グスターフ・フサークスロバキア語: Gustáv Husák, [ˈɡustaːw ˈɦusaːk], 1913年1月10日 - 1991年11月18日)は、チェコスロバキア共産党第一書記(1969年1987年)、大統領1975年1989年)。

グスターフ・フサーク
Gustáv Husák

グスターフ・フサーク

任期 1975年5月29日1989年12月10日
首相 ルボミール・シュトロウガル英語版
ラディスラフ・アダメッツ

任期 1971年5月29日1987年12月17日

任期 1969年4月17日1971年5月29日

出生 1913年1月10日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国 ブラティスラバ
死去 (1991-11-18) 1991年11月18日(78歳没)
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア ブラティスラヴァ
政党 スロバキア共産党
チェコスロバキア共産党
配偶者 マグダ・フサーコワ(1966年没)
ビエラ・フサーコワ(1977年没)
署名
ルーマニアチャウシェスク大統領(右)と(1976)
東独訪問の時、ベルリン空港でホーネッカーSED第一書記(左)、ウルブリヒト国家評議会議長(右)に挟まれたフサーク(1971年)

来歴・人物

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1933年スロバキア共産党に入党。

第二次世界大戦中の1944年ナチス・ドイツおよびその傀儡国家であったヨゼフ・ティソが統治する独立スロヴァキアに対するスロバキア国民蜂起に参加。

戦後、スロバキア共産党の指導者として、1948年の共産党体制成立に貢献するが、チトー主義者シオニスト民族主義者に対する粛清が猛威を振るった1950年代に「ブルジョワ民族主義」を理由に終身刑を宣告される。1963年名誉回復措置により、釈放。

1968年の、いわゆる「プラハの春」の時期に政界に復帰し、4月に成立したオルドジフ・チェルニーク内閣で連邦化問題を担当する副首相となるなど、改革派の一人とみられていた。しかし、8月の軍事介入後、次第に改革派から距離を置き、ソ連の信頼を勝ち取り、1969年4月、アレクサンジェル・ドゥプチェクに代わって、党第一書記に就任。改革勢力や反体制派に対する弾圧を強め、「正常化」路線を進める。

1980年代後半、ミハイル・ゴルバチョフの登場によって国内でも改革を求める気運が高まる中、第一書記の地位をミロシュ・ヤケシュに譲り、批判を和らげようとするが、1989年11月のビロード革命後に大統領を辞任、翌年には党を除名された。

2年後の1991年11月18日に死去(78歳)。

先代
アレクサンジェル・ドゥプチェク
チェコスロバキア共産党
書記長
1969年 - 1987年
次代
ミロシュ・ヤケシュ
先代
ルドヴィーク・スヴォボダ
チェコスロバキア社会主義共和国大統領
1975年 - 1989年
次代
ヴァーツラフ・ハヴェル