鄧 綏(とう すい、81年 - 121年)は、中国後漢和帝の2番目の皇后で、南陽郡新野県の人。太傅の鄧禹の孫娘。父は鄧訓。母は陰麗華の従弟の娘。兄に鄧騭。

鄧皇后
後漢の皇后
在位 102年 - 105年

全名 鄧綏
別称 和熹皇后
出生 建初6年(81年
死去 永寧2年(121年
埋葬 順陵
配偶者 和帝
氏族 南陽鄧氏
父親 鄧訓
母親 陰氏(新野君)
祖父 鄧禹
兄弟 鄧騭
鄧京
鄧悝
鄧弘
鄧閶
立后前身位 貴人
テンプレートを表示

生涯編集

幼き頃に祖母の太傅夫人に可愛がられた。6歳で『史書』を勉強した。その後も『論語』・『詩経』などを誦したため、家族は「諸生」と呼んだ。

永元7年(95年)、15歳で和帝の後宮に入った。身長は七尺二寸(約165センチ)。類いまれな美貌の持ち主だったため、周りの人がみんな驚いたという。和帝に深く寵愛を受け、翌年に貴人となった。丁寧に陰皇后に仕えたが、皇后から嫉視された。永元14年(102年)、陰皇后は廃位された。和帝が鄧綏を皇后にしようとした。鄧綏は辞退したが、まだ皇后に立てられている。

元興元年(105年)、和帝は死去した。鄧綏は皇太后として臨朝し、劉隆を皇帝に擁立した。その兄の車騎将軍鄧騭と共に朝政を運営していた。しかし延平元年(106年)、殤帝は2歳で死去し、13歳の劉祜が擁立された。鄧氏の臨朝は継続し、鄧騭が朝政を運営した。

摂政をしていた鄧兄妹は他の外戚に比べて良質であり、鄧綏は班昭に経書の講義を受けたりした人物であった。鄧騭も1万戸の領地を受けた後で更に3千戸の加増を申し渡されたときに固辞して受け取らなかったという。

永寧2年(121年)死去した。和熹皇后の諡号が贈られ、順陵に合葬された。

参考文献編集