ブクムモンゴル語: Buqumu憲宗5年(1255年) - 大徳4年6月13日1300年6月30日))は、13世紀後半にモンゴル帝国大元ウルス)に仕えたカンクリ人の一人。

元史』などの漢文史料では不忽木(bùhūmù)と表記される。

概要 編集

先祖 編集

ブクムは中央アジアのカンクリ部族の出で、祖父のカイラン・ベクはケレイト部族連合を率いるオン・カンに仕えた人物であった。ケレイトがチンギス・カンによって滅ぼされた後、カイラン・ベクは数千騎を率いて西北に去った。チンギス・カン・カンはカイラン・ベクを招聘しようとしたが、カイラン・ベクは「昔私は汝とともにオン・カンに仕えたが、今オン・カンは滅ぼされ、今になって汝に仕えるのは忍びない」と言ってカイラン・ベク自身は遂にチンギス・カンに仕えることはなかった。しかし、カイラン・ベクの10人の子供たちは皆チンギス・カンに降ってモンゴルに仕えるようになり、最も幼いエルチンは僅か6歳であったために荘聖皇后ソルコクタニ・ベキに育てられることになった[1]

成長したエルチンはソルコクタニの次男のクビライに仕えるようになり、やがて戦場でも活躍するようになった。しかし、1259年己未)に第4代皇帝モンケ・カアンが四川で急死すると、その後継者を巡って弟のクビライとアリク・ブケの間で対立が生じ、内戦(モンゴル帝国帝位継承戦争)が勃発するに至った。エルチンは早い段階から内戦の勃発を予想し、チャブイ・カトンを始めクビライの縁者を連れてカラコルムを離れ、ドロン・ノール(後の上都)でクビライと合流することに成功した。クビライが即位するとエルチンは大いに用いられるはずであったが、この頃病となり高官に就かないまま急死してしまった[2]

仕官 編集

エルチンの次男がブクムで、クビライはブクムを皇太子チンキムに仕えさせると同時に、王恂に師事させていた[3]。王恂がアリク・ブケとの内戦のため北方に赴いた後は許衡に学び、日ごとに数千の言葉を書き記したという。ブクムが16歳の時には、クビライの要求で『貞観政要』から10事を抜粋して献上した。また、許衡が編纂した歴代帝王の名諡・系統・歳年についても暗記し、ある時クビライ自らがその内容について試したところ、一言一句誤っていなかったために称賛されたという。至元13年(1276年)、堅童・太答・禿魯とともにモンゴル人教育等に関してクビライに上疏し、これを聞いたクビライは喜んだという[4][5]

至元14年(1277年)には利用少監とされ、至元15年(1278年)には燕南河北道提刑按察副使の地位を授けられた。この頃、通事のトクトがチベット仏教僧を護送して真定地方に至った時、駅更を轢いてしまったために按察使に訴えられたが、不問にされるという事件があった。ブクムは報告を受けると僧を獄に下し、これに抗議したトクトの訴えも退けた。トクトがクビライに事の次第を報告すると、クビライはブクムの判断を正しいとしたという[6]。至元19年(1282年)、提刑按察使に昇格となり、この頃浄州での窃盗案件を裁いている[7]

権臣との対立 編集

至元21年(1284年)、参議中書省事となったが、この頃時権茶転運使の盧世栄が宣政使のサンガに取り入り、国賦を10倍にするという問題が起こった。クビライがブクムにこの案件について問うと、ブクムは国と民を誤らせるものであるとして厳しく批判したが、クビライはサンガを信任してブクムの言を取り上げなかった。そこでブクムは職を辞して一時官界を去った。至元22年(1285年)に入ると盧世栄が罪を得て処刑されたため、クビライはブクムの正しさを認めて再び吏部尚書に任用した。この頃、尚書省の長官であったアフマドが暗殺されたことで張散札児ら配下の者たちの処遇が問題となっていた。張散札児の証言によって無墓の者にまで追求が及ぶことになり、事態を憂慮した丞相アントンがブクムに相談したところ、ブクムは張散札児の証言は処刑を少しでも延期させようとする虚言であって、急ぎ誅殺すべきであると答えた。これを受けてクビライはブクムの意見を採用して張散札児をすぐに処刑し、張散札児の証言によって捕らえられていた者たちも解放された[8]

至元23年(1286年)に入ると工部尚書とされ、同年9月には刑部尚書に移った[9]。至元24年(1287年)、廃止されていた尚書省がサンガを首班として復活し、サンガらによって参政の楊居寬・郭佑を誣告によって処刑しようとする事件が起こった。ブクムが争ってこれをやめさせたが、このためにブクムはサンガに恨まれるようになった。この頃、ブクムは妻に対して「ある日我が家を没しようする者がいたら、この者(サンガ)である」と語ったという[10]

至元27年(1290年)、翰林学士承旨・知制誥兼修国史とされた。至元28年(1291年)春、クビライが柳林にいる時、チェリクらがサンガを弾劾した。クビライがブクムに意見を求めたところ、ブクムもまたサンガの罪状を告発した。ここに至ってクビライもサンガの誅殺を決意し、尚書省も廃止されることになった。当初、クビライはブクムを新たな丞相にしようとしたが、ブクムは固辞してオルジェイを推薦したため、オルジェイが中書右丞相に、ブクムが平章政事に任じられることになった[11]

至元29年(1292年)、失敗に終わった陳朝(ベトナム)遠征が再計画されたが、ブクムは再出兵に反対し使者を派遣して朝貢を促すべきであると進言した。ブクムの進言が採用され使者を派遣したところ、陳朝側でも偽昭明王ら謝罪の使者が派遣され、貢物が献上された。これを喜んだクビライは貢物の半分をブクムに下賜しようとしたが、ブクムは辞して沉水假山・象牙鎮紙・水晶筆格のみを受け取ったという[12]。また、マジュドゥッディーン(麥朮丁)が尚書省の再設置を請うた際には、アフマド・サンガ時代の弊害を述べて反対し、遂に尚書省再設置は取りやめとされた[13]

至元30年(1293年)、彗星があらわれ、これを不安に思ったクビライは夜間にブクムを禁中に召し入れた。ブクムは故事を引きながら天変の道について講釈し、翌日盤珍を下賜されたという[14]。それから間もなくクビライは危篤状態となり、慣例ではモンゴル人かつ勲功ある者でしか側近くに寄れなかったが、ブクムは医薬の処方のため連日クビライの側を離れなかった。クビライの病状がいよいよ悪化すると、側近のオルルク・ノヤンバヤンが遺詔を受けた。この頃、丞相のオルジェイが到着したがクビライの側近くには入れず、オルルク・ノヤンとバヤンに「我はブクムよりも位は上であるのに、国の大議に預かれないのはどうしてか」と訴えたところ、バヤンは嘆息して「丞相にブクムほどの識慮があれば、我がかくのごとき労苦を負うことはなかっただろう」と述べたため、オルジェイは答えることができず改めて太后に事情を訴えた。オルルク・ノヤン、バヤンらの意見を聞いた太后は彼等の意見の正しさを認め、クビライ没後の庶務も全てブクムに委ねられたという[15]

オルジェイトゥ・カアンの治世 編集

至元31年(1294年)にクビライが崩御すると、他の廷臣とともに皇太子テムルを上都にて迎え、テムルは成宗オルジェイトゥ・カアンとして即位した。なお、ブクムはクビライ存命中からテムルを後継者に指名するよう計らったり[16]、テムルの側近であるオルジェイと政治的に近い立場にあるなど、即位以前からテムルを支持する一人であったようである[17]。オルジェイトゥ・カアンはクビライの時代同様に重臣として仕えて欲しいとブクムに語りかけ、太后ココジン・カトンもブクムを「先朝の旧臣」として厚く遇したという[18]

しかし、オルジェイトゥ・カアンの治世では先代に比べ、タムパを代表とするチベット仏教僧が影響力を広めていることが問題となっていた[19]。とりわけ問題視されていたのが「仏教僧が善行である罪人の赦免を建前に、賄賂を取って囚人の釈放を働きかける」いわゆる「免囚運動」で、ブクムはこれについて「人倫は王政の本、風化の基であって、どうしてかくのごとき法の乱れを容認できようか」と痛烈に批判した[20]。しかしオルジェイトゥ・カアンはこの弊害を改めることなく、むしろブクムに休職を勧める有様であった。ブクムの廉直な姿勢は同僚の反感を呼び、陝西行省平章政事に任じて中央から遠ざけるべきであるとの声も挙がったが、この時はココジン・カトンがオルジェイトゥ・カアンを諫めて取りやめとなっている。しかしこれ以後もブクムと同僚の対立は続き、遂にブクムは病と称して出仕をやめるようになった。元貞2年(1296年)春、ブクムは便殿に召し出され、オルジェイトゥ・カアンが「朕は卿が病を称する理由を知っている。卿は人に従うことができず、他の者もまた卿に従うことができない。朕は卿に代えて段貞を用いようと考えているがどうか」と問いかけた所、ブクムは「段貞はまさに臣に勝る人物です」と答えたたため、改めて昭文舘大学士・平章軍国重事の地位を授けられたという[21]

大徳2年(1298年)、御史中丞の崔彧が亡くなると、新たに行中丞事を命じられた。大徳3年(1299年)、侍儀司事を兼ねたが、翌大徳4年(1300年)6月に病となり46歳にして亡くなった。ブクムの死が報ぜられるとオルジェイトゥ・カアンは驚き悼み、士大夫は皆声を失ったという[22][23]

回回とキキ(巎巎)という息子がおり、特に後者は能書家として知られている[24]

人柄 編集

ブクムは大元ウルスの高官でありながら非常に質素な生活をしており、華美な装飾を慎み、下賜があっても不要な分は親しい者達に分け与えていたという[25]。これは父のエルチンが高官にならず早世したことが影響したこと、その後許衡に学んだことが影響したと考えられ、ブクムの質素な生活は息子達にも受け継がれている[26][27]

また、『元史』巻176李元礼伝などによると漢文文書をモンゴル語に訳して読むことができたいう[28]

ブクム家 編集

  • カイラン・ベク(Qairan beg >海藍伯,hǎilánbǎi)
    • エルチン(Elčin >燕真,yànzhēn)
      • ブクム(Buqumu >不忽木,bùhūmù)
        • 回回
        • キキ(kiki >巎巎,náonáo)

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「不忽木一名時用、字用臣、世為康里部大人。康里、即漢高車国也。祖海藍伯、嘗事克烈王可汗。王可汗滅、即棄家従数千騎望西北馳去、太祖遣使招之、答曰『昔与帝同事王可汗、今王可汗既亡、不忍改所事』。遂去、莫知所之。子十人、皆為太祖所虜、燕真最幼、年方六歳、太祖以賜荘聖皇后」
  2. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「后憐而育之、遣侍世祖於藩邸。長従征伐、有功。世祖威名日盛、憲宗将伐宋、命以居守。燕真曰『主上素有疑志、今乗輿遠涉危難之地、殿下以皇弟独処安全、可乎』。世祖然之、因請従南征。憲宗喜、即分兵命趨鄂州、而自将攻蜀之釣魚山、令阿里不哥居守。憲宗崩、燕真統世祖留部、覚阿里不哥有異志、奉皇后稍引而南、与世祖会于上都」
  3. ^ 北村1984,24頁
  4. ^ 北村1984,25-26頁
  5. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「世祖即位、燕真未及大用而卒、官止衛率。不忽木其仲子也、資禀英特、進止詳雅、世祖奇之、命給事裕宗東宮、師事太子賛善王恂。恂従北征、乃受学於国子祭酒許衡。日記数千言、衡每称之、以為有公輔器。世祖嘗欲観国子所書字、不忽木年十六、独書貞観政要数十事以進、帝知其寓規諫意、嘉歎久之。衡纂歴代帝王名諡・統系・歳年、為書授諸生、不忽木読数過即成誦、帝召試、不遺一字。至元十三年、与同舍生堅童・太答・禿魯等上疏曰……。書奏、帝覽之喜」
  6. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「十四年、授利用少監。十五年、出為燕南河北道提刑按察副使。帝遣通事脱虎脱護送西僧往作仏事、還過真定、箠駅吏幾死、訴之按察使、不敢問。不忽木受其狀、以僧下獄。脱虎脱直欲出僧、辞気倔強、不忽木令去其冠庭下、責以不職。脱虎脱逃帰以聞、帝曰『不忽木素剛正、必爾輩犯法故也』。継而燕南奏至、帝曰『我固知之』」
  7. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「十九年、陞提刑按察使。有訟浄州守臣盜官物者、浄州本隸河東、特命不忽木往按之、帰報称旨、賜白金千両・鈔五千貫」
  8. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「二十一年、召参議中書省事。時榷茶転運使盧世栄阿附宣政使桑哥、言能用己、則国賦可十倍於旧。帝以問不忽木、対曰『自昔聚斂之臣、如桑弘羊・宇文融之徒、操利術以惑時君、始者莫不謂之忠、及其罪稔悪著、国与民俱困、雖悔何及。臣願陛下無納其説』。帝不聴、以世栄為右丞、不忽木遂辞参議不拝。二十二年、世栄以罪被誅、帝曰『朕殊愧卿』。擢吏部尚書。時方籍没阿合馬家、其奴張散札児等罪当死、繆言阿合馬家貲隱寄者多、如尽得之、可資国用。遂鈎考捕繫、連及無辜、京師騷動。帝頗疑之、命丞相安童、集六部長貳官詢問其事、不忽木曰『是奴為阿合馬心腹爪牙、死有餘罪。為此言者、蓋欲苟延歳月、徼幸不死爾。豈可復受其誑、嫁禍善良耶。急誅此徒、則怨謗自息』。丞相以其言入奏、帝悟、命不忽木鞫之、具得其実、散札児等伏誅、其捕繫者尽釈之」
  9. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「二十三年、改工部尚書。九月、遷刑部。河東按察使阿合馬以貲財諂媚権貴、貸銭於官、約償羊馬、至則抑取部民所産以輸。事覚、遣使按治、皆不伏、及不忽木往、始得其不法百餘事。会大同民饑、不忽木以便宜発倉廩賑之。阿合馬所善幸臣奏不忽木擅発軍儲、又鍛鍊阿合馬使自誣服。帝曰『使行発粟以活吾民、乃其職也、何罪之有』。命移其獄至京師審視、阿合馬竟伏誅。吐土哈求欽察之為人奴者増益其軍、而多取編民。中書僉省王遇驗其籍改正之。吐土哈遂奏遇有不臣語。帝怒欲斬之、不忽木諫曰『遇始令以欽察之人奴為兵、未聞以編民也。万一他衛皆倣此、戸口耗矣。若誅遇、後人豈肯為陛下尽職乎』。帝意解、遇得不死」
  10. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「二十四年、桑哥奏立尚書省、誣殺参政楊居寬・郭佑。不忽木争之不得、桑哥深忌之、嘗指不忽木謂其妻曰『他日籍我家者此人也』。因其退食、責以不坐曹理務、欲加之罪、遂以疾免。車駕還自上都、其弟野礼審班侍坐輦中、帝曰『汝兄必以某日来迎』。不忽木果以是日至。帝見其癯甚、問其祿幾何、左右対以滿病假者例不給、帝念其貧、命尽給之」
  11. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「二十七年、拝翰林学士承旨・知制誥兼修国史。二十八年春、帝獵柳林、徹里等劾奏桑哥罪狀、帝召問不忽木、具以実対。帝大驚、乃決意誅之。罷尚書省、復以六部帰于中書、欲用不忽木為丞相、固辞、帝曰『朕過聴桑哥、致天下不安、今雖悔之、已無及矣。朕識卿幼時、使卿従学、政欲備今日之用、勿多讓也』。不忽木曰『朝廷勳旧齒爵居臣右者尚多、今不次用臣、無以服衆』。帝曰『然則孰可』。対曰『太子詹事完沢可。嚮者籍没阿合馬家、其賂遺近臣、皆有簿籍、唯無完沢名。又嘗言桑哥為相、必敗国事、今果如其言、是以知其可也』。帝曰『然非卿無以任吾事』。乃拝完沢右丞相、不忽木平章政事。上都留守木八剌沙言改按察司置廉訪司不便、宜罷去、乃求憲臣贓罪以動上聴。帝以責中丞崔彧、彧謝病不知、不忽木面斥彧不直言、因歴陳不可罷之説、帝意乃釈」
  12. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「王師征交趾失利、復謀大挙、不忽木曰『島夷詭詐、天威臨之、寧不震懼、獣窮則噬、勢使之然。今其子日燇襲位、若遣一介之使、諭以禍福、彼能悔過自新、則不煩兵而下矣。如或不悛、加兵未晚』。帝従之。於是交趾感懼、遣其偽昭明王等詣闕謝罪、尽献前六歳所当貢物。帝喜曰『卿一言之力也』。即以其半賜之、不忽木辞曰『此陛下神武不殺所致、臣何功焉』。惟受沉水假山・象牙鎮紙・水晶筆格而已」
  13. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「麥朮丁請復立尚書省、專領右三部、不忽木庭責之曰『阿合馬・桑哥相継誤国、身誅家没、前鑒未遠、奈何又欲效之乎』。事遂寢。或勧征流求、及賦江南包銀、皆諫止之。桑哥党人納速剌丁等既誅、帝以忻都長於理財、欲釈不殺。不忽木力争之、不従。日中凡七奏、卒正其罪。釈氏請以金銀幣帛祠其神、帝難之。不忽木曰『彼仏以去貪為宝』。遂弗与。或言京師蒙古人宜与漢人間処、以制不虞。不忽木曰『新民乍遷、猶未寧居、若復紛更、必致失業。此蓋姦人欲擅貨易之利、交結近幸、借為納忠之説耳』。乃図寫国中貴人第宅已与民居犬牙相制之狀上之而止。有譖完沢徇私者、帝以問不忽木。対曰『完沢与臣俱待罪中書、設或如所言、豈得專行。臣等雖愚陋、然備位宰輔、人或発其陰短、宜使面質、明示責降、若内懐猜疑、非人主至公之道也』。言者果屈、帝怒、命左右批其頰而出之。是日苦寒、解所御黑貂裘以賜。帝每顧侍臣、称塞咥旃之能、不忽木従容問其故、帝曰『彼事憲宗、常陰資朕財用、卿父所知。卿時未生、誠不知也』。不忽木曰『是所謂為人臣懐二心者。今有以内府財物私結親王、陛下以為若何』。帝急揮以手曰『卿止、朕失言』」
  14. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「三十年、有星孛于帝座。帝憂之、夜召入禁中、問所以銷天変之道、奏曰『風雨自天而至、人則棟宇以待之。江河為地之限、人則舟楫以通之。天地有所不能者、人則為之、此人所以与天地参也。且父母怒、人子不敢疾怨、惟起敬起孝。故易震之象曰『君子以恐懼修省』、詩曰『敬天之怒』、又曰『遇災而懼』。三代聖王、克謹天戒、鮮不有終。漢文之世、同日山崩者二十有九、日食地震頻歳有之、善用此道、天亦悔禍、海内乂安。此前代之龜鑑也、臣願陛下法之』。因誦文帝日食求言詔。帝悚然曰『此言深合朕意、可復誦之』。遂詳論款陳、夜至四鼓。明日進膳、帝以盤珍賜之」
  15. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「三十年、帝不豫。故事、非国人勳旧不得入臥内。不忽木以謹厚、日視医薬、未嘗去左右。帝大漸、与御史大夫月魯那顔・太傅伯顔並受遺詔、留禁中。丞相完沢至、不得入、伺月魯那顔・伯顔出、問曰『我年位俱在不忽木上、国有大議而不預、何耶』。伯顔歎息曰『使丞相有不忽木識慮、何至使吾属如是之労哉』。完沢不能対、入言於太后。太后召三人問之。月魯那顔曰『臣受顧命、太后但観臣等為之。臣若誤国、即甘伏誅、宗社大事、非宮中所当預知也』。太后然其言、遂定大策。其後発引・升祔・請諡南郊、皆不忽木領之」
  16. ^ 吉野2009,43頁
  17. ^ 吉野2009,46頁
  18. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「成宗即位、執政皆迎於上都之北。丞相常独入、不忽木至数日乃得見、帝問知之、慰労之曰『卿先朝腹心、顧朕寡昧、惟朝夕啟沃、以匡朕不逮、庶無負先帝付託之重也』。成宗躬攬庶政、聴断明果、廷議大事多采不忽木之言。太后亦以不忽木先朝旧臣、礼貌甚至」
  19. ^ 野上1978,271-272頁
  20. ^ 野上1978,29-280頁
  21. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「東守臣献嘉禾、大臣欲奏以為瑞。不忽木語之曰『汝部内所産尽然耶。惟此数莖耶』。曰『惟此数莖爾』。不忽木曰『若如此、既無益於民、又何足為瑞』。遂罷遣之。西僧為仏事、請釈罪人祈福、謂之禿魯麻。豪民犯法者、皆賄賂之以求免。有殺主・殺夫者、西僧請被以帝后御服、乗黄犢出宮門釈之、云可得福。不忽木曰『人倫者、王政之本、風化之基、豈可容其乱法如是』。帝責丞相曰『朕戒汝無使不忽木知、今聞其言、朕甚愧之』。使人謂不忽木曰『卿且休矣。朕今従卿言、然自是以為故事』。有奴告主者、主被誅、詔即以其主所居官与之。不忽木言『若此必大壞天下之風俗、使人情愈薄、無復上下之分矣』。帝悟、為追廃前命。執政奏以為陝西行省平章政事、太后謂帝曰『不忽木朝廷正人、先皇帝所付託、豈可出之於外耶』。帝復留之。竟以与同列多異議、称疾不出。元貞二年春、召至便殿、曰『朕知卿疾之故、以卿不能従人、人亦不能従卿也。欲以段貞代卿、如何』。不忽木曰『貞実勝於臣』。乃拝昭文舘大学士・平章軍国重事。辞曰『是職也、国朝惟史天沢嘗為之、臣何功敢当此』。制去『重』字」
  22. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「大徳二年、御史中丞崔彧卒、特命行中丞事。三年、兼領侍儀司事。有因父官受賄賂、御史必欲帰罪其父、不忽木曰『風紀之司、以宣政化・勵風俗為先、若使子證父、何以興孝』。枢密臣受人玉帯、徵贓不敍、御史言罰太軽、不忽木曰『礼、大臣貪墨、惟曰簠簋不飾、若加笞辱、非刑不上大夫之意』。人称其平恕。四年、病復作、帝遣医治之、不效、乃附奏曰『臣孱庸無取、叨承眷渥、大限有終、永辞昭代』。引觴滿飲而卒、年四十六。帝聞之驚悼、士大夫皆哭失声」
  23. ^ 『新元史』巻14, 成宗紀下 大徳四年六月丁巳条
  24. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「子回回、陝西行省平章政事;巎巎、由江浙行省平章政事入為翰林学士承旨」
  25. ^ 北村1984,23頁
  26. ^ 北村1984,24頁
  27. ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝「家素貧、躬自爨汲、妻織紝以養母。後因使還、則母已死、号慟嘔血幾不起。平居服儒素、不尚華飾。禄賜有餘、即散施親旧。明於知人、多所薦拔、丞相哈剌哈孫答剌罕亦其所薦也。其学、先躬行而後文芸。居則簡默、及帝前論事、吐辞洪暢、引義正大、以天下之重自任、知無不言。世祖嘗語之曰『太祖有言、人主理天下、如右手持物、必資左手承之、然後能固。卿実朕之左手也』。每侍燕間、必陳説古今治要、世祖每拊髀歎曰『恨卿生晚、不得早聞此言、然亦吾子孫之福』。臨崩、以白璧遺之、曰『他日持此以見朕也』。武宗時、贈純誠佐理功臣・太傅・開府儀同三司・上柱国・魯国公、諡文貞」
  28. ^ 北村1984,26頁

参考文献 編集

  • 北村高「元代トルコ系色目人・康里キキについて」『竜谷史壇』第85号、1984年
  • 植松正『元代江南政事社会史研究』汲戸書院、1997年
  • 櫻井智美「元代集賢院の設立」『史林』83(3)、2000年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 野上俊静『元史釈老伝の研究』野上俊静博士頌寿記念刊行会、1978年
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱:二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年
  • 元史』巻130列伝17不忽木伝
  • 新元史』巻198列伝95不忽木伝

外部リンク 編集