パトリシア・ヒー=ブーレ
パトリシア・ヒー=ブーレ(Patricia Hy-Boulais、1965年8月22日 - )は、カナダの元女子プロテニス選手。カンボジアの首都プノンペンに生まれる。父親はカンボジア人、母親は中国人という家庭に生まれ、幼い時にカンボジアから香港に移り、1991年7月にカナダ国籍を取得した。1994年にコーチのイブ・ブーレ(Yves Boulais)と結婚した後は、旧姓と併用して「パトリシア・ヒー=ブーレ」と名乗った。自己最高ランキングはシングルス28位、ダブルス36位。身長163cm、体重56kg、右利き。
| ||||
---|---|---|---|---|
基本情報 | ||||
国籍 | 香港→ カナダ | |||
出身地 | カンボジア・プノンペン | |||
居住地 | カナダ・オンタリオ州トロント | |||
生年月日 | 1965年8月22日(59歳) | |||
身長 | 163cm | |||
体重 | 56kg | |||
利き手 | 右 | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1981年 | |||
引退年 | 1998年 | |||
ツアー通算 | 2勝 | |||
シングルス | 1勝 | |||
ダブルス | 1勝 | |||
生涯通算成績 | 363勝385敗 | |||
シングルス | 242勝235敗 | |||
ダブルス | 121勝150敗 | |||
生涯獲得賞金 | 1,011,116 アメリカ合衆国ドル | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 2回戦(1987・91-93・97) | |||
全仏 | 4回戦(1992) | |||
全英 | 4回戦(1996・97) | |||
全米 | ベスト8(1992) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | ベスト4(1987) | |||
全仏 | 2回戦(1985・93・97・98) | |||
全英 | 2回戦(1996) | |||
全米 | ベスト8(1996) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 28位 | |||
ダブルス | 36位 | |||
彼女は6歳半の時に、家族とともにカンボジアを離れて香港に引っ越した。パトリシアの妹が家族から8年間も引き離されるという不幸の中で、彼女は8歳からテニスを始め、アメリカ・フロリダ州の「ブレイデントン・アカデミー」に留学した。1981年、彼女は16歳で女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップに香港代表選手として初出場したが、これが香港のフェデレーション杯初参加だった。1983年のウィンブルドンジュニア女子部門で、ヒーはジュニア女子シングルス準優勝・女子ダブルス優勝を記録した。ダブルス優勝パートナーのパティ・フェンディック(アメリカ)とは、プロ転向後もペアを組むことがあった。それから2年間カリフォルニア大学ロサンゼルス校で学び、1986年からプロテニス選手になる。1987年の全豪オープンで、ヒーは日本の井上悦子とペアを組み、第1シードのマルチナ・ナブラチロワ&パム・シュライバー組との準決勝まで進出した。井上とは同年のウィンブルドンと全米オープンでもペアを組んだが、どちらも初戦敗退に終わってしまう。1987年は、2大会で柳昌子とペアを組んだこともある。1991年7月17日、ヒーはカナダ市民権の取得を認められ、フェデレーションカップにもカナダ代表選手として参加資格を得た。
カナダ市民権を取得した後、ヒーはようやくテニス経歴を軌道に乗せ、1992年全仏オープンでガブリエラ・サバティーニとの4回戦に進出した。ウィンブルドンでもジェニファー・カプリアティとの3回戦に進み、バルセロナ五輪にもカナダ代表選手として初出場を果たす。この年の全米オープンで、ヒーは4大大会シングルスの自己最高成績を出し、ベスト8に勝ち進んだ。3回戦でカプリアティ、4回戦でヘレナ・スコバを破ったヒーは、初進出の準々決勝で第1シードのモニカ・セレシュに 1-6, 2-6 で敗れた。1993年3月、彼女は世界ランキングの自己最高位「28位」を記録する。1994年11月19日にコーチのイブ・ブーレと結婚し、その後は2つの姓を併用して「パトリシア・ヒー=ブーレ」と名乗った。
結婚生活に入った後、ヒー=ブーレはウィンブルドンで1996年・1997年の2年連続で4回戦に進出した。1996年アトランタ五輪では、2度目のオリンピック出場も果たし、シングルスは2回戦でモニカ・セレシュに敗れたが、ジル・ヘザリントンと組んだダブルスで準々決勝に進出した。同年の全米オープンでは、南アフリカのロザリン・ニデファーと組んだ女子ダブルスで準々決勝に進み、9年前の1987年全豪オープン女子ダブルスで井上悦子と組んだベスト4以来、久々のダブルス上位進出を決めた。ヒー=ブーレとニデファーは、準々決勝でマルチナ・ヒンギス&ヘレナ・スコバ組に 4-6, 4-6 で敗れた。同大会のシングルスでは、1回戦でガブリエラ・サバティーニに敗れた。(サバティーニはこれが最後の4大大会出場となり、同年末に26歳で現役を引退した。)
彼女の最後の活躍は、1997年ウィンブルドンの4回戦進出である。32歳を間近に控えていた彼女は、2年連続の4回戦でヤユク・バスキ(インドネシア)に 0-6, 6-7 で敗れた。1998年全米オープンの予選1回戦敗退を最後に、パトリシア・ヒー=ブーレは33歳で現役を引退した。2004年7月25日に「カナダテニス殿堂」入りを果たしている。
参考文献
編集- WTAツアー公式メディア・ガイド、1996年版 (ツアーサイトから、大半の伝記情報が消滅したため)
外部リンク
編集- パトリシア・ヒー=ブーレ - WTAツアーのプロフィール
- パトリシア・ヒー=ブーレ - ビリー・ジーン・キング・カップのプロフィール
- パトリシア・ヒー=ブーレ - 国際テニス連盟
- カナダ・スポーツ殿堂 (2004年7月、カナダテニス殿堂入りについて)