ピエール・モーロワ
ピエール・モーロワ(モロワ)(フランス語:Pierre Mauroy、発音例、1928年7月5日 - 2013年6月7日)は、フランスの政治家。社会党の闘士で、フランソワ・ミッテラン政権にて第8代フランス首相を務めた。
ピエール・モーロワ Pierre Mauroy | |
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生年月日 | 1928年7月5日 |
出生地 |
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没年月日 | 2013年6月7日(84歳没) |
死没地 |
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出身校 | カシャン国立通常学校 |
所属政党 | 社会党(PS) |
配偶者 | ジルベルト・デボウト |
子女 | 1人 |
在任期間 | 1981年5月21日 - 1984年7月17日 |
大統領 | フランソワ・ミッテラン |
経歴編集
1928年7月5日に北フランスのノール県カルティニーに誕生する。パリ南部近郊カシャンにある師範学校 (École normale nationale d'apprentissage) の研修生を経て、教職に就いていたが、1950年代から社会主義運動に参加、社会主義青年運動と技術教員組合で活動する。その後、ノール県の社会主義組織で頭角を現し、1966年には旧フランス社会党(SFIO)で、党書記長で後に首相を務めたギー・モレに続く党内ナンバー2となる。
1968年の総選挙と1969年の大統領選挙で左翼陣営は敗北を喫し、体制の立て直しを余儀無くされた。1971年のエピネー大会で社会主義者は大同団結し、新フランス社会党(PS。以下、社会党)を結成した。モーロワは第一書記にフランソワ・ミッテランを支持し、党内序列ナンバー2になった。社会党結成の2年後に行われた1973年のリール市長選挙に立候補して当選する。
1979年のメス大会では、反ミッテランのミシェル・ロカールと共同戦線を張るが、1981年フランス大統領選挙では、ミッテラン陣営のスポークスマンとしてミッテラン当選に貢献したことが認められて首相に就任した。モーロワ内閣の業績として、週39時間労働、60歳定年制、賃上げなどが上げられる。もっともモーロワは伝統的な社会主義的経済政策の限界を早くから悟り、社会主義的経済政策の放棄を主張した。1984年私立学校への補助金を削減できなかったことが政治問題化し、責任をとって総辞職した。
1988年に社会党第一書記に選出される。党首としては党内各派の対立緩和に動いた。ロカール派とミッテランの後継者であるリオネル・ジョスパンの派が党内における基盤であった。
1992年に社会主義インターナショナル議長に選出され1998年まで務めた。この他、1992年からフランス上院(元老院)議員に選出された。2007年フランス大統領選挙では、セゴレーヌ・ロワイヤルを支持している。
脚注編集
- ^ ピエール・モーロワさん死去 仏元首相、核実験に反対 朝日新聞 2013年6月7日
外部リンク編集
- MAUROY Pierre(元老院ホームページ)
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