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セント・ロー (護衛空母)

アメリカ海軍の護衛空母
USS St. Lo CVE-63
艦歴
発注
起工 1943年1月23日
進水 1943年8月17日
就役 1943年10月23日
退役
その後 1944年10月25日に戦没
性能諸元
排水量 7,800 トン
全長 512 ft 3 in (156.1 m)
全幅 108 ft (32.9 m)
吃水 22 ft 4 in (6.8 m)
機関 スキナー・ユニフロースチーム・エンジン 2基、ボイラー(285 psi)4基
9,000馬力、2軸推進
最大速力 19ノット
航続距離 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員 士官、兵員860名
兵装 38口径5インチ単装砲 1門
40mm連装機関砲 8基
エリコン20mm単装機銃 20門
搭載機 28機

セント・ロー (USS St. Lo, AVG/ACV/CVE-63) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の9番艦。

艦歴編集

「ミッドウェイ」として編集

艦は当初、チャピン・ベイ (USS Chapin Bay、アラスカのチャピン湾に由来) の艦名で1943年1月23日にワシントン州バンクーバーカイザー造船所で起工するが、4月3日にミッドウェイ (USS Midway) と改名された。

8月17日にハワード・ニクソン・コールター夫人によって進水、1943年10月23日にフランシス・J・マッケンナ艦長の指揮のもと就役した。

ミッドウェイは西海岸での整調後、真珠湾およびオーストラリアへ第65混成飛行団(VC-65)を乗艦させ補充の戦闘機輸送任務に赴く。6月1日にジェラルド・F・ボーガン少将率いる空母支援グループに加わりマリアナ諸島進攻に参加する。6月15日にはサイパン攻略に加わり航空支援を行う。この作戦行動の中でミッドウェイは数度の敵襲に遭遇したが、損害は受けずに済んだ[1]。VC-65のFM-2ワイルドキャット戦闘機は航空偵察任務の間に日本軍機4機撃墜、1機破壊の報告を挙げた。

7月13日にエニウェトク環礁へ補給のため向かい、23日にテニアン攻略に参加する。ミッドウェイは地上部隊のための航空支援と対潜水艦偵察巡航を継続し、7月28日に補給のため同水域を離脱した[1]

ミッドウェイはエニウェトク環礁に8月9日まで停泊し、その後アドミラルティ諸島マヌス島ゼーアドラー湾に向かい8月13日に到着する[1]

9月10日にミッドウェイは第77任務部隊に配属され、モロタイ島攻略に参加する。上陸部隊支援を9月15日に開始し、輸送部隊の援護を22日まで継続した[1]

燃料および弾薬の補給後、同型艦「ファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70)」と共に第77.1.2任務群(または第77任務部隊第1群第2集団)の基幹としてパラオ諸島の航空作戦に従事する。しかし10月3日、モロタイ島沖で日本軍潜水艦からの攻撃を受けた。呂41が艦隊に向け4本の魚雷を発射し、ミッドウェイはこれを回避したものの、一発の魚雷が護衛駆逐艦シェルトン (USS Shelton, DE-407)」 の船尾に命中した。「シェルトン」は曳航されたものの、浸水がひどく途中で撃沈処分された[2]

10月7日、ミッドウェイはゼーアドラー湾に帰還した。

「セント・ローとして」編集

10月10日にミッドウェイはセント・ローと改名された。この艦名は1944年7月18日にアメリカ軍によって占領されたフランスサン=ローを記念したもので、「ミッドウェイ」の艦名は建造中の大型空母に与えられることとなった[1]

セント・ローはゼーアドラー湾を10月12日に出航し、レイテ島攻略に参加する。上陸部隊の上空支援および支援空爆を命じられ、セント・ローはレイテ島に10月18日到着する。レイテ島北東部のタクロバンに対して地上支援の爆撃を行う。セント・ローはクリフトン・スプレイグ少将率いる「タフィー3 Taffy 3」(第77.4.3任務群)に所属することとなった。同部隊は6隻の護衛空母と、その護衛の駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻から成るもので、レイテ島東海岸およびサマール島沖で活動する。艦載機部隊は10月18日から24日にかけて編成替えされ、レイテ島およびサマール島の日本軍施設に対し攻撃を行った[1]

サマール沖海戦編集

 
煙幕を張るセント・ロー
 
セント・ローから撮影された戦況

10月25日の夜明け前、セント・ローはサマール島東60マイルの水域に向け出航し4機の対潜哨戒機を発艦させた。一方でタフィー3の残りの空母は同日に行われる上陸に先立っての地上攻撃準備を行う。セント・ローから発艦した対潜哨戒機のパイロットであるビル・ブルックス少尉は4隻の戦艦、6隻の巡洋艦、10から12隻の駆逐艦から成る日本艦隊が17マイル西北から接近中であることを報告した。同時にセント・ローの哨戒班は水平線上に日本戦艦独特の上部構造物を発見する。6時47分、サマール沖海戦が始まった。

スプレイグ少将はタフィー3に全速力で南へ回頭を命じたが、栗田健男中将率いる日本艦隊は6時58分に砲撃を開始し、タフィー3を火力、数共に圧倒した[1]

セント・ローと僚艦の5隻の護衛空母はスコールに紛れて砲撃を回避し、搭載する戦闘機および雷撃機全てに持てる限りの弾薬を積ませ発艦させた。パイロット達は「日本艦隊への攻撃」「レイテ島のタクロバン臨時飛行場に着陸し、弾薬および燃料を補給すること」を命ぜられた。空母部隊は日本の戦艦・巡洋艦からの砲撃に追われ、セント・ローの付近にも次々と着弾し混乱が迅速に広がった[1]

7時38分の時点で日本の巡洋艦はセント・ローの14,000ヤードまで接近した。セント・ローも日本の砲撃に対し5インチ単装砲で応戦し[3]利根型重巡洋艦に3発命中の戦果を主張している。続く1時間半、栗田中将の艦隊はタフィー3に接近し、10,000ヤードの距離からセント・ローへ砲撃を加えた。多くの砲弾が付近に着弾、頭上を通過した。

砲撃戦の間、栗田艦隊の砲撃精度を落とすためタフィー3の全艦が煙幕を展開し、駆逐艦・護衛駆逐艦による捨て身の攻撃も栗田艦隊の攻撃を効果的に妨げた。さらにタフィー3だけでなく、南方に位置していたタフィー1およびタフィー2の艦載機も援護に加わった。

アメリカ軍の航空攻撃および駆逐艦・護衛駆逐艦からの攻撃が増し、日本巡洋艦は戦闘を停止し9時20分に北方へ回頭した。しかし日本駆逐艦が9時15分に10,500ヤードの距離からタフィー3に対し魚雷攻撃を開始していた[3]。セント・ローの艦載機TBMアヴェンジャーのパイロット、ワルドロップ少尉は機銃掃射で二発の魚雷を爆破した。

一連の戦闘でタフィー3は護衛空母「ガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73)」、駆逐艦「ジョンストン 」「ホーエル (USS Hoel, DD-533)」、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413)」の4隻を失った。

喪失(神風特別攻撃隊)編集

 
特攻機の命中で爆発するセント・ロー

10時47分に任務部隊は第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の攻撃を受けた。40分にも及ぶ日本の特攻機による攻撃で「ファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70)」を除く全ての護衛空母が被害を受け[1]、セント・ローは撃沈された。

10時51分に一機の零式艦上戦闘機がセント・ローの飛行甲板に突入した。通説では関行男海軍大尉機とされているが、実際には同艦に突入したのは編隊の4番機であり、隊長として先頭にいたはずの関大尉ではあり得ない(10時49分、「カリニン・ベイ(USS Kalinin Bay, CVE-68)」に突入した機が関大尉機とみられる)、と言われている。同機が搭載していた爆弾はセント・ローの飛行甲板を貫通して爆発、右舷格納庫甲板に火災を生じさせた。火災はガソリンに引火し、セント・ローの格納庫内の航空機の搭載魚雷および爆弾が誘爆したものも含め6度の爆発が生じた。セント・ローは炎に包まれ、30分後に沈没した[4]

歴史家セス・パリドン(Seth Paridon)は、セント・ローの元乗員オービル・ベットハード(Orville Bethard)のインタビューをもとに、セント・ローの喪失について次のような記事を作成している[5]。「ベットハードの見た日本機は突入する直前に爆弾を投下し、飛行甲板を貫通して格納庫甲板で爆発した。突入した機体も同じ位置で爆発し、無防備となっていた格納庫の艦載機や弾薬が誘爆を始めた。魚雷庫が吹き飛ばされ、ベットハード達は避難した。セント・ローは激しい爆発で揺れたが、乗員達は艦を救おうと消火活動に努めた。2度目の爆発が艦全体を揺らし、ほんの数秒でさらに激しい爆発が続き、飛行甲板の一部がめくれ上がった。その次の大爆発が飛行甲板をさらに破壊し、エレベータを吹き飛ばし、セント・ローの命運は決した。艦を放棄する命令を受けたベットハードは艦の右舷から海に滑り落ち、彼が泳いで離れた頃にさらなる爆発が起きて海水が艦内に流れ込んだ。炎に包まれたセント・ローは艦尾から沈み始め、左舷がゆっくりと持ち上がり、ついに転覆して沈没した。セント・ローは特攻攻撃で沈んだ最初の船となったが、残念ながら犠牲となる最後の船ではなかった。」

セント・ローの889人の乗組員の内143名が死亡または行方不明となり、生存者は駆逐艦「ヒーアマン (USS Heermann, DD-532)」、護衛駆逐艦「ジョン・C・バトラー(USS John C. Butler, DE-339)」「レイモンド (USS Raymond, DE-341)」「デニス (USS Dennis, DE-405)」の4隻によって救助され、特に「デニス」は434名を救出し周囲を驚かせた[4]

受章等編集

セント・ローはサマール沖海戦の戦功で殊勲部隊章を、第二次世界大戦の戦功で4つの従軍星章を受章した[1]

マッケンナ艦長は最後まで艦に留まり続け、その功績で海軍十字章を受章した。その後、1946年に就役した空母「キアサージ」の初代艦長に就任する[6]

残骸の発見編集

ポール・アレン氏が設立した財団の運用する無人調査艇ペトレルが2019年5月14日にセント・ローの残骸をフィリピン海の海底4,736メートルの位置で発見、25日に調査を行った[7][8]。船体の迷彩塗装や刻印された文字、損傷を受けた飛行甲板等がはっきりと確認できる状態である[9]

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i j DANFS 2019.
  2. ^ 永井、木俣, 98~99ページ
  3. ^ a b DANFS 2015.
  4. ^ a b Smith 2014, pp. 14–15.
  5. ^ Eyewitness to the Battle off Samar and the Loss of the USS St. Lo
  6. ^ Navsource 2018.
  7. ^ WRECK SITE USS St.Lo(CVE-63)(+1944)”. www.wrecksite.eu. 2019年11月2日閲覧。
  8. ^ 旧日本軍の「特攻」で沈没 米空母の海底映像公開”. NHK NEWS WEB. 2019年11月3日閲覧。
  9. ^ RV Petrel - USS ST Lo CVE-63

出典編集

  • 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記 PART III』朝日ソノラマ、1991年、ISBN 4-257-17242-8
  • "Midway II (CVE-63)". Dictionary of American Naval Fighting Ships. Navy Department, Naval History and Heritage Command. 30 May 2019. Retrieved 2 November 2019.  この記述には、アメリカ合衆国内でパブリックドメインとなっている記述を含む。
  • Kaiser Vancouver, Vancouver WA”. www.ShipbuildingHistory.com (2010年11月27日). 2018年10月21日閲覧。
  • USS MIDWAY (CVE-63), later USS ST. LO (CVE-63)”. Navsource.org (2018年10月21日). 2019年11月2日閲覧。
  • Midway”. 2019年11月2日閲覧。
  • USS St. Lo (CVE-63) (+1944)”. 2018年8月21日閲覧。
  • Smith, Peter C (2014). Kamikaze To Die For The Emperor. Barnsley, UK: Pen & Sword Books Ltd. ISBN 9781781593134. 

外部リンク編集