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フランス領アルジェリア
Algérie française
オスマン帝国 1830年 - 1962年 アルジェリア
アルジェリアの国旗 アルジェリアの国章
(フランスの国旗) 国章
アルジェリアの位置
公用語 フランス語
カビル語
アラビア語
首都 アルジェ
元首
1830年 - 1830年 シャルル10世
1958年 - 1962年シャルル・ド・ゴール
総督
1830年 - 1830年ルイ・オーギュスト・ヴィクトル・ド・ゲースヌ・ド・ブルモン
1962年 - 1962年クリスティアン・フーシェ
面積
2,381,741km²
変遷
フランスによる侵略 1830年7月5日
独立戦争勃発1954年11月1日
フランスより独立1962年7月3日
通貨アルジェリア・フラン

フランス領アルジェリア(フランスりょうアルジェリア、フランス語: Algérie française)は、1830年から1962年までフランスの支配下にあった北アフリカアルジェリア地域のことである。

目次

概要編集

法的地位

公式には植民地ではなく海外県と海外領土の中間的存在とされる。これは19世紀末、1898年8月28日政令と1900年12月19日法律で規定され、県の集まりであるが地域全体は県知事の地位のごときも含めてアルジェリア総督に属するとされ、治安維持の一義的責任は植民地省ではなく本国と同じく内務省が負うとされた。1934年以降は3つの県知事は総督に直属するとされ、司法・教育・ラジオ放送などいくつかの部門は本国の担当省庁に直属した。

さらに1833年4月25日法律第25条の定めでは、本国政府はアルジェリアに適用される諸法令を議会を経ることなく制定・発布・施行されることが出来た[1]1844年1846年の政令により土地所有制度を整備、これ以前にはフランス法のみが適用される裁判所が整備された。

歴史編集

ジュール・ド・ポリニャック首相は国内の不満の矛先を地中海を超えた北アフリカへの遠征をもって解消しようと試みた。1830年1月末から扇の一打事件等の現地勢力との断続的な抗争の結果、沿岸地域の支配権を獲得するも、1830年7月にフランス7月革命が発生し王政は崩壊した。新政府は王政復古の厄介な遺産となったアルジェリア占領地の取り扱いに苦慮していた。混乱は1834年7月22日に北アフリカフランス領総督府が設立されるまで続いた。

1830年のフランス進入以来、ヨーロッパ各地から無秩序に植民活動が始まった。1839年にはヨーロッパ系住民は25,000人におよんだ。トマ・ロベール・ブジョーは統制の取れた軍事的・集団的な植民活動を望んでいたが総ての試みは失敗した。

民族構成編集

フランスの支配が始まるまでは、アラブ人ベルベル人が先祖代々の土地を受け継ぎながら生活し、トルコ人は支配者として君臨していた。都市部ではユダヤ人が多数住んでいたが1871年以降、フランス市民権が与えられムスリム達と切り離された。

ピエ・ノワール(コロン)の多くはフランス人であったが、開発が進むにつれてイタリア人スペイン人マルタ人が流入し、普仏戦争後の1871年以降はプロイセン王国の支配から逃れるためアルザス人が急増した。1917年にはピエ・ノワールのフランス人比率は約20%までになっていた。

時代が進むにつれ、沿岸部や平野部および都市部はヨーロッパ化して様々な民族が混成していたが、オーレス山地カビリー山地など山岳地帯はムスリム達が土着したままで、近代化から取り残されていた。

フランスによる統治編集

人口統計編集

人口±% p.a.
1830 1,500,000—    
1851 2,554,100+2.57%
1856 2,496,100−0.46%
1862 2,999,100+3.11%
1866 2,921,200−0.66%
1872 2,894,500−0.15%
1877 2,867,600−0.19%
1882 3,310,400+2.91%
1886 3,867,000+3.96%
1892 4,174,700+1.28%
1896 4,479,000+1.77%
人口±% p.a.
1900 4,675,000+1.08%
1901 4,739,300+1.38%
1906 5,231,900+2.00%
1911 5,563,800+1.24%
1921 5,804,300+0.42%
1930e 6,453,000+1.18%
1940e 7,614,000+1.67%
1947 8,302,000+1.24%
1948 8,681,800+4.57%
1949 8,602,000−0.92%
1950 8,753,000+1.76%
人口±% p.a.
1951 8,927,000+1.99%
1952 9,126,000+2.23%
1953 9,370,000+2.67%
1954 9,529,700+1.70%
1955 9,678,000+1.56%
1956 9,903,000+2.32%
1958 10,127,000+1.12%
1959 10,575,000+4.42%
1960 10,853,000+2.63%
1962 10,920,000+0.31%
e - 飽くまでも推定人口である。
Source: [2][3]

侵略の前奏編集

 
チェスをするアルジェリア人 (1899年)
 
アラブ風絨毯を作るアルジェムーア人女(1899年)
 
アルジェのアラブ刺繍学校 (1899年)

歴史学者は一般的にアルジェリアに元々居住していた人の人口は1830年で150万人であると考えている[4]アルジェリアの人口英語版はフランス統治下、特に1866年から1872年までは減少し続けていたが[5]、フランスの軍隊は自分たちの過酷なアルジェリア支配にも関わらず、これは1866年1868年イナゴの異常発生や、1867年から1868年に起こった厳しい冬の寒さ、飢饉により発生したコレラが原因であるとして、責められなかった[6]

アルジェリア人は犬小屋の様なバラック襤褸ぼろを纏って重なり合うように寝ており、食べ物が碌に手に入らなかったので結核やコレラ等の伝染病に罹った人が多かった。子供の半分が5歳以下で死亡したと言われ救いの無い悲惨な生活であった[8]

フランスの政治形態がフランス第二帝政に移行すると、ナポレオン三世1860年代初期にアルジェリアを2回訪れた。彼はフランスの貴族と彼の情熱的な性格を気に入ったアルジェリアの族長の美徳さに深く感心していたが、一方コロンのリーダーの利己的な態度には腹を立てていた。そこで、ナポレオン三世は沿岸区域を越えたヨーロッパ人による入植地の拡大を中断させ、アルジェリア人の人口に危険な影響を及ぼすであろうと彼が考えたコロンたちとムスリムとの接触を禁止した。 彼は大部分のアルジェリア人を保護する為に、アラブ王国(royaume arabe, (Arab kingdom)なる物を彼自身で作って自身はアラブの王(roi des Arabes (king of the Arabs))になろうという大構想を夢見ていた。彼は伝統的なリーダーを介してムスリムと直接対応する為に所謂、首長政策なる物を制定した[9]

フランスによる略奪編集

フランス1872年にアルジェリア人の三分の一が加わったと言われているモクラニー蜂起英語版を鎮圧すると、フランスはアルジェリアを完全征服し本来の趣旨である経済的征服を行った。先ずフランスは次々とアルジェリアの土地を奪い、フサイン・イブン・パシャ英語版が降伏するとモスクワクフを奪った。ワクフとは寄進財産の事であり、信者による基金によって集められた。モスクはこの基金を使って貧民を救済したり、教育活動をしたり、道路を補修したりしてきたので、この財産を奪われた打撃はアルジェリアにとって大きなものであった。フランスはまた部族の共有財産であるアルクも奪った。アルクは農耕や牧畜には使えたが土地を売買する事は出来なかった。そう言った先祖代々守り続けた共有財産さえもフランスは奪ったのである[10]。 フランスは肥沃な土地を持っていた、何もしていない農民にもフランスに抵抗したと言い掛かりを付けて彼らの土地を頻繁に奪った。 暫くすると、アルジェリアにはコロン(colon(s))と呼ばれるフランス人やイタリア人、スペイン人等の移民がアルジェリアにやってきた。彼ら、コロンはアルジェリア人を劣等で怠惰な人種であると一方的に決め付け、彼らを""と罵った[11]

コロンたちはブドウスモモ等を輸出し利益を上げていた。 長年アルジェリアでは父が子に織物や陶器、皮革、金属加工等の手工業の技術を教え、その様にしてアルジェリアの伝統的工芸の技術を保存させていったが、フランスから加工品が輸入されるとフランスは本国の工業発展の為に原料の生産だけをアルジェリアに許し、アルジェリアの技術力の高い織物工場はフランスのそれらのライバルであると見做されると直ぐに工場を閉鎖させ悉く倒産させられた。フランスはアルジェリア人を安い賃金で働かせ、資源を搾取し、挙げ句の果てにアルジェリアの伝統工芸・文化さえも破壊した[12]

南西地方の征服編集

1890年代後半になると、フランス政府とフランス軍部はトゥアト英語版ティディケルト(Tidikelt)の併合を要求し[13]1930年代になるとモロッコを犠牲にしてサウーラ盆地とティンドゥフ地方をフランス領アルジェリア領として併合した。

二度の世界大戦編集

1907年になると、青年アルジェリア人英語版がフランスに抵抗するようになった。 1914年オーストリア皇太子・フランツ・フェルディナント大公夫妻がサライェヴォでセルビア人青年のガヴリロ・プリンツィプに暗殺されたサライェヴォ事件が契機となり第一次世界大戦が勃発した。この戦いはヨーロッパが主戦場だった為、アルジェリアはドイツ艦隊の攻撃を受けただけで済んだ。然し、フランスはアルジェリア人に選挙権を与えず兵役義務だけを押し付けた。マグリブでは約26万人の兵隊が戦場に送られ約8万人が戦死した。本国の労働力不足を補う為、10万人以上の人々が軍需工場、鉱山、農場に連行され奴隷の様に強制労働させられた。戦争で物資の不足が目立ち物価上昇が深刻な問題となった[14]

戦後フランスに出稼ぎに行ったアルジェリア人はチュニジア人と共に1926年北アフリカの星パリで結成した。当初これはフランス共産党の影響下にあったが、1928年頃からアルジェリアの独立を要求する民族主義政党として頭角を現し始めた[15]。 然し、世界恐慌1929年アメリカニューヨークウォール街で起き、フランスを含む世界中[注 1]が不景気となった。不景気の最中であったフランスは自分たちが最も甘い汁が吸えるアルジェリアの独立を何としてでも防ぎたいと思い、北アフリカの星の解散命令を出した。然し北アフリカの星は1932年栄光ある北アフリカの星と改名して独立運動を継続していった[16]

 
アルジェリア人がトーチ作戦を実行中のアメリカ軍に会っている場面

1940年、フランス領アルジェリア軍はフランスでの戦争中、地中海に派遣させられ戦っていた。然しフランス(第三共和政)がナチス・ドイツに敗れると、アルジェリア軍は崩壊したフランス(第三共和政)から事実上ナチス・ドイツの傀儡国家であるペタンヴィシー政権に従うようになった。

セティフの虐殺英語版編集

 
デモ隊が掲げていたアルジェリア国旗

1945年5月8日、ナチス・ドイツが降伏するとアルジェリアの至る所で戦勝記念のデモが行われた。セティフでは約5000人のアルジェリア人がデモを行った。然しこの時コロン商人とフランス国家憲兵による衝突が起きた。デモ参加者は一旦郊外のモスクに集まった後戦勝記念のプラカードとアルジェリアの国旗を持って街の中心部に行進して行った。街の中心部に来た時、突然アルジェリアの国旗を持っていた青年が射殺され、憲兵がデモ隊に襲いかかりデモを弾圧した[17]。またそれと同時に、アルジェリア人商人を含むムスリムは路上で捕まったヨーロッパ人を殺したという事件も起きた[18]。 セティフは血の惨事となり、102人のヨーロッパ人が犠牲となり約100名が負傷した[18]。歴史学者、アリスター・ホーン英語版はこの時レイプ事件が多数発生し、切断された死体が沢山あった、と報道している[18]。 この虐殺が遠因となりアルジェリア人は武器を取ってフランスに激しく対抗するようになった。

激化するフランスの弾圧編集

フランスによる弾圧は次第に激化していき、拷問虐殺も酷くなっていき、裸にされフランス兵に犯された女性も少なくなかった。独立を勝ち取るために武器を取り、「アルジェリア万歳!」と叫んで祖国に殉じた女性は多かったという[19]

行政区分編集

北部アルジェリアは1848年12月9日にフランスによって公式に准海外県となった。1902年にはサハラ砂漠地域は統合され、それまで6つ合った行政区分を「南方領土」と呼称し准県扱いとなる。なおアルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県の3県はフランス本国扱いつまりフランス内地であった。

番号 地域名 県庁所在地 存在期間
91 アルジェ県 アルジェ 1848年 - 1957年 
92 オラン県 オラン 1848年 - 1957年 
93 コンスタンティーヌ県 コンスタンティーヌ 1848年 - 1957年 
94 アインセフラ県 アインセフラ 1905年 - 1957年 
95 オアシス県 ワルグラ 1905年 - 1957年 
96 ガルダヤ県 ラグアト 1905年 - 1957年 
97 トゥーグルト県 ビスクラ 1905年 - 1957年 

1957年編集

アルジェリア戦争間、治安維持と現地住人に対するきめ細かい行政を実施するために1957年に大幅な改革が実行された。

番号 地域名 県庁所在地 存在期間
8A オアシス県 ワルグラ 1957年 - 1962年 
8B サウーラ県 コロンベシャール 1957年 - 1962年 
9A アルジェ県 アルジェ 1957年 - 1962年 
9B バトナ県 バトナ 1957年 - 1962年 
9C ボーヌ県 ボーヌ 1957年 - 1962年
9D コンスタンティーヌ県 コンスタンティーヌ 1957年 - 1962年 
9E メデア県 メデア 1957年 - 1962年 
9F モスタガネム県 モスタガネム 1957年 - 1962年
9G オラン県 オラン 1957年 - 1962年 
9H オルレアンヴィル県 オルレアンヴィル 1957年 - 1962年 
9J セティフ県 セティフ 1957年 - 1962年
9K ティアレト県 ティアレト 1957年 - 1962年 
9L ティジウーズー県 ティジウーズー 1957年 - 1962年 
9M トレムセン県 トレムセン 1957年 - 1962年
9N オマール県 オマール 1958年 - 1959年 
9P ブジー県 ブジー 1958年 - 1959年 
9R サイダ県 サイダ 1955年 - 1957年

歴代総督編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 当時社会主義国家であったソビエト社会主義共和国連邦はこれを免れた。

出典編集

  1. ^ 淡徳三郎『アルジェリア解放戦争』 P24からP32
  2. ^ Jan Lahmeyer (2003年10月11日). “ALgeria [Djazaïria historical demographic data of the whole country]”. Population statistics. 2012年6月9日閲覧。
  3. ^ Timeline: Algeria”. World History at KMLA (2005年5月31日). 2012年6月9日閲覧。
  4. ^ ALGERIA: population growth of the whole country”. www.populstat.info. 2017年7月7日閲覧。
  5. ^ Ricoux, Dr, René (1880). La Démographie figurée de l'Algérie : étude statistique des populations européennes qui habitent l'Algérie. Paris: Librairie de l'Académie de Médecine. pp. 260. 
  6. ^ Daniel Lefeuvre, Pour en finir avec la repentance coloniale, Editions Flammarion (2006), 2-08-210440-0
  7. ^ Taithe, Bertrand (2010-12-15). Hélène Blais, Claire Fredj, Saada Emmanuelle. “La famine de 1866-1868 : anatomie d’une catastrophe et construction médiatique d’un événement” (フランス語). Revue d'histoire du XIXe siècle. Société d'histoire de la révolution de 1848 et des révolutions du XIXe siècle (41): 113–127. doi:10.4000/rh19.4051. ISSN 1265-1354. https://rh19.revues.org/4051. 
  8. ^ 林 槙子, 「チュニジア・アルジェリア・ モロッコ (世界の国ぐにの歴史 6)」岩崎書店 1990年3月10日 第1刷発行 89,90頁より引用
  9. ^ Alistair Horne, page 31 "A Savage War of Peace, 0-670-61964-7
  10. ^ 林 槙子, 「チュニジア・アルジェリア・ モロッコ (世界の国ぐにの歴史 6)」岩崎書店 1990年3月10日 第1刷発行 86,87頁より引用
  11. ^ 林 槙子, 「チュニジア・アルジェリア・ モロッコ (世界の国ぐにの歴史 6)」岩崎書店 1990年3月10日 第1刷発行 87頁より引用
  12. ^ 林 槙子, 「チュニジア・アルジェリア・ モロッコ (世界の国ぐにの歴史 6)」岩崎書店 1990年3月10日 第1刷発行 90頁より引用
  13. ^ Frank E. Trout (1970), “Morocco's Boundary in the Guir-Zousfana River Basin”, African Historical Studies (Boston University African Studies Center) 3 (1): 37–56, JSTOR 216479, http://jstor.org/stable/216479 
  14. ^ 林 槙子, 「チュニジア・アルジェリア・ モロッコ (世界の国ぐにの歴史 6)」岩崎書店 1990年3月10日 第1刷発行 92,93頁より引用
  15. ^ https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%98%9F-1523127
  16. ^ 林 槙子, 「チュニジア・アルジェリア・ モロッコ (世界の国ぐにの歴史 6)」岩崎書店 1990年3月10日 第1刷発行 95,96頁より引用
  17. ^ 林 槙子, 「チュニジア・アルジェリア・ モロッコ (世界の国ぐにの歴史 6)」岩崎書店 1990年3月10日 第1刷発行 97,98頁より引用
  18. ^ a b c Horne, Alistair (1977). A Savage War of Peace: Algeria 1954–1962. New York: The Viking Press. p. 26. 
  19. ^ 林 槙子, 「チュニジア・アルジェリア・ モロッコ (世界の国ぐにの歴史 6)」岩崎書店 1990年3月10日 第1刷発行 100頁より引用

参考文献編集

  • アリステア・ホーン『サハラの砂、オーレスの石 アルジェリア独立革命史』北村美都穂:訳、第三書館、1994年
  • シャルル=ロベール・アージュロン『アルジェリア近現代史』私市正年/中嶋節子:訳、白水社、2002年
  • 淡徳三郎『アルジェリア解放戦争』青木新書、1962年

関連項目編集

外部リンク編集