フランシス・ガルニエ

フランシス・ガルニエフランス語: Francis Garnier1839年7月25日 - 1873年12月21日)は、フランス海軍士官探検家東南アジアメコン川の探険で知られる。本名はマリー・ジョゼフ・フランソワ・ガルニエフランス語: Marie Joseph François Garnier)で、ベトナム語ではガク・ニーベトナム語: Ngạc Nhi)、中国語ではと表記される。

フランシス・ガルニエ
Francis Garnier
Lieutenant de vaisseau Francis Garnier Angkor Vat 1866.jpg
アンコール・ワットでのガルニエ海軍大尉
1866年エミール・グセル英語版撮影)
生誕 (1839-07-25) 1839年7月25日
フランスの旗 フランス王国ロワール県サン=テティエンヌ
死没 (1873-12-21) 1873年12月21日(34歳没)
大南河内
所属組織 フランス海軍
軍歴 1857年 - 1873年
最終階級 大尉
墓所 フランスの旗 フランス共和国、コーチシナ植民地、サイゴン、マッシージュ通り墓地
フランスの旗 フランスパリ6区、カミーユ=ジュリアン広場(改葬)
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生涯編集

初期の経歴編集

1839年7月25日レジティミストの子としてロワール県サン=テティエンヌに生まれる。モンペリエリセで教育を受けた後、1856年海軍士官学校英語版に入学した。翌年の卒業後はフランス海軍に入り、ブラジル近辺や太平洋への航海を経験した後、1860年2月から1861年11月までアロー戦争へ遠征したレオナール・ヴィクトル・シャルネール英語版提督の指揮下に入り、1860年10月の円明園略奪に加わった。

 
海軍中尉[1]時代のガルニエ

その後いったんフランスに帰国したガルニエはコーチシナに渡り、1863年には前任者のアンリ・リュニエールフランス語版に代わって、サイゴン(後のホーチミン市)近郊のチョロンにあった華人担当の監督官に任じられた。1864年1865年には、フランスのコーチシナにおける政治・経済・社会について分析した2冊の小冊子を出版した。

メコン川と長江の探険編集

フランス第二帝政下で海軍・植民地大臣であったプロスペル・ド・シャスルー=ローバ英語版侯爵が、メコン川流域への探険隊を派遣しようと決断したのは、ガルニエの提案があってのことであったが、この時点でガルニエはその指揮を執るには若すぎると思われ、探険隊の指揮権はエルネスト・ドゥダール・ド・ラグレ英語版海軍中佐に委ねられた。探検隊は1866年6月にピエール=ポール・ド・ラ・グランディエールフランス語版海軍中将の支援を受けてサイゴンを出発し、メコン川を遡上した。ガルニエは、雲南における回民反乱(パンゼーの乱)が建てた「スルターン・スレイマン政権」の本拠地大理への分遣隊の指揮者に志願し、この任務を成功させた。探検の途中、ドゥダール・ド・ラグレが雲南の東川で病死すると、ガルニエは当然のように指揮を引き継ぎ、一行を無事に長江(当時ヨーロッパでは「揚子江」と称されていた)まで導き、上海へと到達させた。

フランスへ帰国したガルニエは、熱烈な歓迎を受けた。1870年に、ガルニエがロンドン王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を授与された[2]時の、サーロデリック・マーチソンの言葉を引用するなら「カンボジアクラチエから、上海まで、5392マイルの行程のうち3625マイルはヨーロッパの地理学にとってほとんど未知の領域を通りながら、注意深い調査と、天文観察による測地を、ガルニエ自身がほとんど独力で行なった」という。探険記の執筆は普仏戦争の勃発によって中断を余儀なくされ、ガルニエはパリ攻囲戦英語版で士官として従軍した。この時の経験は、匿名で『ル・タン英語版』紙に連載され、翌1871年には『Le Siège de Paris, journal d'un officier de marine(パリ攻囲戦:ある海兵隊士官の日誌)』として出版された。

その後、コーチシナに戻ったガルニエは、当地の政治的情勢が、更に探険を進めるには好ましくない状況にあることを察してへと渡り、妻と共に上海に移り住んだ。1873年には長江上流部を遡行して滝線へと至った。

トンキンへの介入編集

 
大南の大臣であった阮知方中国語版の儀礼服。ガルニエのハノイ占領の際の戦利品(フランス軍事博物館蔵)

1873年の遅い時期、コーチシナ総督マリー・ジュール・デュプレフランス語版提督の命を受けたガルニエは、阮朝大南当局とフランス商人のジャン・デュピュイ英語版の間に起こっていた揉め事を解決するために、トンキンへ派遣された。事に乗じてトンキンを占領する機は熟していると確信したガルニエは、トンキンの首府だったハノイを1873年11月20日に占領した(トンキン事変中国語版)。続く数週間にわたって、ガルニエが指揮した少数のフランス軍は紅河デルタの城砦の大部分を支配下に収めた。自らの軍事力でフランス軍に対抗することを断念した大南は、清出身の傭兵隊である劉永福黒旗軍の派遣を要請した。

死去編集

ガルニエは謎の残る状況で死を迎えた。1873年12月21日、600名ほどの黒旗軍を引き連れた劉永福は、無数の黒旗を翻してハノイの西門に迫った。その後には、多数の大南勢が続いていた。ガルニエは、門上に据えた野砲で黒旗軍に砲撃を加え、敵がひるむと自ら十余名のフランス海兵隊の部隊を率いて城外に展開し、退却する敵を追い払おうとした。しかしこの追撃は失敗し、2名の兵を従えて銃剣での白兵攻撃を黒旗軍に対して加えていたガルニエは、水路に転倒した後、数名の黒旗軍兵士に刺し殺された。若い海軍中尉[1]アドリアン=ポール・バルニー・ダヴリクールフランス語版が、同様に少数の兵士とともにガルニエの救出を試みて城外へ出たが、彼も従卒たちの目の前で殺された。他にも3名のフランス兵がこの戦闘で戦死し、指揮官を失った残りの兵士たちは城内へ退却した[3]

フランス領インドシナの歴史を綴ったオーギュスト・トマジフランス語版大佐は、ガルニエの最期を次のように描写している[4]

12月21日の真昼、彼は大使たちと会談している最中だったが、通訳が駆けつけ、黒旗軍の連中が西門から攻撃を仕掛けていると告げた。彼は直ちに現場へ向かったが、配下の兵士たちの一部は先に現場へ到着しており、彼らの銃撃は敵方を竹垣の背後まで後退させるのに十分な威力を発揮していた。このとき、40ミリ砲が到着した。ガルニエは、1ダースほどの兵士を率い、うち3名がこの小さな砲を曳いて城外へ出て敵を蹴散らそうとした。しかし、砲は迅速に動く事ができず、砲は砲手たちとともに後方に取り残された。彼はついてきた9名を3班に分けた。2班は左右に分かれた後で、合流させることとし、彼自身は中央を進んだが、これに従う者は2名だけだった。町から1キロ半のところで、彼は水路に突き当たり、そこを渡ろうとして転倒した。水路の陰に隠れていた黒旗軍兵が駆け出し、他の者たちが発砲をはじめた。このとき、ガルニエに従っていた2名は、後方100メートルの位置にいた。このうち1人は銃撃で死に、もう1人は負傷した。ガルニエは「こっちへ来い、諸君、奴らを片づけよう!」 と叫んだ。彼はリボルバーを6回放ち、逃げようとしたが、彼を取り囲んだ敵兵たちは、刀や槍を彼に突き立てた、首を斬り、遺体を切り刻んで、逃走した。銃声を聞いて駆けつけた残りの2班は、血だらけの遺骸を回収して、ハノイ城内に持ち帰ることしかできなかった。

死後編集

ガルニエの死によって、フランスによる最初のトンキン支配の試みは潰え去った。フランス政府はガルニエの行為を公認せず、大南当局と和約を整える事を急ぎ、トンキンに対して掲げていた権利の主張の大部分を取り下げた。

ガルニエの遺骸は1875年にサイゴンに移送され、マッシージュ通り(rue Massiges)の墓地に、ドゥダール・ド・ラグレと並んで葬られた。

業績編集

ガルニエの名声は、彼がメコン川の探険を構想し、その大部分を成し遂げたという事実にもっぱら由来するものである。フランス領インドシナ時代には、その軍事的行動についても、1880年代に実現したフランスによるトンキン征服の先鞭を付けたものとして賞賛されていた。

ガルニエの名を冠したもの編集

 
カミーユ=ジュリアン広場のガルニエ記念碑。現在は遺灰が納められている

ガルニエの死から10年後の1883年、フランス海軍士官のアンリ・リヴィエール英語版が、トンキンで黒旗軍によって、驚くほど酷似した状況の下で殺された。

リヴィエールもガルニエ同様に、フランス領インドシナ時代にトンキン征服の特別な殉職者として賞賛されていた。

1884年清仏戦争の最中には、トンキン群英語版に所属していた砲艦2隻がガルニエとリヴィエール2人の名を与えられた。

1884年11月から1885年3月のトゥエンクアン包囲戦英語版の際、清軍の一部となっていた黒旗軍はフランス軍の陣営に向けて「ガルニエ!リヴィエール!ガルニエ!リヴィエール!」と、有名な戦死者たちの名を叫んで罵倒したという[5]

1943年、フランス領インドシナはガルニエを記念した切手を発行した。

パリ17区にはフランシス=ガルニエ通りフランス語版があり、アルジェリア民主人民共和国シュレフ県の都市ブニ・アウアフランス語版は、フランス統治時代には「フランシス・ガルニエ」と称されていた。

ガルニエの名を冠した艦として、駆逐艦英語版の他に砲艦(先述の砲艦とは別)があったが、第二次世界大戦中にカンボジアのクラチエ近くで日本軍との戦闘で自沈した[6]。戦後にはイタリア海軍から戦時賠償艦として編入された通報艦も登場した。

1973年シャンプレーン級中型揚陸艦の軽輸送艦(BATRAL)初期型の2番艦として、ガルニエの名を冠した揚陸艦英語版が登場した。この艦は長く現役にあり、2010年ハイチ地震の際には「ハイチ地震作戦2010英語版」に加わって、人道援助の任に就いた。同艦はマルティニークから、60名のフランス陸軍の兵員と車両や油圧ショベル類、その他の支援物資を輸送した[7]。翌2011年2月16日に退役となった。

1983年、ガルニエとドゥダール・ド・ラグレが埋葬されていたホーチミン市の墓地が撤去されることとなった際に、フランス総領事であったジャン=フランソワ・パロは、この二つの墓を徹底的に調査した。発掘した遺骸を火葬した総領事は、遺灰をシンガポールへ移送することを国防大臣のシャルル・エルニュ英語版に提案し、ヘリ空母ジャンヌ・ダルクと、護衛艦ドゥダール・ド・ラグレフィンランド語版が派遣された。移送中、艦上では式典が執行された。

1987年、パリ5区6区の境界の角のカミーユ=ジュリアン広場フランス語版にある、彫刻家デニス・ピュエシュ英語版によるガルニエの胸像を組み込んだ記念碑フランス語版に、ガルニエの遺灰が納められた。

脚注編集

  1. ^ a b フランス語のEnseigne de vaisseauは、海軍少尉ないし中尉に相当するが、いずれか確定できないため、とりあえず「中尉」と訳しておく。
  2. ^ Medals and Awards, Gold Medal Recipients (PDF)”. Royal Geographical Society. 2014年4月11日閲覧。
  3. ^ Thomazi, Conquête, 126–8
  4. ^ Thomazi, Conquête, 126–7
  5. ^ De Lonlay, 114
  6. ^ Soenthrith, Saing (2005年12月23日). “Kratie Set To Raise WWII Ship From the Deep”. The Cambodia Daily. 2013年10月18日閲覧。
  7. ^ “Haïti: un navire français en route”. Le Figaro. (2010年1月15日). http://www.lefigaro.fr/flash-actu/2010/01/15/01011-20100115FILWWW00732-haiti-un-navire-francais-en-route.php 2010年1月16日閲覧。 

参考文献編集

  • Baker, Daniel ed. Explorers and Discoverers of the World. Detroit: Gale Research, 1993
  • Lonlay, D. de, Le siège de Tuyen-Quan (Paris, 1886)
  • Milton Osborne, River Road to China: The Search for the Source of the Mekong, 1866-73 (Atlantic Monthly Press, 1999)ISBN 0-87113-752-6
  • Milton Osborne, "Francis Garnier (1839-1873), Explorer of the Mekong River", Explorers of South-east Asia, Six Lives, ed. Victor T. King, (Kuala Lumpur: OUP, 1995)
  • Milton Osborne, River Road to China: The Mekong River Expedition, 1866-1873 (London and New York, 1975)
  • The narrative of the principal expedition appeared in 1873, as Voyage d'exploration en Indo-Chine effectué pendant les années 1866, 1867 et 1868, publié sous la direction de M. Francis Garnier, avec le concours de M. Delaporte et de MM. Joubert et Thorel (2 vols.)- 当初は800部しか印刷されなかったため、原本は稀覯書となっている。
  • Transl. Walter E. J. Tips:
    • Travels in Cambodia and Part of Laos: the Mekong Exploration Commission report (1866-1868), volume 1 (White Lotus Press, 1996)
    • A pictorial journey on the old Mekong: Cambodia, Laos and Yunnan: the Mekong Exploration Commission report (1866-1868), volume 3 (White Lotus Press, 1998)
  • An account of the Yang-tsze-Kiang from Garnier's pen is given in the Bulletin de la Soc. de Geog. (1874).
  • His Chronique royale du Cambodje, was reprinted from the Journal Asiatique in 1872.
  • Ocean Highways (1874)for a memoir by Colonel Henry Yule
  • Hugh Clifford, "Further India", in the Story of Exploration series (1904).
  • John Keay, Mad About The Mekong ISBN 0-00-711115-0
  • Thomazi, A., La conquête de l'Indochine (Paris, 1934)

  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Garnier, Marie Joseph François". Encyclopædia Britannica (英語). 11 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 472.