻部隊は大損害をうけた[注釈 11]。 日本海軍は、陸攻の雷撃と水平爆撃により、カルフォルニア型戦艦1隻と重巡洋艦1隻を撃沈[44]ウォースパイト型戦艦に魚雷2本を命中させ大破させたと報告した[41]大本営は、カルフォルニア型戦艦撃沈とウォースパイト型戦艦撃破を大々的に宣伝した[45][注釈 12]。 さらにポートランド級重巡洋艦1隻を撃沈したことになった[47][注釈 13]

もちろんクレース隊に米戦艦カリフォルニア (USS California, BB-44) や英戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) は含まれていない[49]。日本側の過大戦果報告と裏腹に[50]、クレース隊に目立った被害はなかった[51][52]。連合軍側の記録では、一式陸攻は魚雷8本を投下している[53]。シカゴは魚雷4本を回避したという[54]。陸攻の爆撃を回避したあとのクレース部隊は[53]、豪州基地から飛来したB-17型重爆 3機から誤爆され[55]、ファラガットが至近弾をうけて小破している[56]。第17任務部隊の空襲で軽空母祥鳳をうしなった日本軍攻略部隊が反転したので[57]、クレース部隊は日本艦隊と直接砲火を交えずにすみ、オーストラリアにむかった[55]。その後、シカゴはシドニーに向かった。

シドニー湾奇襲編集

5月14日午前3時、シドニー方面の監視をおこなっていた伊29は、ウォースパイト型戦艦と駆逐艦を発見して追跡したが振り切られ、目標がシドニーに入港したのを確認した[58]。潜水艦3隻(伊22、伊24、伊27)はトラック泊地で水上機(甲標的)母艦千代田より特殊潜航艇甲標的を受け取り、甲標的を搭載して5月18日に出撃した[8][59]。飛行偵察でも、シドニー湾に戦艦1隻と大型駆逐艦の存在を認める[60]23日、伊29は黎明飛行偵察を実施し、修理中とおぼしき戦艦や大型巡洋艦数隻を認めた[58]5月29日黎明[60]伊21より発進した零式小型水上偵察機は、シドニー湾の事前偵察を実施した[61][62]。英戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) を探したが見当たらず[63]ガーデン島付近で大型艦2隻を発見し、米戦艦および米重巡洋艦と報告した[64][65]。この日、シドニー湾にはシカゴのほか、豪州海軍重巡キャンベラ (HMAS Canberra, D33) 、軽巡アデレード (HMAS Adelaide) などが停泊していた(シドニー湾在泊艦艇一覧)。日本軍は甲標的による奇襲攻撃を決断した[66][60]

5月31日深夜から6月1日未明にかけて、シドニー停泊中のシカゴは、攻撃してきた甲標的を対空砲により迎撃した[67]。シカゴ艦長ハワード・D・ボード (Howard D. Bode) 大佐は陸上におり、シドニー要港司令官グールド少将と夕食をとっていた[68]。 21時57分、シカゴは艦尾後方300メートルに潜水艦の司令塔を発見して応戦を開始、照射砲撃をおこなった[67]。日本軍特殊潜航艇は3隻侵入してきたが[69]、1隻(伊27搭載艇[58]。第14号艇:中馬兼四大尉、大森猛一曹)[70]は防潜網に絡まって自爆した[71][72]。 他の甲標的2隻は漁船を追尾して湾内に侵入した[67]。このうち、伊24搭載艇(伴勝久中尉、芦辺守一曹)はシカゴに向けて魚雷2本を発射した[73][74]。しかし魚雷は2本ともシカゴに命中せず、まず1本はガーデン島東岸に打ちあがった[71]。もう1本はガーデン島の岸壁に命中し、爆発でガーデン島に係留してあった宿泊艦クッタブル (HMAS Kuttabul) が沈没し、その近くで係留されていた蘭潜K IXオランダ語版も損傷した。

シカゴはこれ以上の攻撃から逃れるべく、駆逐艦パーキンス (USS Perkins,DD-377) 等とともに急遽外洋に向けて出港することになったが、その途中で伊22搭載艇(第21号艇:松尾敬宇大尉、都竹正雄二曹)[70]とすれ違う[67]。松尾艇の魚雷が艇首部損傷により発射できず、さらに松尾艇の体当たり攻撃も小接触に終わって頭部の魚雷は爆発せず、シカゴは難を逃れた[注釈 14]。特殊潜航艇3隻はすべて未帰還となり[76]、オーストラリア側に収容された戦死者4名の遺骨は[77][注釈 15]、貨客船鎌倉丸で日本に戻った[78][79]

シカゴを雷撃した伴艇(伊24発進の甲標的)は2006年になって海底で発見された[69]。2007年にフリゲート艦ニューカッスル (HMAS Newcastle, FFG 06) やメルボルン (HMAS Melbourne, FFG 05) において、オーストラリア軍や海上自衛隊およびシドニー奇襲作戦の関係者を招いて記念式典がおこなわれた(伊24発進の甲標的発見と戦争遺産登録の経緯)。

ガダルカナル島の戦い編集

6月から7月にかけてもシカゴは南太平洋で作戦に従事した。連合軍はウォッチタワー作戦を発動し、ソロモン諸島に進軍する[80]8月7日以降、シカゴはガダルカナル島上陸を支援した[81]。上陸作戦中、連合軍の巡洋艦部隊と輸送船団はニューブリテン島ラバウルから飛来した一式陸上攻撃機九九式艦上爆撃機に襲われる[82][83][84]。空母機動部隊(サラトガ、エンタープライズ、ワスプ)から派遣されたF4F ワイルドキャット戦闘機や自分達の対空砲火で邀撃し、被害を最小限に食い止めた[85][86]。シカゴは撃墜された空母サラトガ艦上機の搭乗員1名を救助した[87][88]

8月8日昼、連合軍上陸部隊は再びラバウル航空隊の空襲をうけたが[89]、前日同様に撃退した[90][91]。同8日夜、南方部隊は豪州海軍の重巡洋艦キャンベラ (HMAS Canberra, D33) 、米海軍の重巡シカゴ、駆逐艦パターソン (USS Patterson, DD-392) 、バッグレイ (USS Bagley, DD-386) 、ブルー (USS Blue,DD-387) として[92]、ガダルカナル島とサボ島の間で哨戒を行っていた[93][94][注釈 16]。 本来は豪州海軍の重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) もいたが、同艦に座乗してガダルカナル島沖の巡洋艦部隊の指揮を執っていたクラッチレー英語版少将がターナー提督に呼ばれて、旗艦もろとも不在だった[96]。これはフレッチャー提督の空母機動部隊が予定に反して戦線を離脱したため[97]、輸送船団の撤退を検討する羽目になったからである[98]。クラッチレー提督(重巡オーストラリア)は哨戒網から外れるにあたって、シカゴのボード艦長に「哨戒航行の指揮をとれ」と命じた[99]。だが命令が曖昧だったので[100]、混乱を引き起こした[101]。先任の重巡ヴィンセンス (USS Vincennes, CA-44) 艦長リーフコール英語版大佐はクラッチレー提督と旗艦が指揮権を委任して戦列を離れた事をしらず[102]、指揮系統が分断された[103][104]


やがて、第八艦隊司令長官三川軍一中将が率いる外南洋部隊[105](通称“三川艦隊”、“三川部隊”とも)がこの海域に入ってきた[9][注釈 17]。外南洋部隊はシカゴを戦艦と誤認しており[108]、鳥海では誰もがこの艦を撃沈したがってたという[63]。外南洋部隊は哨戒艦と駆逐艦ジャービス (USS Jarvis, DD-393) をやりすごし、南方部隊に襲いかかった[109][110]。駆逐艦パターソンが警報を発したが手遅れであり、日本軍水上偵察機は照明弾を投下して南方部隊は闇夜に浮かび上がった[111]

8月9日午前1時43分(日本時間8月8日23時47分)、シカゴの前方を航行していたキャンベラが砲雷撃を受け一気に破壊された[12]。シカゴの左舷前方にいた駆逐艦パターソンも[112]、天龍や夕張等に砲撃されて被弾した[113]。シカゴの右舷前方にいた駆逐艦バッグレイは魚雷発射の好機を失い、戦闘に関与できなかった[114][115][注釈 18]

シカゴでは、昼間の対空戦闘に備えて艦長と副長が自室で休憩していた[117]。ボード艦長は起きたばっかりだったが[118]、見張り員が魚雷複数の航跡を発見し、すかさず回避運動に入る[119]。この魚雷群は、鳥海・古鷹・加古が発射したものだった[120]。午前1時47分、シカゴの左舷艦首部に1本が命中して大破、さらに砲撃をうけて前檣楼が傾いた[注釈 19]。右舷中央部に命中した魚雷は不発だった[121]。また上部構造物に複数の命中弾を受けた[122]。シカゴは副砲で反撃し、照明弾や探照灯で日本艦隊を探したが、既に立ち去ったあとだった[122]。シカゴは軽巡天龍に至近弾を与えたかもしれない[123][注釈 20]。なおシカゴの失策は、敵襲を北方部隊に通報しなかったことだった[122][126]。シカゴは西方に退避した[127]。 午前2時前、シカゴは駆逐艦夕凪と駆逐艦ジャービス (USS Jarvis, DD-393) の撃ち合いを目撃したが[128]、戦果も被害もなかった[129]。午前2時26分、クラッチレー提督から問い合わせがあったので、シカゴは「戦闘中だったが、現在はそうではない」と返答し、20分後には「われわれは針路100度でレンゴ(シーラーク水道)に向かっている」と連絡した[130]

午前5時ころ、駆逐艦パターソンやブルーは沈没寸前の重巡キャンベラにつきそっていた[131]。すると敵味方不明艦が近づいてきたので、パターソンは味方識別信号をおくったり探照灯を照射する[132]。そこで「敵艦」が砲撃してきたので、パターソンも砲撃を開始した[133]。双方が撃ち合うなかでパターソンが緊急味方識別信号を発し、シカゴもこれを認めて砲撃を中止した[13]。キャンベラの沈没を見届けたあと、シカゴは応急修理を実施し、健在の巡洋艦や輸送船団と共にガダルカナル島を離れる[134]。本海戦におけるシカゴの戦死者は2名、負傷者は21名[135][136][注釈 21]。シカゴに収容されていたサラトガ搭乗員も負傷した[88]。損傷したシカゴはヌメア、シドニーを経てサンフランシスコで修理を受けた。サンフランシスコには10月13日に到着した。

第一次ソロモン海戦当時のシカゴ艦長だったボード大佐は、今回が失点を回復するチャンスだった[137]。戦艦オクラホマ (USS Oklahoma, BB-37) 艦長だったボード大佐は、上陸中に真珠湾攻撃に遭遇し[68]、留守の間にオクラホマは沈んでしまったので面目を失った[137]。第一次ソロモン海戦におけるボード大佐は指揮官陣頭の原則をまもらず[138]、いくつかの失策を犯し[139]、シカゴは大破して本国に帰投した。ただしボード大佐が指揮官陣頭の原則よりシカゴを南方部隊の先頭に配置していたら、間違いなく撃沈されるか、あるいはキャンベラと共に沈んでいたと思われる[126]

1943年(昭和18年)1月、ボード大佐はシカゴ艦長からパナマ運河地帯の基地司令官に転出した[140]。第一次ソロモン海戦の件で聴取された後[141][142]4月19日にバルボア海軍基地宿舎のバスルームにて拳銃頭を撃ち、翌20日、バルボア海軍病院で死亡した[143][144]

レンネル島沖海戦編集

 
ウイチタから見た、レンネル島沖海戦直前のシカゴ。右後方はルイビル
 
被雷により艦体が水中に沈下したシカゴ。1943年1月30日

1943年(昭和18年)1月初め、修理が終わったシカゴはサンフランシスコを出航した。南太平洋方面海軍司令官ハルゼー中将の手元には、正規空母2隻(サラトガ、エンタープライズ)、新鋭戦艦3隻、護衛空母2隻、巡洋艦12隻、駆逐艦25隻という兵力があった[145]

1月27日、シカゴはロバート・C・ギッフェン少将率いる第18任務部隊に加わり、ガダルカナル行き船団の間接護衛に従事するためヌメアを出撃した[146]。ギッフェン少将は、護衛空母2隻(スワニーシェナンゴ)、重巡3隻(ウィチタ、シカゴ、ルイスビル)、大型軽巡3隻(モンピリアクリーブランドコロンビア)、駆逐艦8隻を率いることになった[147]。 予定では、サボ島沖に待機して日本側の反撃に備え、遅れて出撃するエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹の第16任務部隊が上空を援護することとなっていた[148]第二艦隊司令長官近藤信竹中将が率いる牽制部隊(旗艦「愛宕」)がガダルカナル島北方に進出してきたので[149]、ハルゼー提督の注意をひいていたのである[150][注釈 22]。 また日本軍の基地航空隊もガダルカナル島撤収作戦を支援するため、綿密な索敵をおこなっていた[17]

ガダルカナル島に向け進撃していた第18任務部隊では、護衛空母2隻の速力不足が顕著となっていた[151]。ギッフェン少将は護衛空母2隻と駆逐艦2隻を分離した[149]1月29日朝、日本軍偵察機はレンネル島南方方面に「戦艦4、重巡3、軽巡および輸送艦10数隻、北北西に向け18ノット」という大艦隊を発見した[152]。さらに複数の偵察機が派遣され、触接につとめる[152]。距離が遠かったので零式艦上戦闘機の掩護がつけられず、陸上攻撃機による薄暮攻撃を敢行した[153]。 同29日夕刻、会合点に向かう第18任務部隊は、ラバウルから飛来したの一式陸上攻撃機九六式陸上攻撃機に襲われた[注釈 23]。陸攻部隊は日本時間17時20分ごろから照明弾を投下しつつ夜間攻撃を開始する[156]。第18任務部隊は第一波攻撃(705空、一式陸攻)を撃退したが、第二波攻撃(701空、九六陸攻)で被害をうけた[16]。被弾炎上した陸攻がシカゴに体当たりを敢行し、火災が発生して良い目標となった[157]。17時45分にシカゴの右舷缶室に1本、続いて前部機械室付近に1本と、計2本の魚雷が命中する[158]。シカゴは航行不能になった[19][注釈 24]。ギッフェン少将は第18任務部隊に避退を命じ、ルイヴィルがシカゴを曳航することとなった[161]。日本側は陸攻1機が自爆、陸攻2機が未帰還となった[162]。檜貝少佐も戦死した[163][注釈 25]

30日朝、曳航の任務はルイビルから曳船ナバホ (USS Navajo, AT-64) に交代した[157]。午後、ブカ島より発進した第七五一海軍航空隊一式陸上攻撃機11機が、第18任務部隊を追撃した[164]。陸攻隊は護衛空母部隊や、エンタープライズから派遣されたF4F戦闘機10機の妨害を受け[165]、陸攻3機が撃墜された[166]。のこる陸攻8機が雷撃を敢行した[166]。4本の魚雷がシカゴに命中する[167]。2日のうちに総計6本もの魚雷が命中したシカゴは救う見込みがなくなり、総員退艦が令された[168]。ナバホからの曳航用ロープも切られ、シカゴは南緯11度25分 東経160度56分 / 南緯11.417度 東経160.933度 / -11.417; 160.933の地点で艦尾を先にして沈没した。シカゴ沈没のほかにも駆逐艦ラ・ヴァレット (USS La Vallette, DD-448) に魚雷1本が命中し[167]、損傷した[163]。これに対し日本海軍の陸攻隊も激しい対空砲火と戦闘機の迎撃を受け、陸攻7機を失い、帰投した4機もかなり被弾していた[167]。 日本側は戦果を過大評価し[169]、華々しい大本営発表をおこなった[18][注釈 26]。 なお第二艦隊の陽動にひっかかったアメリカ軍は日本軍の本当の目的に気付かず[171]水雷戦隊によるケ号作戦は成功した[15][172]

シカゴの喪失に、米海軍司令部は衝撃を受けた[167]。護衛艦隊が敵機には致命的な存在であるはずの新兵器で極秘扱いの近接信管(VTヒューズ)弾を搭載した対空砲を装備しており、なおかつ10機の戦闘機の直衛までつけていたのに沈没したためである。ニミッツの強い要請で、シカゴの喪失は海軍部外へはしばらく秘匿されることになった[注釈 27]。これは以前の空母沈没の発表で日本軍に防御上の不利益を大統領が独断で公表した過去の経緯からきたものである。実際、対空砲火による陸上攻撃機隊の被害も相当なものだったので、防空態勢に不備があったとは言い難いが、対空システムへの不信感が部内に広がることを危惧したためである。

出典編集

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  1. ^ 初代は、防護巡洋艦シカゴ (USS Chicago) で、1928年(昭和3年)7月16日に オールトン (USS Alton, IX-5) と改名された。
  2. ^ 一等巡洋艦“シカゴ Chicago[1] 全要目{排水量9,300噸 速力32.7節 備砲20糎砲9門 13糎高角砲4門 魚雷發射管(53糎水上)6門 起工1928年9月 竣工1931年3月 建造所 メアーアイランド海軍工廠} 全長182.87米、幅19.81米、平均喫水5.35米。
    ルイスヴイル Louisville” 排水量9,050噸の外すべて“シカゴ”と要目同一で艦型も同じ。1928年7月起工、1931年3月竣工。建造所はビューゼットサウンド海軍工廠である。これ等米國の一等巡洋艦が搭載してゐる20糎砲はその仰角度45度に及び而かも非常に發射速度が優つてゐると云ふ。魚雷發射管はすべて水上發射管になつてゐるが艦の同一位置(後部煙突の下砲後寄)に1基宛兩舷に装備してゐる。
  3. ^ クレース英語版少将が率いる分遣隊[2]。重巡オーストラリア(旗艦)、重巡シカゴ、軽巡洋艦ホバート、駆逐艦3隻(パーキンス、ウォーク、ファラガット)[3]
  4. ^ 第八艦隊司令長官三川軍一中将を指揮官とする外南洋部隊:重巡鳥海青葉、重巡衣笠、重巡古鷹、重巡加古、軽巡天龍、軽巡夕張、駆逐艦夕凪[10]
  5. ^ シカゴに命中した魚雷2本のうち、1本は不発だった[11]
  6. ^ レンネル島沖海戰 海の荒鷲二日間に亘り強襲 敵有力艦隊の反攻を撃破[18] 帝國海軍航空部隊は十八年一月廿九日ソロモン群島レンネル島東方に有力なる敵艦隊を發見、直ちに進發し惡天候を衝きてこれを同島北方海面に捕捉し全力を擧げ薄暮奇襲を敢行、敵兵力に大打撃を與へた。/敵はわが猛攻を受くるや倉皇として反轉、南東方に遁走せんとせしが卅日更にわが海軍航空部隊は晝間強襲を決行し、これに大損害を與へ敵の反撃企圖を撃碎した。本海戰に於て敵戰艦二隻撃沈、巡洋艦三隻撃沈、戰艦一隻中破、巡洋艦一隻中破 戰闘機三機撃墜の大戰果を擧げた。わが方の損害は自爆七機、未歸還三機である。寫眞は堂々晝間強襲決行のわが海の荒鷲、林海軍報道班員撮影、海軍省許可濟第三二號。
  7. ^ 重巡シカゴ撃沈 仕方なく米發表[19] アメリカ海軍省は民衆の激昂に仕方なく三月十六日去る一月二十九日より二月四日までにわたる南太平洋地區におけるアメリカ海軍作戰の概要なるものを發表、そのうちレンネル島沖海戰に言及してゐるが、あくまで眞相隠蔽につとめるとともに同海戰における巡洋艦シカゴ號の撃沈をいや〱ながら認めた、同海戰に關する發表は次の通りである。
    『一月二十九日夜ガダルカナル島南東約七十哩レンネル島附近において作戰中の輸送船の機動を掩護しつゝありし巡洋艦ならびに驅逐艦よりなるアメリカ海軍部隊は日本雷撃機により攻撃を受けた、米艦シカゴ號は魚雷の命中により大破した、シカゴ號は他の巡洋艦により曳航されたが、翌三十日午後シカゴ號は再度の日本雷撃機により攻撃され遂に沈没する至つた』
     尚米海軍省は『重巡シカゴは撃沈されても、艦長ラルフ・デプイス大佐は健在である』と民衆に對し一抹の慰めごとに力瘤を入れて發表した。撃沈された重巡シカゴは九千三百トン、長さ五百七十二呎、艦載機四臺、カタパルト二、八インチ砲九、五インチ砲四その他を装備し一九三一年三月竣工した新鋭艦であるだけに米海軍省としては辛らいだらう。
  8. ^ MO攻略部隊の編成[32]。MO攻略部隊主隊(第六戦隊司令官五藤存知少将:重巡青葉加古衣笠古鷹、軽空母祥鳳、駆逐艦)、掩護部隊(軽巡天龍龍田、特設水上機母艦神川丸、特設砲艦3隻、特設掃海艇2隻)、MO攻略部隊(第六水雷戦隊司令官梶岡定道少将:軽巡夕張、駆逐艦追風朝凪睦月弥生望月、敷設艦津軽、第20号掃海艇、海軍輸送船6隻、陸軍輸送船6隻)。
  9. ^ それでも重巡5隻(ミネアポリス、ポートランド、ニューオーリンズ、アストリア、チェスター)、駆逐艦8隻がいた[2]
  10. ^ 出撃時は元山海軍航空隊九六式陸上攻撃機 20機(爆弾装備)と[39]第四航空隊一式陸上攻撃機 12機(魚雷装備)だったが[40]、1機が故障で帰投した[41]
  11. ^ 『戦史叢書49、南東方面海軍作戦(1)』288頁では、四空の被害について「一式陸攻12機のうち4機自爆、1機不時着大破、2機着陸時大破、3機被弾」、元山空は3機被弾と記述する[41]。『一式陸攻戦史(2019年)』209頁では四空の被害について「一式陸攻8機自爆、2機不時着」と記述する[43]
  12. ^ 四 珊瑚海の勝利[46](一)五月七日十一時の晝食前である。「わが小型航空母艦沈没す。」と擴聲器が艦内各部の報じた。くちおちさが足の先から頭のてっぺんまで突き抜けて走る。「今に見ろ、敵艦隊を一隻も餘さず、珊瑚海の海神のごちそうに供へてやる。」と、歯を食ひしばった。/沈没したこの小さな母艦は、敵五十機の雷爆撃を相手に、敢然と戰ひぬき、不幸にも今この厄にあったのである。/すると、今度はすばらしい勝報がやって來た。「戰艦一隻撃沈。」やった、やった、わが勇猛果敢な海の荒鷲が、米のカルフォルニヤ型を撃沈したのだ。更に英の戰艦ウォースパイト型にも、大損害を與へたことがわかる。どっとあがる歓呼、うれし涙が頬を傅って流れる。(以下略)
  13. ^ 珊瑚海海戰[48] 帝國海軍部隊は五月六日ニューギニア島南東珊瑚海において米英聯合艦隊を發見、七日これに攻撃を加へ米戰艦カリフォルニア型(三萬二千六百噸、十四吋砲十二門)一隻を轟沈、米甲巡ポートランド型(九千トン、八吋砲九門)一隻撃沈、英戰艦ウオスパイト型(三萬六百トン、十五吋砲八門)一隻に大損害を與へ、さらに翌八日、米航空母艦サラトガ型(三萬三千トン、搭載機八十乃至九十機、戰時は百二十機は可能)一隻およびヨークタウン型(一萬千九百トン、搭載機八十、戰時百機まで可能なる最新鋭空母)一隻を撃沈したほか米戰艦ノース・カロライナ型(三萬五千トン、十六吋砲九門、一九四一年春竣工の最新鋭艦)を中破し、さらに米甲巡ルイスビル型(九千五十トン、八インチ砲九門)一隻に對し雷撃機の體当りをもってこれに大損害を與へ、二萬トン級給油艦一隻を大破、驅逐艦一隻を撃沈した。七日以來の本海戰において敵機撃墜數は九十八、わが未歸還機二十四、なほわが小型航空母艦一隻(給油艦を改造せるもの)沈没した。
    今回の敵出撃は現在アメリカ海軍としては最大限のものであることに注目しなければならない。すでに戰艦勢力に大損害を受けた彼としては空母集團攻撃には航空母艦を中心に甲級巡洋艦が加はってゐたのに今度は主力艦數隻が参加してゐる。これはニューギニア海戰で當時の空母集團が果敢なく最期を遂げたのに懲りてその編成を強化して來たものであらうが、かくのごとく敵は空母集團によるゲリラ戰法しか企圖出來なくなってゐる現在、手持の航空母艦中で最大能力をもつサラトガと最も精鋭な戰闘性能をもつヨークタウンの二隻を失ったことは大きな痛手である。/この米英聯合艦隊撃滅が豪州に與へた衝動はすこぶる大きく、首相カーチンはラジオを通じて「今次珊瑚海海戰により豪州への脅威はいよいよ切迫し、吾人はもっとも危険なる時機を迎へねばならぬであらう」と述べ、非常な恐慌を來した。
  14. ^ その後、松尾艇は哨戒艇の爆雷攻撃で撃沈された[75]
  15. ^ 伊22発進艇(松尾大尉、都竹二曹)、伊27発進艇(中馬大尉、大森 一曹)[69]
  16. ^ 南方部隊所属の駆逐艦ブルー (USS Blue,DD-387) は、北方部隊の駆逐艦ラルフタルボット (USS Ralph Talbot, DD-390) と共に[93]、海峡の一番西側を哨戒していた[94][95]
  17. ^ 重巡鳥海(第八艦隊旗艦、三川中将座乗)、重巡青葉(第六戦隊、司令官五藤存知少将)、重巡衣笠、重巡古鷹、重巡加古、軽巡天龍(第十八戦隊、司令官松山光治少将)[106]、軽巡夕張、駆逐艦夕凪[107]
  18. ^ バッグレイ(資料によってはバグレーと表記)は三川艦隊にむけて魚雷4本を発射したが、命中しなかった[116]
  19. ^ シカゴに命中した魚雷は、加古が発射した魚雷だった可能性がある[120]
  20. ^ 天龍はシカゴを「ファラガット級駆逐艦」と記録している[124]。ただし天龍が見たのは駆逐艦バッグレイだった可能性もある[125]
  21. ^ もしくは戦死者2名、負傷者24名[88]
  22. ^ 牽制部隊:第二航空戦隊(空母隼鷹)、第三戦隊(金剛、榛名)、第四戦隊(愛宕、高雄)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第二水雷戦隊および第十戦隊の軽巡洋艦や駆逐艦複数隻など。
  23. ^ 檜貝嚢治少佐率いる第七〇一海軍航空隊より九六陸攻16機(故障で1機が途中帰投)[154]第七〇五海軍航空隊より一式陸攻16機が発進した[155]
  24. ^ ほかにギッフェン少将の旗艦ウィチタ (USS Wichita, CA-45) と重巡ルイビル (USS Louisville, CA-28) に魚雷が命中したが、不発だった[159][160]
  25. ^ 檜貝少佐の九六式陸攻は被弾炎上後、シカゴに体当たりを試みて墜落、この影響でシカゴは炎上したという[159]
  26. ^ 一、ソロモンの血戰つゞく (5)輝くレンネル島沖海戰[170] ソロモン群島方面において晝夜を分たず熾烈なる戰闘が行はれてゐるが、二月一日わが大本營では左のごとき輝やかしい新戰果を發表した。//帝國海軍航空部隊は、一月二十九日ソロモン群島レンネル島東方に有力なる敵艦隊を發見、直ちに進發、惡天候を衝きて之を同島北方海面に捕捉し、全力を擧げて薄暮奇襲を敢行、敵兵力に大打撃を與へたり、敵はわが猛攻を受くるや愴惶として反轉、南東方に遁走せんとしたが、翌三十日更にわが航空部隊は晝間強襲を決行し、之に大損害を與へ敵の反撃企圖を破摧せり、本日までに判明せる戰果及びわが方損害左の如し。【戰果】戰艦二隻撃沈、巡洋艦三隻撃沈、戰艦一隻中破、大型巡洋艦一隻中破、戰闘機三機撃墜(わが損害―自爆七機、未帰還三機)(以下中略)
  27. ^ 「こういうことを言ったことはないが、誰であれシカゴ沈没の事実を公表したものは“射殺する”」とまで会議で発言している[173]

脚注編集

  1. ^ a b ポケット海軍年鑑 1935, p. 128原本238-239ページ(一等巡洋艦シカゴ)
  2. ^ a b 戦史叢書49 1971, pp. 269–271連合軍の作戦
  3. ^ 暁の珊瑚海 2009, pp. 137–139.
  4. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 200–211珊瑚海海戦と陸攻部隊
  5. ^ a b バーガー、ミッドウェイ 1985, pp. 70–71珊瑚海海戦、両軍航跡図
  6. ^ 大東亜戦争記録画報(前) 1943, pp. 88–89(原本168-169頁)わが特殊潜航艇の猛威 マダガスカル及シドニー強襲
  7. ^ 甲標的全史 2019, pp. 248–249甲標的作戦一覧/昭和17年5月31日
  8. ^ a b 戦史叢書98 1979, pp. 160a-163シドニー港攻撃
  9. ^ a b 日米死闘の島 1972, p. 51a三川中将の第八艦隊が攻撃
  10. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 464–465(外南洋部隊、海戦参加艦一覧)
  11. ^ 掴めなかった勝利 1994, p. 173.
  12. ^ a b 日米死闘の島 1972, pp. 51b-52第一次ソロモン海戦、日本に凱歌
  13. ^ a b 掴めなかった勝利 1994, pp. 264–265.
  14. ^ 大東亜戦争記録画報(後) 1943, pp. 14–15(原本20-21頁)第一次ソロモン海戰 敵艦船四十隻を撃沈破 米英聯合艦隊壊滅す
  15. ^ a b ニミッツ 1962, p. 145.
  16. ^ a b 一式陸攻戦史 2019, pp. 258a-261夜間雷撃の実際の戦果
  17. ^ a b ラバウル海軍航空隊 2001, pp. 192a-197問題を残したレンネル島沖海戦
  18. ^ a b 大東亜戦争記録画報(續) 1943, p. 25(原本39頁)レンネル島沖海戰
  19. ^ a b 大東亜戦争記録画報(續) 1943, p. 92(原本173頁)重巡シカゴ撃沈仕方なく米發表
  20. ^ 戦史叢書10 1967, pp. 374–375開戦時の海上兵力配備
  21. ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 375.
  22. ^ 掴めなかった勝利 1994, p. 220.
  23. ^ ニミッツ 1962, p. 24.
  24. ^ 戦史叢書10 1967, p. 393.
  25. ^ 戦史叢書10 1967, p. 394.
  26. ^ バーガー、ミッドウェイ 1985, pp. 67–72珊瑚海に戦雲ただよう
  27. ^ 暁の珊瑚海 2009, p. 91.
  28. ^ バーガー、ミッドウェイ 1985, pp. 64–67ポートモレスビイ占領を企図
  29. ^ a b ニミッツ 1962, p. 52.
  30. ^ 空母ヨークタウン 1984, p. 98.
  31. ^ 暁の珊瑚海 2009, pp. 64–65.
  32. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 267–269わが軍の作戦
  33. ^ バーガー、ミッドウェイ 1985, pp. 74–76両軍必死の索敵行動
  34. ^ 空母ヨークタウン 1984, pp. 101–102.
  35. ^ a b 一式陸攻戦史 2019, p. 202.
  36. ^ 日本空母戦史 1977, p. 217.
  37. ^ 戦史叢書49 1971, p. 289.
  38. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 287–289第五空襲部隊の連合軍水上部隊攻撃
  39. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 207.
  40. ^ 暁の珊瑚海 2009, pp. 171–173.
  41. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 288.
  42. ^ ラバウル海軍航空隊 2001, p. 58.
  43. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 209.
  44. ^ 暁の珊瑚海 2009, p. 237.
  45. ^ 軍艦旗は征く 1944, pp. 66–67戰艦カリフォルニヤ型轟沈
  46. ^ 初等科国語 1943, pp. 87–89珊瑚海の勝利
  47. ^ 軍艦旗は征く 1944, pp. 68–69爆撃機の必中彈
  48. ^ 大東亜戦争展望(2) 1942, pp. 41–42珊瑚海海戰
  49. ^ ニミッツ 1962, p. 54.
  50. ^ 大東亜戦争記録画報(前) 1943, p. 85(原本162-163頁)珊瑚海海戰で撃沈破の敵艦
  51. ^ バーガー、ミッドウェイ 1985, p. 76.
  52. ^ 暁の珊瑚海 2009, pp. 253–254.
  53. ^ a b 一式陸攻戦史 2019, p. 210.
  54. ^ 暁の珊瑚海 2009, p. 249.
  55. ^ a b 空母ヨークタウン 1984, p. 110.
  56. ^ 暁の珊瑚海 2009, p. 279.
  57. ^ バーガー、ミッドウェイ 1985, pp. 77–80空母「祥鳳」初の犠牲に
  58. ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 339.
  59. ^ 戦史叢書49 1971, pp. 337–338攻撃隊のトラック出撃
  60. ^ a b c 戦史叢書98 1979, p. 161.
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  62. ^ 潜水艦百物語 2018, pp. 119–121シドニー事前偵察の快挙
  63. ^ a b 掴めなかった勝利 1994, p. 119.
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  65. ^ 大東亜戦争記録画報(續) 1943, pp. 68–69(原本124-127頁)第二次特別攻撃隊十勇士 忠烈南阿・南濠の敵陣強襲
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  71. ^ a b 戦史叢書98 1979, p. 163.
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  76. ^ 大東亜戦争展望(2) 1942, p. 43特殊潜航艇 豪、阿を奇襲す
  77. ^ 甲標的全史 2019, pp. 117–118戦時に行われたオーストラリア海軍葬
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  109. ^ サボ島沖海戦 1988, p. 138.
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  137. ^ a b サボ島沖海戦 1988, p. 135.
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  154. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 251–254檜貝少佐の決意
  155. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 254–257一式陸攻、九六陸攻を追い抜く
  156. ^ 一式陸攻戦史 2019, p. 257aレンネル島沖海戦 701空、705空触接並びに攻撃状況
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参考文献編集

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  • 奥宮正武 『ラバウル海軍航空隊』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年3月 (原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6 
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  • 勝目純也「第三章 第二次特別攻撃隊 ― ディエゴスワレスとシドニー湾攻撃」 『甲標的全史 “特殊潜航艇”から始まった知られざる戦い』イカロス出版株式会社、2019年11月。ISBN 978-4-8022-0796-6 
  • 木俣滋郎 『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
  • 木俣滋郎 『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
  • 木俣滋郎「第10節 アメリカ重巡洋艦「シカゴ」」 『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8 
  • ブレイム・ケント 著、柳沢健 翻訳/中野五郎 日本語版監修 『Guadalcanal ガダルカナル 日米“死闘の島”』株式会社サンケイ出版〈第二世界大戦ブックス 28〉、1972年3月。 
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  • 鈴木範樹「特殊潜航艇によるシドニー攻撃」『写真・太平洋戦争(2)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0414-8
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
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  • 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記 PART II朝日ソノラマ、1990年、ISBN 4-257-17223-1
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  • 丹羽文雄 『海戦 【伏字復元版】』中央公論社〈中公文庫〉、2000年8月。ISBN 4-12-203698-4 
  • 秦郁彦「レンネル島沖海戦」『太平洋戦争航空史話 (上)』中公文庫、1995年、ISBN 4-12-202370-X
  • A・J・バーガー 著、芳地昌三 訳「3 前哨戦、珊瑚海海戦」 『ミッドウェイ 流れを変えた運命の海戦』株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫15〉、1985年5月。ISBN 4-383-02387-8 
  • パット・フランク、ヨーゼフ・D・ハリントン 『空母ヨークタウン』谷浦英男(訳)、朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1984年10月。ISBN 4-257-17048-4 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • イヴァン・ミュージカント 著、中村定 訳 『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0 
  • 森史朗 『暁の珊瑚海』株式会社文藝春秋〈文春文庫〉、2009年11月 (原著2005年)。ISBN 978-4-16-777315-1 
  • Shanks, Sandy. The Bode Testament. Writers Club Press, 2001. ISBN 0-595-18013-2


関連項目編集

外部リンク編集