スタンリー・H・ポリーStanley H. Polley, 1922年4月7日 - 2009年7月20日 ニューヨーク州ブロンクス区 – )は、1960年代から1970年代にかけて英米で活動したマネージャーバッドフィンガーアル・クーパールー・クリスティハンク・メドレスチャールズ・カレロサンディ・リンザーボブ・ルイスらをクライアントに抱えていた。担当したアーティストや設立した会社の利権を食い物にして、背任横領資金洗浄などの不正にかかわったとして起訴されており、著名人のマネージャーという立場を悪用した、いわば詐欺師というべき人物である。

略歴 編集

米国陸軍を退役して、ニューヨークの衣料業界でマネージャー業に入る[1]。1960年代の中頃に、知り合いになった歌手、ルー・クリスティとの縁故をつてに、芸能人のマネジメントも手懸けるようになり、ニューヨークやロサンジェルスでその他のアーティストと活動するようになった。1968年ごろに最初の事務所「ファイヴ・アーツ・マネジメント」を設立した。名称は、クリスティのほかにミュージシャンのアル・クーパー、作曲家のサンディ・リンザー、編曲家のチャールズ・カレロ、WABCディスクジョッキーであるボブ・ルイスの計5人が所属していたことにちなんでいる。さらに2人の作曲家、アーウィン・レヴァインラリー・ブラウンを釣り上げて新社屋を設立した。1970年には、アメリカ合衆国に代表団を求めていたイギリスのロックグループ、バッドフィンガーとマネジメント契約を結んで、新社「有限会社バッドフィンガー・エンタープライズ」を設立した。

ニューヨーク・タイムズ」紙によるとポリーは、匿名の複数の犯罪者とニューヨーク最高裁の判事とを仲介したとして、1971年上院議会の公聴会に招致されている。アメリカのクライアントの大半が、ポリーの業務に疑いを持っていたと語っているが、取り調べの報道に接してポリーと手を切るアーティストは多くなかった[2]

1972年にポリーはワーナー・ブラザース・レコードと交渉してバッドフィンガーと契約させたが、支度金をエスクロー(第三者寄託金)に振り込むことを要求する内容になっていた。1974年にワーナーブラザーズの出版部門が、資金の確認に失敗したとして、ポリーを提訴した。バッドフィンガーは、法的に追い詰められて金銭面で破綻し、リーダーのピート・ハムは、ポリーに対して当てつける内容の書き置きを遺して、1975年に自殺を遂げた[2]

1991年にポリーは、カリフォルニア州リバーサイド郡の法廷において、資金の着服やマネーロンダリングの告訴を抗弁せずに認めた。航空エンジニアのピーター・ブロックから、飛行機エンジンの製造会社を2人で立ち上げた後に25万ドルを詐取されたとして告発され、法廷から、5年間の保護観察に付されるとともに、使い込んだ全額をブロックに返すように命ぜられた。しかし原告は、損害賠償は実現されていないと申し立てている[2]

引退後は、カリフォルニア州パームスプリングスで化粧品店を経営する妻と平穏に暮らした[3]2009年7月20日に没[4]。死は家族の意向で公表されなかったため、数カ月後に社会保障局による死亡記録から判明した[3]

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  1. ^ Ancestry.com - Retrieved: 28 March 2008
  2. ^ a b c Matovina, Dan. Without You: The Tragic Story of Badfinger, Google Books, 2000. Retrieved 19 June 2009
  3. ^ a b Badfinger Library news page”. Tom Brennan's Badfinger Library (2009年11月19日). 2013年8月10日閲覧。
  4. ^ Stanley Herbert Polley - Social Security Death Index - MyHeritage”. 2013年8月10日閲覧。
  • Dan Matovina (2000). Without You: The Tragic Story of Badfinger. Frances Glover Books. ISBN 0-9657122-1-4