ベン・ウォーレス
ベン・ケミー・ウォーレス(Ben Camey Wallace, 1974年9月10日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州ホワイトホール出身の元プロバスケットボール選手。
![]() 現役時代のウォーレス | |
引退 | |
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永久欠番 | ピストンズ 3 |
ポジション(現役時) | C |
背番号(現役時) | 30,4,3,6 |
身長(現役時) | 206cm (6 ft 9 in) |
体重(現役時) | 110kg (243 lb) |
足のサイズ | 33.0cm |
基本情報 | |
本名 | Ben Camey Wallace |
愛称 | Big Ben |
ラテン文字 | Ben Wallace |
誕生日 | 1974年9月10日(45歳) |
国 |
![]() |
出身地 | アラバマ州ホワイトホール |
出身 | バージニア・ユニオン大学 |
ドラフト | 1996年 ドラフト外 |
選手経歴 | |
1996-1999 1999-2000 2000-2006 2006-2008 2008-2009 2009-2012 |
ワシントン・ブレッツ オーランド・マジック デトロイト・ピストンズ シカゴ・ブルズ クリーブランド・キャバリアーズ デトロイト・ピストンズ |
受賞歴 | |
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類まれなるフィジカルの強さと驚くべき身体能力を有していた。過去に四度もNBA最優秀守備選手賞を受賞しており、高い守備能力を発揮するディフェンシブプレイヤーであり、特にバスケット下での守備は無類の強さを誇った[1]。ドラフト外からNBA入りした苦労人で、叩き上げのスターであった[2]。
経歴編集
学生時代編集
11人兄弟の10番目で[3]、幼少時代は兄弟とバスケットボールに打ち込んだ。弟分のベンはろくにパスをもらえず、この頃から既にリバウンドとディフェンスに精を出していたという。高校時代はバスケットの他にアメリカンフットボール、野球をやっておりいずれも州の代表に選ればれるほどのアスリートだった。にもかかわらず大学からはフットボーラーとしてのスカウトはあってもバスケットボーラーとしてのスカウトは無かったという。クリーブランドのクヤホガ・コミュニティカレッジで2年プレー後、高校時代からベンに注目していたチャールズ・オークリーの推薦で2部リーグ校バージニア・ユニオン大学に編入[3]。卒業後はNBA入りを熱望していたが、ドラフトでどのチームからも指名されず、ボストン・セルティックスのサマーリーグに参加したが身長の低さからゴール下から3ポイントライン付近に配置され、実力の発揮できなかった彼は解雇された[3]。イタリアでプレイした後、ワシントン・ブレッツのGMウェス・アンセルドに関心を持たれブレッツに入団した[3]。
NBA編集
当初は十分な出場機会を与えられなかったが、クリス・ウェバーが退団した後、出場機会を増やし[3]、控えながら得意のリバウンドとディフェンスでアピールした。1999-2000シーズン開幕前に、ベンのディフェンスに目をつけたオーランド・マジックにアイザック・オースティンとのトレードで移籍[3]、マジックでは出場した81試合全てに先発出場を果たした。1試合平均13.2リバウンド、1.6ブロックと、ディフェンス面で持ち味を十二分に発揮し、前評判の非常に低かったチームをプレーオフ後一歩まで引き上げる要因となった。2000年8月3日に、チャッキー・アトキンスと共にグラント・ヒルとのトレードでデトロイト・ピストンズへ移籍した[3]。
ピストンズ移籍後は、脅威のディフェンス力を発揮しリーグを代表するインサイドプレーヤーとして開花。ベンは2001-02、2002-03、2004-05、2005-06の計4シーズンに渡りNBA最優秀守備選手賞を獲得。特に2001-02シーズンはリバウンドとブロックショットのタイトルを同時に制した史上4人目の選手となった(他の3人はカリーム・アブドゥル=ジャバー、ビル・ウォルトン、アキーム・オラジュワン)[3]。翌2002-03シーズンも2年連続リバウンド王を獲得した。2003-04シーズンにはチャウンシー・ビラップス、ラシード・ウォーレスら強力なチームメイトを得てNBAファイナルに進出。第5戦では18得点、22リバウンドを記録、最強のセンター、シャキール・オニール率いるレイカーズを4勝1敗で退け、NBAチャンピオンに輝いた[3]。翌2004-05シーズンもファイナルに進出。サンアントニオ・スパーズに敗れたものの、ウォーレスは自己最高成績の9.7得点を挙げる。2003年のオールスターでは東カンファレンスの先発センターとして出場している。当時のベンの人気は非常に高く、ピストンズのホームコートは彼のトレードマークであったアフロヘアのウィッグを被ったファンで賑わっていた[3]。しかし、新ヘッドコーチのフリップ・サウンダース体制の下で徐々に居場所を失っていった。
2006年7月13日、ウォーレスはシカゴ・ブルズと契約した。しかしシーズン開幕から自身もチームも不調、さらにチームで禁止されているヘッドバンドをつけスコット・スカイルズHCと対立など、序盤は苦しいシーズンを送ったものの、チームメイトの活躍、そして自身の調子も上がり、3年連続のプレーオフ進出に貢献したがカンファレンスセミファイナルで古巣のピストンズに敗れた。
2008-09シーズン、レードデッドラインの2008年2月21日、3チーム11人が絡む大型トレードにてシカゴ・ブルズからクリーブランド・キャバリアーズへと移籍した[4]。しかし、この頃から故障により欠場が増え個人成績は低迷するようになり、2009年のNBAファイナル終了後は一時、引退を匂わす発言もしたがシャキール・オニールとのトレードでサーシャ・パブロビッチと共にフェニックス・サンズへ移籍することが決まった。
2009年7月13日、サンズはウォーレスをバイアウトし、ウォーレスは引退を決意した。 しかしリチャード・ハミルトン、テイショーン・プリンスのピストンズの黄金期を共に築いた2人の友の説得により2009年8月7日、ウォーレスはピストンズとベテランミニマムで契約することに合意、キャリアの中でも栄光の時期を過ごした古巣に戻ることになった。
2012年2月、このシーズン限りで現役を引退すると表明した[5]。
2016年1月16日のゴールデンステート・ウォリアーズ戦のハーフタイムにデトロイト・ピストンズ時代に着用していた背番号「3」の永久欠番授与式が執り行われた[6]。2004年優勝時のヘッドコーチのラリー・ブラウン、チームメートのラシード・ウォレス、テイショーン・プリンスらと共に観戦したゲームは、ピストンズが昨年チャンピオンのウォリアーズを圧倒して勝利した[7]。
個人成績編集
略称説明 | |||||
---|---|---|---|---|---|
GP | 出場試合数 | GS | 先発出場試合数 | MPG | 平均出場時間 |
FG% | フィールドゴール成功率 | 3P% | スリーポイント成功率 | FT% | フリースロー成功率 |
RPG | 平均リバウンド数 | APG | 平均アシスト数 | SPG | 平均スティール数 |
BPG | 平均ブロック数 | TO | 平均ターンオーバー数 | PPG | 平均得点 |
太字 | キャリアハイ | リーグリーダー | 優勝シーズン |
† | NBAチャンピオン |
* | リーグリーダー |
レギュラーシーズン編集
シーズン | チーム | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996–97 | WAS | 34 | 0 | 5.8 | .348 | .000 | .300 | 1.7 | .1 | .2 | .3 | 1.1 |
1997–98 | WAS | 67 | 16 | 16.8 | .518 | .000 | .357 | 4.8 | .3 | .9 | 1.1 | 3.1 |
1998–99 | WAS | 46 | 16 | 26.8 | .578 | .000 | .356 | 8.3 | .4 | 1.1 | 2.0 | 6.0 |
1999–2000 | ORL | 81 | 81 | 24.2 | .503 | .000 | .474 | 8.2 | .8 | .9 | 1.6 | 4.8 |
2000–01 | DET | 80 | 79 | 34.5 | .490 | .250 | .336 | 13.2 | 1.5 | 1.3 | 2.3 | 6.4 |
2001–02 | DET | 80 | 80 | 36.5 | .531 | .000 | .423 | 13.0* | 1.4 | 1.7 | 3.5* | 7.6 |
2002–03 | DET | 73 | 73 | 39.4 | .481 | .167 | .450 | 15.4* | 1.6 | 1.4 | 3.2 | 6.9 |
2003–04
† |
DET | 81 | 81 | 37.7 | .421 | .125 | .490 | 12.4 | 1.7 | 1.8 | 3.0 | 9.5 |
2003–04 | DET | 74 | 74 | 36.1 | .453 | .111 | .428 | 12.2 | 1.7 | 1.4 | 2.4 | 9.7 |
2004–05 | DET | 82 | 82 | 35.2 | .510 | .000 | .416 | 11.3 | 1.9 | 1.8 | 2.2 | 7.3 |
2005–06 | CHI | 77 | 77 | 35.0 | .453 | .200 | .408 | 10.7 | 2.4 | 1.4 | 2.0 | 6.4 |
2006–07 | CHI | 50 | 50 | 32.5 | .373 | .000 | .424 | 8.8 | 1.8 | 1.4 | 1.6 | 5.1 |
2007–08 | CLE | 22 | 22 | 26.3 | .457 | .000 | .432 | 7.4 | .6 | .9 | 1.7 | 4.2 |
2008–09 | CLE | 56 | 53 | 23.5 | .445 | .000 | .422 | 6.5 | .8 | .9 | 1.3 | 2.9 |
2009–10 | DET | 69 | 67 | 28.6 | .541 | .000 | .406 | 8.7 | 1.5 | 1.2 | 1.2 | 5.5 |
2010–11 | DET | 54 | 49 | 22.9 | .450 | .500 | .333 | 6.5 | 1.3 | 1.0 | 1.0 | 2.9 |
2011–12 | DET | 62 | 11 | 15.8 | .395 | .250 | .340 | 4.3 | .7 | .8 | .8 | 1.4 |
Career | 1088 | 912 | 29.5 | .474 | .137 | .414 | 9.6 | 1.3 | 1.3 | 2.0 | 5.7 | |
All-Star | 4 | 2 | 21.5 | .400 | .000 | .000 | 7.0 | .5 | 2.0 | 1.2 | 3.0 |
プレイオフ編集
シーズン | チーム | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | Detroit | 10 | 10 | 40.8 | .475 | .000 | .436 | 16.1 | 1.2 | 1.9 | 2.6 | 7.3 |
2003 | Detroit | 17 | 17 | 42.5 | .486 | .000 | .446 | 16.3 | 1.6 | 2.5 | 3.1 | 8.9 |
2004† | Detroit | 23 | 23 | 40.2 | .454 | .000 | .427 | 14.3 | 1.9 | 1.9 | 2.4 | 10.3 |
2005 | Detroit | 25 | 25 | 39.2 | .481 | .000 | .461 | 11.3 | 1.0 | 1.7 | 2.4 | 10.0 |
2006 | Detroit | 18 | 18 | 35.7 | .465 | .000 | .273 | 10.5 | 1.7 | 1.3 | 1.2 | 4.7 |
2007 | Chicago | 10 | 10 | 36.9 | .566 | .000 | .500 | 9.5 | 1.4 | 1.5 | 1.7 | 8.7 |
2008 | Cleveland | 13 | 13 | 23.4 | .515 | .000 | .350 | 6.5 | 1.2 | .6 | 1.1 | 3.2 |
2009 | Cleveland | 14 | 0 | 12.6 | .615 | .000 | .000 | 2.7 | .3 | .3 | .3 | 1.1 |
Career | 130 | 116 | 34.8 | .482 | .000 | .418 | 11.2 | 1.3 | 1.5 | 1.9 | 7.2 |
プレイスタイル編集
2000年代のNBAを代表するディフェンダーであり、NBA最優秀守備選手賞を四度も受賞するほどの卓越した守備技術を発揮した。身長206cm(実寸は200cm程度と公言)とサイズに恵まれていないが、フィジカルの強さと守備技術の高さからセンターを務めていた。
ペイントエリアを主戦場にするセンターとして上背にかけるが、筋肉質な肉体(体脂肪率4.0%未満)、図抜けた怪力(ベンチプレスMAX209kg)、長い腕(ウィングスパン230cm)、高い身体能力(垂直跳び107cm)[8]を駆使して激しい肉弾戦を展開し、得意のブロックショットとスティールで圧倒的な存在感を示した。
ディフェンスでは最大級の評価を受ける一方で、オフェンスはリーグ最下層であった。オフェンスでの仕事は、リング付近のこぼれ球処理、味方へのスクリーンなど数字に残らないプレイに徹していた(ウォーレスはスクリーナーとしても一流)。リング付近からのダンクによる得点以外は、実質的にシュートバリエーションを備えていなかった。特にフリースローはキャリア通算41.8%とリーグ最下層である。相手チームからは「ハック・ア・シャック」ならぬ「ワック・ア・ウォレス」の標的となっていた。手首に古傷を抱えている影響もあって、フリースローではエアボールを放つことも珍しくなかった[9]。
その他編集
- 2001-02シーズン、好調ピストンズの原動力となったベンとジェリー・スタックハウスの二人で「ben & jerry'sアイスクリーム」の宣伝キャラクターを務めていた。
- 手首の関節に異常があり、スナップを利かせると骨が外れカクカクなるためシュートが入らない。フリースローの低確率の原因とされている。
- ヘアスタイルは彼の長年のトレードマークでコーンロウとアフロヘアの2通りがあった。コーン・ロウは頭皮に負担がかかるので7日経つと解いて、更に7日頭皮を休ませていた。因みにアフロの時の方がチームは勝率がいいため、プレーオフ期間はアフロであった。しかし、2008-2009シーズンの2月、オールスター休暇中の怪我(ローラーボードで遊んでいた際、誤って転倒し、自動車のガラスに右腕前腕部をぶつけ、10針縫った)を境に丸刈りになった(同時期にアレン・アイバーソンやカーメロ・アンソニーも丸刈りにした)。
- 2004-05シーズン前に盲腸炎の手術を受けた。
- 腕にロンドンにある時計台「BigBen」のタトゥーをいれている。これは、自身のニックネーム「ビッグ・ベン」とかけている。また、ウォーレスが交代してコートに入る時や得点した時など、キャブスのホーム、クイックン・ローンズ・アリーナでは「BigBen」の鐘が鳴らされる(全く同じ鐘が、ミルウォーキー・バックスのチャーリー・ベルについてもバックスのホーム、ブラッドリー・センターでは同様に流されている)。
- 現在でも8人の男兄弟の中で最も身長が低い。
- ヘアバンドを常時着用している。
タイトル・記録編集
- 最優秀守備選手賞:2002、2003、2005、2006
- オールNBAディフェンシブ
- 1stチーム:2002、2003、2004、2005、2006
- 2ndチーム:2007
- オールスター出場:2003〜2006
- リバウンド王(1試合平均):2002 (13.0)、2003 (15.4)
- ブロック王(1試合平均):2002 (3.5)
- 4シーズン連続で1000リバウンド、100ブロック、100スティールを記録した唯一の選手。
- ドラフト外からオールスターの先発に選出された唯一の選手。
- 最優秀守備選手賞を4回獲得したのはディケンベ・ムトンボとウォーレスのみ。
脚注編集
- ^ 中山恵『スーパスターに学ぶバスケットボール』株式会社ナツメ社、2003年、119ページ、ISBN 4-8163-3437-8
- ^ 『マッスル・アンド・フィットネス 2007年1月号』2013年11月18日閲覧
- ^ a b c d e f g h i j ““叩き上げ”のNBAスター ベン・ウォーレス”. xfit.jp. 2012年3月20日閲覧。
- ^ “Cavs get Wallace from Bulls, Szczerbiak from Sonics”. ESPN (2008年2月22日). 2012年3月21日閲覧。
- ^ “B・ウォーレスが現役引退を表明”. nba.co.jp (2012年2月14日). 2012年3月20日閲覧。
- ^ First among equals, Ben Wallace’s jersey about to join those of Bad Boys heroes in Palace rafters
- ^ NBA Game Info GSW vs. DET(2016/01/16) NBA.com 2016年01月16日
- ^ 『スーパースターに学ぶバスケットボール ナツメ社 2003年8月30日発行』2013年11月18日閲覧
- ^ 『月刊DUNK SHOOT 2010年11月号増刊 日本スポーツ企画出版社』2013年11月18日閲覧