ジャン・ムーラン

ジャン・ムーランの記念碑

ジャン・ムーラン(Jean Moulin, 1899年6月20日 - 1943年7月8日)は、フランスの政治家、レジスタンス運動の指導者。

ジャン・ ムーランは、自然発生的なフランスの党派心の強い活動家達の抵抗活動をナチス・ドイツの侵略に対して結びつけた第二次世界大戦期の"フランスにおける抵抗の英雄"とされている。

ジャン・ムーランは、フランス南西部のベジエで生まれた。父親は、ベジエのコレージュでラテン語からフランス語と、歴史の教師をしていた。彼は1918年に軍に入隊した。第一次世界大戦の後、ムーランは公務員になり、1937年1月、アヴェロン県の知事(fr:Préfet)に最も若くして就任した。

ムーランの政治観は極左だった。1940年6月に、彼がゲシュタポに逮捕され、共産主義者の容疑者として拷問された時、ムーランは自身の喉をかっ切ることで自殺しようとした。しかし、警備兵は彼を見つけ、その後病院で容態が回復した。1940年11月までには、ヴィシー政府は、あらゆる公務から左翼運動家を首にするよう命令したが、容態が回復したムーランは、自分自身で辞職した。その時以来、彼は人生をナチス・ドイツへの抵抗運動に捧げた。

1941年9月に、彼はシャルル・ド・ゴール(『自由フランス軍』のリーダー)に会うためにロンドンに向かった。1942年1月、「組織化された抵抗運動」を準備するために、彼はフランスへとパラシュートで降下し、スペイン、ポルトガルなど周辺国の抵抗活動とも連携した。彼のコードネームは『最大』であった。

1943年5月、抵抗活動の全体会議を始めた直後、ムーランは裏切りにあった。同年6月21日、彼はリヨンクラウス・バルビーによって捕らえられ拷問され、パリ16区のゲシュタポ本部に連れていかれた。まもなく、ドイツに向かう列車で連行される途中、国境近くのメッツ駅(仏:メス駅)において、1943年7月8日に亡くなった。

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生涯編集

ジャン・ムーランはベジエで歴史教師の息子として1899年6月20日に生まれた。

1917年、レイモン・ポアンカレ大統領の時代、モンペリエ大学の法学部に通い、そして、エロー県公務員として登録される。第一次世界大戦中の1918年に徴兵され、フランス各地を巡ったが、戦闘行動はせずに終戦を迎え、モンペリエで復員した。1920年、政府の主要な公務員となり、学生組合の副議長を務め、また「共和国青年」のメンバーとなる。1922年に、アレクサンドル・ミルラン大統領時代、シャンベリーサヴォワ県官選知事の下の一員として管理職となる。

1925年にピエール・コットと出会い、1925年から1930年の間、アルベールヴィル下位官選知事であった。ガストン・ドゥメルグ大統領時代、フランスで最も若い郡長となる。この間1926年9月にマーガレット・セルッティと結婚するも、1928年に離婚している。1934年に、アミアンの県係長、1936年の人民戦線内閣成立後、航空相ピエール・コットのもとで官房長となる。

1930年、シャトーランの郡長であった彼は、ロマナンの名で新聞に風刺漫画を描いたり、トルリスタン・コルビリエールのイラストレーターとなる。この頃、セント・ポル・ロクスマックス・ジャコブなどと知己になった。1937年にフランス最年少の県知事となり、1939年にウール=エ=ロワール県の官選知事となる。

翌1940年、ドイツ軍がフランスに侵攻し、コンピエーニュの森レトンドで講和条約締結後、ドイツ占領軍に協力しなかったため拷問を受け、1940年11月にヴィシー政府から休職とされた。1941年10月25日にロンドンシャルル・ド・ゴールと会う。ド・ゴールは1941年11月にムーランをフランス行政地域における自分の代理とし、1943年2月からは「全土の代表」としている。その目的は、一つの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作ることであった。

1942年1月1日の夜、女性レジスタンス活動家のブリュノ・ララはただ一人サロン=ド=プロヴァンス周辺、アルピル上空からパラシュート降下でフランスに再潜入した。ジョゼフ・メルシエ偽名のジャン・ムーランに同行した。ジョゼフ・メルシエの偽名で仕事を始めた1942年7月にパリでピエール・ムニエと会い、ムーランは南部非占領地域で活動し、北部占領地域ではアンリ・マネスを代理として活動した。ロベール・シャンベロンやピエール・ムニエはジャン・ムーランの依頼通りに各方面と接触をとり続け、また、脱獄してきたピエール・ヴィヨンが占領地域の国民戦線の長となるなど、様々な活動を仲間と共に行う。

ピエール・ムニエやロベール・シャンベロンと同時期に、フランソワ・フォールの補佐を得ていたレミ大佐とそのノートルダム信徒会の地下組織が占領地域での様々な接触を試みてきたり、義勇遊撃隊の組織の中にマルセル・プルナンを通じて重要な連絡相手を見つけ、フランス共産党の中にも味方を見いだしていた。時に、フランス社会党は、社会党行動委員会を創り上げることによって地下組織を再編し、共産党は国民戦線の結成以降も注目に値する独自の活動を繰り広げていた。

ジャン・ムーランがパリに到着したのは、ダニエル・コルディエをリヨンでピエール・ムニエが紹介した日であった。

ロベール・シャンベロンとピエール・ムニエはジャン・ムーランの住処をいくつも用意しておき、まず最初にパリ16区のリュベック通りにあるジャン・ムーランの女友達の一人の家に行き、ルネ・シャンベロンの家のあるパリ郊外のサン=マンデ、ボーダン通り6番地へいくことになった。

自由フランスのパシー=ブロソレットのグループは、活動団体や政党にはたいした信用を置いていなかった。キリスト教民主同盟からやって来たジョルジュ・ビドーによって情報報道局が誕生した。

それら活動の結果、ヴィシー政府支配地域においてレジスタンスの有力諸組織を結合した「統一レジスタンス運動」(MUR)を形成した。南部の三大組織であるコンバリベラシオンフランティルールの軍事力を結集して秘密軍隊をつくりあげる。

アンリ・フルネやフランス南部地域の活動家達はただちにそれらをもって全面的な蜂起に持ち込めると考えていた。アメリカ人がアンリ・ジロー将軍を北アフリカに送り出す前に、ジロー将軍と接触を持った人々がいた。アンリ・フルネは、膨大な人員の流入に対処するため、ベヌーヴィルの助けを得て、スイス・ルートを利用し、ベルヌにあるアメリカの情報組織と交渉に入った。ロベール・シャンベロンとピエール・ムニエは彼らの地下活動の方法を少しずつきめ細かくしていった。但し、ルネ・ブスケの指揮下にあるダヴィッド警視の特別班によって被ったレジスタンス運動の被害は甚大なものがあった。

フランス共産党の同志達は、メトロの入り口に近い路上や、遠く離れた郊外で接触を進めた。ロベール・シャンベロンは共産党の同志達のやり方の真似をして「敗者復活戦」を前もって決めておくようにした。1943年3月にアンリ・マネスが逮捕されたため、ピエール・ムニエは妻とグラン・チュレンヌのホテルから逃げ出さねばならなかった。シモーヌ・ムニエはある共産党指導者の警戒心に打ち勝つことができた。状況の改善により、境界線の通過は少しずつ楽になり、それによって南部地域の指導活動の一部がセーヌ川のほとりに移転された。

秘密部隊や統一レジスタンスのような軍隊式のグループの中で、最もしっかりした組織で武器が行き渡っていたのはコンバのグループであった。アンリ・フルネは秘密部隊の司令官に任命されなかったため、ドレストラン将軍と仲違いをしてしまい、ドレストラン将軍のほうもアンリ・フルネに気を悪くしてしまった。

ピエール・ムニエやジャン・ムーラン等と共にノートルダム信徒会も共産主義者と接触を始めていた。フランス北部地域では、抵抗運動家はフィリップ・ペタンを意識することなく占領者と対決しており、かなり早い段階からドゴール将軍がただ一人の統合者のように思われていた。ピエール・ブロソレットは、ジャン・ムーランが占めた地位に気を悪くしていた。だいたいにおいて、活動団体は政党とは激しく対立していた。1943年初頭にはレミはフェルナン・グルニエを伴ってロンドンを訪れた。ジャン・ムーランは、レジスタンスにおいても、それに引き続く共和国の再建についても、政党の役割を有意義なものと判断していた。レジスタンスの活動家は、ドゴールに信頼を置いている人々の側では絶え間なくパリ - ロンドンの間の往復を行い、ジロー将軍の権威を認めている人々は、パリ - アルジェの間を頻繁に行き来していた。アンリ・マネスとともにジャン・ムーランがイギリスに向かおうとしていた頃、ジャン・ムーランが考えていたような形での統一組織に反対していた人々が居た。

ピエール・ブロソレットは、某日、サン=ジェルマン大通りとレンヌ通りとの角のリップというカフェの傍の大きな薬局でピエール・ムニエとロベール・シャンベロンと会合を持ったが、不首尾に終わった。1943年3月、アンリ・マネスが逮捕され、ピエール・ムニエがジャン・ムーランの筆頭補佐役となった。ジャン・ムーランは1943年3月20日にドレストラン将軍とクリスチャン・ピノーとともにフランスに戻り、ピエール・ムニエの伝言を読んでいた。3月31日にジャン・ムーラン、パシー、ピエール・ブロソレット、エーラル、ピエール・ムニエがローム通りに集まり、ジャン・ムーランはブロソレットやパシーらの越権行為を非難した。

1943年5月7日、全国抵抗評議会の設立を告げる電報をドゴール将軍に打つ。1943年5月15日、未だ招集されていないC.N.Rの議長の名において、再び電報を打つ。このとき、ジャン・ムーランは、ドゴール将軍のジロー将軍に対する政治的優位をうたった。C.N.Rに対して好意的でなかった人々は、ジャン・ムーランがC.N.Rの第一回総会前に、来るべき議決とそこで決められるべき決定事項を先取りしたと抗議した。

ピエール・ムニエはブローニュの森でジャン・ムーランと共産党の代表との会談を設定した。

レジスタンス全国評議会 (CNR) を組織し、1943年5月25日にC.N.Rの最初の会合が行われるはずであったが、ルイ・マランと連絡がつかなかったため延期され、1943年5月27日にパリ自由フランスがレジスタンス全国抵抗評議会として結集し、初めて集まった。ロベール・シャンベロンとピエール・ムニエはC.N.Rの第一回総会の設営にたずさわった。ピエール・ムニエは16名の参加者を2、3人ずつのグループに分け、数分ずつ間隔をおいてフール街のそばのメトロの入り口付近に集合させた。ロベール・シャンベロンとピエール・ムニエは会合終了前に外に出て、帰り道に不審な点がないかを確かめた。ロワレ県の財務部長をしていてピエール・コットの官房にいた旧友、ルネ・コルバンは勇敢にも自分のアパートを提供してくれた。C.N.Rは16人で構成されていた。

ピエール・ムニエはジャン・ムーランのロンドン行きやスイスに行くための段取りを考えたりしたが、ジャン・ムーランはピエール・ムニエの提案を受け入れず、ドゴールの即時直接行動をとる戦術に同意していた。ジャン・ムーランがフランス南部地域へ出発する前、シモーヌ・ムニエとピエール・ムニエはシモーヌ・ムニエの友人のド・ブルターニュ夫人の家でジャン・ムーランと昼食を共にした。ド・ブルターニュ夫人はパリのデュロンヌ通りに住んでおり、ジャン・ムーランがパリに滞在中に宿を提供してくれていた。

この間、ムーランはピエール・ムニエと共に官憲の追及を逃れ、パリメニルモンタン街の肉屋からレピュブリック広場代訴人の家へと隠れ家を転々とする。

1943年3月3日パリでアンリ・マネスが警察の罠にはまり、ゲシュタポに引き渡された。3月15日にはリヨンでレイモン・オブラック、モーリス・クリーゲル=ヴァルリモン、セルジュ・ラヴァネルが一斉検挙の犠牲者となるところであった。 4月4日には、ジャン・ムーランと共にパラシュート降下したモンジャレがリヨン近辺で捕まった。4月28日にはマルセイユでジャン・ミュルトンが捕まり、寝返り、シュヴァンス・ヴェルタンを売った。5月3日、北部解放の指導者で「ファランクス」という秘密組織の長でもあったクリスチャン・ピノーが捕まり、強制収容所に送られる前にリヨンの刑務所に入れられていた。

6月4日、リヨンでアンリ・オーブリがドレストラン将軍と会い、6月7日から6月8日のリヨン=パリ行き寝台車にゲシュタポの手先となっているジャン・ミュルトンドイツ国防軍防諜部員であるムークが同乗しており、6月9日には秘密軍事組織のシャルル・ドゥレストラン将軍がパリ16区のメトロ ラ・ミュエット駅で逮捕されている。6月10日、クラウス・バルビーはルネ・アルディにずっと尾行がついていること、そして、彼の恋人のリディ・バスティアンが彼の身元引受人になっていることをアルディにつげた。6月11日にルネ・アルディはニームに向かい、1943年6月13日、6月14日の両日にパリのリディ・バスティアンを連れ戻すために、リヨンとパリとを往復している。

6月19日、ジャン・ムーランはロンドンから着いたばかりで、彼の後任になるはずのセリュールと会っている。

5月に仲間と会議を行った後、何者かによって密告され、6月21日にリヨン郊外のカリュイール=エ=キュイールゲシュタポに逮捕された。拷問の末にドイツへと移送中の列車中で死亡した[1]。クラウス・バルビーはジャン・ムーランを死に至らしめた拷問の元凶である。のちド・ゴールによって国葬が行われた。

現在、誰が彼を密告したのか不明であるが、ルネ・アルディによる直接的あるいは間接的な関与が最も有力な説であり、また、レーモン・オーブラックによる情報提供も疑われている。(ブリュノ・ララ)

自由フランスのパシーやフランス社会党ピエール・ブロソレットなどと対立することもあり、レジスタンス運動が決して一枚岩ではなかったことが伺える。

脚注編集

  1. ^ メッツ駅の死亡届帳簿に、1943年7月8日という日付が残されている。

関連人物編集

関連項目編集

外部リンク編集