ソゲドゥ (ジャライル部)

ソゲドゥモンゴル語: Sügetü、? - 1285年)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ジャライル部の出身。主に南宋征服モンゴルのベトナム侵攻で活躍した。

『元史』などの漢文史料における漢字表記は唆都(suōdōu)など。

生涯 編集

若いころから驍勇なことで知られ、親衛隊(ケシクテイ)に入って花馬国遠征に活躍した。中統3年(1262年)、李璮が山東で反乱を起こすと、カビチの軍勢に加わって叛乱鎮圧に功績を挙げた。反乱鎮圧後、ソゲドゥは地方官の圧政によって多くの少年が南宋領に逃げていることを報告し、その罪を許して兵として徴発するよう進言した。この進言が取り上げられた結果約3000の兵が新規に得られたため、発案者のソゲドゥはその内1000の兵を与えられて千人隊長(ミンガン)に任じられ、蔡州に駐屯するよう命じられた[1]

至元5年(1268年)、アジュ率いる軍団が襄陽の包囲を始めると、ソゲドゥは別動隊を率いて金剛台寨・筲基窩・青澗寨・大洪山・帰州洞といった周辺の南宋軍拠点を攻略格した。至元6年(1269年)には范文虎が水軍を率いて灌子灘に進出してきたため、史天沢の命を受けたソゲドゥがこれを撃退した。至元9年(1272年)の樊城攻めでは真っ先に城壁を登り、城の攻略に大きな功績を挙げた[2]

至元11年(1274年)、襄陽・樊城の陥落により南宋への全面侵攻が開始されると、ソゲドゥは郢州に移り南宋軍を破った。至元12年(1275年)に建康が陥落すると、ソゲドゥはタチュより建康を守るよう命じられ、建康安撫使に任じられた。首都臨安の陥落によって事実上南宋が滅亡すると、総司令のバヤンは戦勝報告のため北方に帰還し、留守部隊の司令官となった董文炳はソゲドゥを副官として任命した。臨安の陥落後も南宋領の各地ではモンゴルへの抵抗運動助が続いており、ソゲドゥはこのような抵抗運動を防ぐために衢州婺州に派遣された。婺州では旧南宋の将軍陳路鈐率いる軍団を梅嶺下で破り、ソゲドゥは婺州・衢州を平定した[3]

至元14年(1277年)、福建道宣慰使に昇格となり、タチュの指揮下に入った。タチュは泉州の攻略をソゲドゥに命じ、ソゲドゥがまさに出陣しようとした時、信州から南宋軍残党の邵武より攻撃を受けており授軍がほしいとの要請が届いた。そこでソゲドゥは「もし邵武を放置したままでは腹背を衝かれ、この地を守ることはできないだろう」と部下に語り、週万戸を派遣して邵武を破らせた。また、崇安では南宋残党軍と戦い斬首数千を挙げる大勝利を収め、また健寧を攻めてきた文天祥の軍団を撃退した。さらに張清の拠る南劍を攻略し、福州では王積翁を投降させた。興化では城側から投降を申し出たにもかかわらず、モンゴル軍が近付くと城門を閉め矢石で攻撃したため、ソゲドゥは雲梯・砲石を用いて興化を攻略した。その後も漳州を攻略したものの、潮州は守りが固かったため、これを放置して進軍を続けた[4]

至元15年(1278年)、遂に海に面する広州に到達し、タチュからは再び潮州を攻めるよう命じられた。ソゲドゥは城壁に猛攻をかけたが 20日経っても城は下らず、そこで「最初に城壁を登った者には爵位を与え、すでに有する者は秩を上げさせよう」と約束したところ、遂に総管のウリヤンカが先駆けを果たし潮州は陥落した。以上の南宋領平定の功績によりソゲドゥは参知政事、ついで左丞に任じられたが、この時クビライは次は南海諸国の攻略に努めるように、と示唆したという[5]

至元18年(1281年)、占城行省の右丞に任じられ、翌年には広州港を立って占城への侵攻を開始した。ソゲドゥは占城各地で勝利を収め、特に大浪湖の戦いでは斬首6万におよぶ大勝利を収め、占城は投降した[6]。至元21年(1284年)、トガンを総司令とする越南侵攻が始まり、ソゲドゥも生の占城出兵時の経験を買われて遠征軍に入った。緒戦の清化府の戦いでは勝利を収めたものの、劣勢になったモンゴル軍は退却を始め、乾満江の戦いで大敗したソゲドゥは戦死してしまった。ソゲドゥの死後は息子の百家奴が跡を継ぎトガンを助けて無事退却し、以後も大元ウルスに仕え続けた[7]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「唆都、札剌児氏。驍勇善戦、入宿衛、従征花馬国有功。李璮叛山東、従諸王哈必赤平之。還、言於朝曰『郡県悪少年、多従間道鬻馬於宋境、乞免其罪、籍為兵』。従之、得兵三千人。以千人隷唆都、為千戸、命守蔡州」
  2. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「至元五年、阿朮等兵囲襄陽、命唆都出巡邏、奪宋金剛台寨・筲基窩・青澗寨・大洪山・帰州洞諸隘。嘗猝遇宋兵千餘、持羈勒欲窃馬、唆都戦敗之、斬首三百級。六年、宋将范文虎率舟師駐灌子灘、丞相史天澤命唆都拒卻之。陞総管、分東平卒八百隷之。九年、攻樊城、唆都先登、城遂破。襄陽降、再与卒五千、賜弓矢・襲衣・金鞍・白金等物。入見、陞郢復等処招討使」
  3. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十一年、移戍郢州之高港、敗宋師、斬首三百級、獲裨校九人。従大軍済江、鄂・漢降。十二年、建康降、参政塔出命唆都入城招集、改建康安撫使。攻平江・嘉興、皆下之。帥舟師会伯顔於阜亭山。宋平、詔伯顔以宋主入朝、留参政董文炳守臨安、令其自択可副者、文炳請留唆都、従之。時衢・婺諸州皆復起兵、文炳謂唆都曰『厳州不守、臨安必危、公往鎮之』。至厳方十日、衢・婺・徽連兵来攻、唆都戦却之、獲章知府等二十二人。復婺州、敗宋将陳路鈐於梅嶺下、斬首三千級。又復龍游県。攻衢州、衢守備甚厳、唆都親率諸軍鼓譟登城、抜之、宋丞相留夢炎降。攻処州、斬首七百級。又攻建寧府松渓県・懐安県、皆下之」
  4. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十四年、陞福建道宣慰使、行征南元帥府事、聴参政塔出節制。塔出令唆都取道泉州、泛海会於広州之富場。将行、信州守臣来求援曰『元帥不来、信不可守。今邵武方聚兵観釁、元帥旦往、邵武兵夕至矣』。唆都告於衆曰『若邵武不下、則腹背受敵、豈独信不可守乎』。乃遣週万戸等往招降之。唆都趨建寧、遇宋兵於崇安、軍容甚盛。令其子百家奴及楊庭璧等数隊夾撃之、范万戸以三百人伏祝公橋、移剌答以四百人伏北門外。庭璧陥陣深入、宋兵敗走、伏兵起、邀撃之、斬首千餘級。宋丞相文天祥・南剣州都督張清合兵将襲建寧、唆都夜設伏敗之。転戦至南剣、敗張清、奪其城。至福州、王積翁以城降。攻興化軍、知軍陳瓚乞降、復閉城拒守。唆都臨城諭之、矢石雨下。乃造雲梯砲石、攻破其城。巷戦終日、斬首三万余級、獲瓚、支解以徇。至漳州、漳州亦拒守、先遣百家奴往会塔出、留攻之、斬首数千級、知府何清降。攻潮州、知府馬発不降、唆都恐失富場之期、乃捨之而去」
  5. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十五年、至広州、塔出令還攻潮。発城守益備、唆都塞塹填濠、造雲梯・鵝車、日夜急攻。発潜遣人焚之、二十餘日不能下、唆都令於衆曰『有能先登者拝爵、已仕者増秩』。総管兀良哈耳先登、諸将継之、戦至夕、宋兵潰、潮州平。進参知政事、行省福州。徴入見、帝以江南既定、将有事於海外、陞左丞、行省泉州、招諭南夷諸国」
  6. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十八年、改右丞、行省占城。十九年、率戦船千艘、出広州、浮海伐占城。占城迎戦、兵号二十万。唆都率敢死士撃之、斬首並溺死者五万余人。又敗之於大浪湖、斬首六万級。占城降、唆都造木為城、辟田以耕。伐烏里・越里諸小夷、皆下之、積穀十五万以給軍」
  7. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「二十一年、鎮南王脱歓征交趾、詔唆都帥師来会、敗交趾兵於清化府、奪義安関、降其臣彰憲・昭顕。脱歓命唆都屯天長以就食、与大営相距二百餘里。俄有旨班師、脱歓引兵還、唆都不知也。交趾使人告之、弗信、及至大営、則空矣。交趾遮之於乾満江、唆都戦死。事聞、贈栄禄大夫、諡襄愍」

参考文献 編集

  • 山本達郎『安南史研究』山川出版社、1950年
  • 元史』巻129列伝16