ラリー・ブラウン
ローレンス・ハーベイ・ブラウン(Lawrence Harvey Brown, 通称ラリー・ブラウン (Larry Brown), 1940年9月14日 - )はアメリカ合衆国のバスケットボールヘッドコーチでありプロバスケットチームのエグゼクティブマネージャーである。プロバスケットリーグNBAのフィラデルフィア・セブンティシクサーズなどのヘッドコーチを務めた。現在は南メソジスト大学のヘッドコーチを務めている。学生チームのコーチとしても著名であり、NCAAチャンピオンシップとNBAファイナルの両方を制した史上初のコーチである。通算の戦績は1,285勝853敗で2002年9月27日にはコーチとしてバスケットボール殿堂入りを果した。ニューヨーク市ブルックリン区出身。バスケットボール指導者ハーブ・ブラウンは実兄である。
![]() ニューヨーク・ニックスHC時のブラウン | ||||||||||||
引退 | ||||||||||||
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殿堂 | バスケットボール殿堂(コーチ) | |||||||||||
ポジション(現役時) | ポイントガード | |||||||||||
背番号(現役時) | 11 | |||||||||||
身長(現役時) | 175 cm (5 ft 9 in) | |||||||||||
体重(現役時) | 73 kg (161 lb) | |||||||||||
基本情報 | ||||||||||||
本名 | Lawrence Harvey Brown | |||||||||||
愛称 | "Larry" | |||||||||||
ラテン文字 | Larry Brown | |||||||||||
誕生日 | 1940年9月14日(80歳) | |||||||||||
国 |
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出身地 | ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区 | |||||||||||
出身 | ノースカロライナ大学 | |||||||||||
NBAドラフト | 1963年 7巡目2位 | |||||||||||
選手経歴 | ||||||||||||
1968 1969 1970 1971 1971-1972 |
ニューオーリンズ・バッカニアーズ オークランド・オークス ワシントン・キャピトルズ バージニア・スクワイアーズ デンバー・ロケッツ | |||||||||||
指導者経歴 | ||||||||||||
1965-1967 1972–1974 1974–1979 1979-1981 1981–1983 1983-1988 1988–1992 1992–1993 1993–1997 1997–2003 2003–2005 2005–2006 2008–2010 2012-2016 |
ノースカロライナ大学 (AC) カロライナ・クーガーズ デンバー・ナゲッツ UCLA ニュージャージー・ネッツ カンザス大学 サンアントニオ・スパーズ ロサンゼルス・クリッパーズ インディアナ・ペイサーズ フィラデルフィア・76ers デトロイト・ピストンズ ニューヨーク・ニックス シャーロット・ボブキャッツ 南メソジスト大学 | |||||||||||
受賞歴 | ||||||||||||
選手時代
コーチ時代
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Stats ![]() | ||||||||||||
代表歴 | ||||||||||||
キャップ |
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生い立ちと選手時代編集
ニューヨーク州ブルックリンで生まれたブラウンは、早くから父を亡くし貧しい幼少時代を過ごした[1]。ニューヨーク州のロングビーチ高校に進み、ポイントガードとして活躍した後、大学は名門ノースカロライナ大学でプレーをした。しかし、身長が174cmしかなくNBAでプレイするには小さすぎ、下部リーグのNABLでプレイをした。が、1964年にナショナルチームに選ばれて東京オリンピックでアメリカ代表として出場し金メダルを獲得する。
その後、ブラウンはABAで選手として活躍する。1968年にはABAのオールスターでMVPに選出され、オールABAセカンドチームにも選出された。彼のABAでの総アシスト数は2,509になり、これはABAの中で歴代7位の成績であり、 1試合23アシストはABA記録である[2]。
コーチキャリア概観編集
ABA・UCLA時代編集
選手引退後の1975年からブラウンはコーチとしてのキャリアを歩き始める。最初のコーチとしての仕事はノースカロライナ州のディビットソンカレッジで、夏のオフシーズンの間だけの就任であった[3]。その後ABAに戻り、1979年まで後のデンバー・ナゲッツとなるデンバー・ロケッツやカロライナ・クーガーズ等のコーチを務めた後、UCLAのコーチに就任する。1980年にはUCLAをNCAAチャンピオンシップまで導くが、優勝はならなかった。
その後、ブラウンは2年ほどニュージャージー・ネッツのコーチを務めるが、1983年より1988年までカンザス大学のコーチに就任する。この頃からブラウンのコーチとしての手腕が注目されるようになり、NCAAのコーチ・オブ・ザ・イヤー(1988年)にも選出されるようになった。そして1988年のNCAAチャンピオンシップでカンザス大学を優勝に導いた。
NBA時代編集
その後、ブラウンはNBAで多くのチームのコーチを務める。彼がコーチを務めたチームはサンアントニオ・スパーズ、ロサンゼルス・クリッパーズ、インディアナ・ペイサーズ、フィラデルフィア・セブンティシクサーズ、デトロイト・ピストンズ[4][5]、ニューヨーク・ニックス[6]。2004年にはピストンズをNBAファイナルに導き、優勝を果した。彼は一つのチームに長い間勤めることをしないが、それぞれのチームで成績の向上をもたらした。 またチャンシー・ビラップスやラシード・ウォーレス等、ブラウンとの出会いで大きく飛躍した選手も数多くいて、アレン・アイバーソンは彼が世界で最高のコーチだ、と評している。 2006年にはNBAでの通算1000勝も達成した。彼の指導理念は、グレッグ・ポポビッチを筆頭に、次世代のNBAヘッドコーチへと引き継がれている。
オリンピック代表コーチ編集
ブラウンは2004年アテネオリンピックのアメリカ代表チームのコーチにも選出され、銅メダルを獲得した。
最近の状況編集
ブラウンはピストンズを優勝に導いた後、ニックスのコーチに就任するが、そこでは実績を挙げる事ができなかった。シーズン成績を23勝59敗という惨憺たる成績に終わり、チームやマスコミの批判を一身に浴びることになる。特にステフォン・マーブリーとの仲が険悪になり、お互いに非難しあうような状態になる。
2006年6月22日にニックスはブラウンを解雇し、代わりにアイザイア・トーマスが就任する事になった。その後、フィラデルフィア・セブンティシクサーズのゼネラルマネージャー補佐としてアレン・アイバーソンのトレードの仲介役を果した。2007年にブラウンはセブンティシクサーズの副社長に就任し、その後2008年4月29日にシャーロット・ボブキャッツのヘッドコーチに就任したが、2010年に退任した[7]。
ヘッドコーチ実績編集
NBAヘッドコーチ実績表略号説明 | |||||||||
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レギュラーシーズン | G | 試合数 | W | 勝利数 | L | 敗戦数 | W–L % | レギュラーシーズン勝率 | |
ポストシーズン | PG | 試合数 | PW | 勝利数 | PL | 敗戦数 | PW–L % | プレイオフ勝率 |
チーム | シーズン | G | W | L | W–L% | シーズン結果 | PG | PW | PL | PW–L% | 最終結果 |
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CAR (ABA) | 1972–73 | 84 | 57 | 27 | .679 | 1st in East | 12 | 7 | 5 | .583 | ディビジョン・ファイナル敗退 |
CAR (ABA) | 1973–74 | 84 | 47 | 37 | .560 | 3rd in East | 4 | 0 | 4 | .000 | ディビジョン・セミファイナル敗退 |
DEN (ABA) | 1974–75 | 84 | 65 | 19 | .774 | 1st in West | 13 | 7 | 6 | .538 | ディビジョン・ファイナル敗退 |
DEN (ABA) | 1975–76 | 84 | 60 | 24 | .714 | 1st in West | 13 | 6 | 7 | .462 | ABAファイナル敗退 |
DEN | 1976–77 | 82 | 50 | 32 | .610 | 1st in Midwest | 6 | 2 | 4 | .333 | カンファレンス・セミファイナル敗退 |
DEN | 1977–78 | 82 | 48 | 34 | .585 | 1st in Midwest | 13 | 6 | 7 | .462 | カンファレンス・ファイナル敗退 |
DEN | 1978–79 | 53 | 28 | 25 | .528 | — | — | — | — | — | — |
NJN | 1981–82 | 82 | 44 | 38 | .537 | 3rd in Atlantic | 2 | 0 | 2 | .000 | ファーストラウンド敗退 |
NJN | 1982–83 | 76 | 47 | 29 | .618 | — | — | — | — | — | — |
SAS | 1988–89 | 82 | 21 | 61 | .256 | 5th in Midwest | — | — | — | — | Missed Playoffs |
SAS | 1989–90 | 82 | 56 | 26 | .683 | 1st in Midwest | 10 | 6 | 4 | .600 | カンファレンス・セミファイナル敗退 |
SAS | 1990–91 | 82 | 55 | 27 | .671 | 1st in Midwest | 4 | 1 | 3 | .250 | ファーストラウンド敗退 |
SAS | 1991–92 | 38 | 21 | 17 | .553 | — | — | — | — | — | — |
LAC | 1991–92 | 35 | 23 | 12 | .657 | 5th in Pacific | 5 | 2 | 3 | .400 | ファーストラウンド敗退 |
LAC | 1992–93 | 82 | 41 | 41 | .500 | 5th in Pacific | 5 | 2 | 3 | .400 | ファーストラウンド敗退 |
IND | 1993–94 | 82 | 47 | 35 | .573 | 4th in Central | 16 | 10 | 6 | .625 | カンファレンス・ファイナル敗退 |
IND | 1994–95 | 82 | 52 | 30 | .634 | 1st in Central | 17 | 10 | 7 | .588 | カンファレンス・ファイナル敗退 |
IND | 1995–96 | 82 | 52 | 30 | .634 | 2nd in Central | 5 | 2 | 3 | .400 | ファーストラウンド敗退 |
IND | 1996–97 | 82 | 39 | 43 | .476 | 6th in Central | — | — | — | — | Missed Playoffs |
PHI | 1997–98 | 82 | 31 | 51 | .378 | 7th in Atlantic | — | — | — | — | Missed Playoffs |
PHI | 1998–99 | 50 | 28 | 22 | .560 | 3rd in Atlantic | 8 | 3 | 5 | .375 | カンファレンス・セミファイナル敗退 |
PHI | 1999–00 | 82 | 49 | 33 | .598 | 3rd in Atlantic | 10 | 5 | 5 | .500 | カンファレンス・セミファイナル敗退 |
PHI | 2000–01 | 82 | 56 | 26 | .683 | 1st in Atlantic | 23 | 12 | 11 | .522 | NBAファイナル敗退 |
PHI | 2001–02 | 82 | 43 | 39 | .524 | 4th in Atlantic | 5 | 2 | 3 | .400 | ファーストラウンド敗退 |
PHI | 2002–03 | 82 | 48 | 34 | .585 | 2nd in Atlantic | 12 | 6 | 6 | .500 | カンファレンス・セミファイナル敗退 |
DET | 2003–04 | 82 | 54 | 28 | .659 | 2nd in Central | 23 | 16 | 7 | .696 | 優勝 |
DET | 2004–05 | 82 | 54 | 28 | .659 | 1st in Central | 25 | 15 | 10 | .600 | NBAファイナル敗退 |
NYK | 2005–06 | 82 | 23 | 59 | .280 | 5th in Atlantic | — | — | — | — | Missed Playoffs |
CHA | 2008–09 | 82 | 35 | 47 | .427 | 4th in Southeast | — | — | — | — | Missed Playoffs |
CHA | 2009–10 | 82 | 44 | 38 | .537 | 3rd in Southeast | 4 | 0 | 4 | .000 | ファーストラウンド敗退 |
CHA | 2010–11 | 28 | 9 | 19 | .321 | — | — | — | — | — | — |
NBA Career | 2002 | 1098 | 904 | .548 | 193 | 100 | 93 | .518 | |||
ABA Career | 336 | 229 | 107 | .682 | 42 | 20 | 22 | .476 | |||
Career Total | 2338 | 1327 | 1011 | .568 | 235 | 120 | 115 | .511 |
指導方針編集
弱小チームを次々に建て直しNBA屈指の名将として知られるブラウンは、チームバスケットを好み、ディフェンスを重んじたシステマチックなハーフコートバスケットを主体とする。ブラウン好みの選手とはエゴの少なく、ディフェンシブで、基本に忠実な選手であり、特にエース格と呼ばれるプレーヤーを作らない(唯一生粋のフランチャイズ・プレイヤーであるアレン・アイバーソンは例外であった)。選手全員がボールを共有し、全員に得点させる。3ポイントシュートや派手なダンクは多用せず、セットから確実な2ポイントシュートで得点させる。彼自身の言葉で「正しいバスケット」と表現し、これを見事に体現したのが2003-04シーズンのデトロイト・ピストンズであろう。
また完璧主義者で非常に厳しいことでも有名であり、選手やフロントと衝突して数年で退団してしまうケースも目立つ。しかし彼の下で飛躍した選手は数多い。
業績編集
- 1973年 カロライナ・クーガーズ:ABAイースタンディビジョン、レギュラーシーズン優勝
- 1975年 デンバー・ナゲッツ:ABAウェスタンディビジョン、レギュラーシーズン優勝
- 1976年 デンバー・ナゲッツ:ABAレギュラーシーズン優勝
- 1977年 デンバー・ナゲッツ:NBAディビジョン優勝
- 1978年 デンバー・ナゲッツ:NBAディビジョン優勝
- 1980年 UCLA:NCAAチャンピオンシップ進出
- 1986年 カンザス大学:NCAAベスト4、カンファレンス優勝
- 1988年 カンザス大学:NCAAチャンピオンシップ優勝
- 1990年 サンアントニオ・スパーズ:ディビジョン優勝
- 1991年 サンアントニオ・スパーズ:ディビジョン優勝
- 1995年 インディアナ・ペイサーズ:ディビジョン優勝
- 2001年 フィラデルフィア・セブンティシクサーズ:カンファレンス優勝
- 2004年 デトロイト・ピストンズ:NBAファイナル優勝
- 2005年 デトロイト・ピストンズ:カンファレンス優勝
脚注編集
- ^ Paul Taylor. Jews and the Olympic Games: the ... 2011年10月26日閲覧。
- ^ The Official NBA Basketball Encyclopedia. Villard Books. (1994). p. 209. ISBN 0-679-43293-0
- ^ “Larry Brown Resigns at Davidson”. Reading Eagle. (July 3, 1969) .
- ^ “PISTONS: Larry Brown Relieved of His Coaching Duties”. Nba.com (2005年7月19日). 2011年1月10日閲覧。
- ^ “Contract had three years, $18 million left – NBA”. ESPN (2005年7月19日). 2011年1月10日閲覧。
- ^ “Knicks fire Brown, name Thomas new coach”. ESPN (2006年6月23日). 2011年1月10日閲覧。
- ^ “Brown returns to Carolina to coach Bobcats”. ESPN (2008年4月30日). 2011年1月10日閲覧。